三千世界 弐ノ八 そぞろに歩き続けたが、その土の蛇は綜真を振り返ったようだった。 顔のない蛇の視線を感じるのというのも奇妙なものだが、源の動きがそうだったのだから他に言いようもない。 ここからは生き物の匂いを拡散するために風を纏わり付かせて気配を曖昧にする。 元々気配を殺す術は心得ているので、風まで纏えば恐れることはなかった。灯成も気配の消し方くらいは知っているだろう。 猿たちはどうか知らないが、ここで向こう側に居場所を悟られると面倒で風だけでも呼んだ。 「感付かれると厄介だ。静かに大人しくしてろ」 たったそれだけを猿たちに告げる。ここに来るまでの道中で唯一放った言葉だ。 猿たちは神妙に頷いている。そして声を発すればそこで命が取られると思ってように、呼吸すら潜めた。懸命な判断だ。 「下手に動くと喰われるぞ」 それは脅しではなかった。 (身体が喰われる前に手は打てるがな) 綜真が厄介だと言っているのは身を守ることが困難であるという意味ではない。 しかしそれをそろそろ伝えるかと思った頃、別の気配が遠くで感じられた。 それは玻月や灯成も同じらしい。 顔つきがぐっと鋭くなり、頭部にある耳がぴくぴくと周囲を窺っている。 綜真はそれがどこに向かっているのかを探りつつ、後ろに付いた。 ついでに土の蛇は消してしまう。もう用事は済んだようなものだ。 砂が落ちる音より小さな足音で、六人はまだ見ぬ人を追跡する。 「男、だ」 灯成が傍らにいる綜真にだけ聞こえるように言った。 綜真の目では人間らしき者が動いているくらいしか見えないのだが、犬の目にはそれが男だと分かるのだろう。 もっと夜目が利くだろう玻月を振り返る。 「肩に子どもを抱えている。死んでいるだろう」 鮮明に光景を確認出来るだろう狼はそう言った。死体を運んでいる最中に出会したということだ。 こう言っては悪いかも知れないが、機会としては分かり易い状態だった。 もう生きていない身体を運んでいるのなら、子どもとやらを助ける必要もない。ただこれから起こるだろうことを見るだけだ。 灯成が忌々しそうに前方を睨み付けていた。 男はひたすらに黙って歩き、木々をすり抜けていく。 ある時点で肌にぺったりと張り付いてくるような空気を感じて、綜真は風を一層濃くした。己の生気が漏れることのないように、慎重に風の密を上げる。 異変は他の者たちにも感じられるのだろう。緊迫した様子が雰囲気として漂っている。 だが目に見えているのはこれまでと変わりのない森の中。 感じている物と見えている物の差に戸惑いがあるはずだ。 一体どこに向かっているのか。何が行われるのか。 このまま進んで大丈夫なのか。この先は闇の沼であり、もう一歩踏み出せば足下を取られて沈まされるのではないか。 底知れぬ恐ろしさがある。 先にあるものを知っている綜真ですらそう思うのだ、他の者たちなどどれほどの恐怖を抱えていることか。 珍しく玻月もいつもより綜真との距離が近い。 大抵すぐには手を伸ばせる近さにはいない。一歩以上間を置くというのに、今は振り返ればすぐそこに頭がある。歩いている弾みで身体に触れてしまいそうだ。 灯成に至っては耳が多少垂れていた。綜真が目をやると視線を感じたのかくいっと口角を上げて茶化すように笑ったが、それが強張っていた。 何かある。大きな恐ろしい何か。 それを誰しもがひしひしと本能で察していた。 しかし前を歩いている男は、そんなもの一切感じないというように突き進んでいるようだった。 一里ほど歩いたような錯覚に襲われるが、その四分の一すら進んでいないだろう頃、綜真はそれ以上男に付いていくのを止めた。 「綜真?」 「こっち側に来い。あんまり近付くもんじゃねぇ」 そこにいる。 もうすぐ、見えるところにそれはいる。 綜真は己の周りにある風が苦しげにもだえるのを感じて、それが近いことを知った。 そして男の後ろではなく、斜めに避けてそれを探した。 あれがあるならば森の中で不自然に拓けたところにあるはずだった。 「………ああ、この辺でいいだろ」 予想通り、少し移動するだけですぐにおかしな所が見付けられた。 まるで何かに根こそぎ木々を引っこ抜かれたような一帯。ぽっかりと空いてしまったそこは草すら生えていない。剥き出しになった土の色はくすんでおり、灰か何かのようだった。 枯れ果てている。そんな印象を受けるというのに、その場所の真ん中には見事な大樹が植わっていた。 何十人もの人間が手を繋ぎ輪を作ればその樹を囲むことが出来るのか。樹齢何百年と過ごしてきたような貫禄があった。灯成が息を呑むのが感じられたが、綜真は内心それを冷めた気持ちで聞いていた。 あれはそんな年月など経ていない。 せいぜい十数年だ。それだけであれほどの大きさまで育ったのだ。 そしてその高さは周りの、変哲もない木と大差なかった。おかげで幹だけが異様に太い。 周囲から突出して目立つことがないように、と考えられたような姿だ。 その大樹の頭上からは月の光が皓々と降り注ぎ、そこだけ世界が切り取られたような特別さを滲ませている。 荘厳であるかのような様だが、そう感じることすら作られたことだと分かっている綜真は腕を組んで横柄な態度で変化を待った。 飲まれるだけ、無駄だ。 男はその大樹の前にふらりと近付いては肩から担いでいた子どもの身体を下ろす。 捧げるように仰向けで置かれた子どもにはもう目を向けることなく、男は大樹に向かって両手を伸ばした。 まるで何かを受け取るような体勢だ。 恍惚とした表情が月明かりに照らされていた。そして何かを呟いているようだ。 「何言ってんだろ……」 灯成が小声でそう言うけれど答えられる者などここにはいない。 まして知りたいという気持ちもなかった。 じっと男を見つめていると、大樹に変化が訪れた。 ゆっくりと、まるで吐息を吐く唇のように幹が割れ始める。 「……は……ぁ?」 灯成の呆然とした声が滑稽な響きと共に耳に入った。 だがそれを鼻で笑うような余裕は、綜真にもなかった。 割れた幹からはうっすらと緑かがっている白い触手が伸びてきた。それこそ、人間の手のように。 しかも一、二本などいう数ではない。無数の触手が包み込むようにして男を抱き包む。 得体の知れない化け物が人間を飲み込もうとしている。そうとしか思えないような光景であるはずなのに、それはいつの間にか淡い燐光を纏って神々しいまでの美しさを作り出す。 月と触手が纏う明かりに、周囲も幻のごとき色彩を広げていた。 現とは思えない。 「な、に……?」 灯成だけでなく玻月もまた全身が粟立つのか、耳だけでなく尻尾まで大きく膨らんでいた。 しかし食い入るようにして大樹に見入っていた。 綜真の脳裏にも燐光が焼き付いて、瞬きすることを惜しんでいた。 (そろそろやばいか) 凝視を続ければあの樹に喰われる。 あの淡い光はまるで虫を誘う誘惑の粉のようなものだ。見れば見るほどあれに魅入られて意識を奪われる。目から薬を塗り込まれるように、自我を壊されるのだ。 その証に、隣にいた灯成が「え、あれ…?」と違和感を覚えているような態度を見せた。今はまだ困惑を感じられるようだが、もう少しすれば何もかもがどうでも良くなるだろう。 「もう見るな」 綜真はそう言って灯成の目を掌で覆った。そこから陽の気を流し込んでやる。 あれは完全に惑わしの陰の気を垂れ流している。陽を流し込んでやれば緩和されることだろう。そして目を閉じればもうそれ以上大樹が魔手を伸ばすことは出来ないのだ。 所詮視覚のみに頼った獲物の得方だ。 そう灯成を制止ながらも綜真は己の中にも陽の気を回し始めた。しっかりと気を保って陰に飲まれぬように腹を据わらせて置かなければ、脳髄の奥がじわりと膿むような錯覚を覚えそうだ。 (初めてこれを見た時は、俺も目眩を覚えたからな) 飲まれそうになり、己自身を全力で殴るという愚行を犯さなければならなかったほどだ。 「魅入られて、虜にされるぞ」 もしここで何もせず大樹に直視していれば己を失うことになる。 灯成は綜真の掌を外すことなく、むしろ安堵の息を吐いている。 「なんか女の人に見えて来たんだけど。幻覚?」 「そうだ。見ている者にとって魅了される対象を作り出して虜にする」 灯成にとってどんな女が好みであるのかは知らないが、きっと手に入れたいと思うほど蠱惑的であることは間違いない。 惚れて、心酔して、他の何もかもを失っても構わないと思うほどの相手だからこそ、あの男は人を殺してここに運ぶのだ。 己が望む者に逢うために、全てを捧げるのだ。 「玻月」 灯成とは反対側に立っている玻月を見るが、声を掛けただけで玻月はちゃんと綜真を見上げてきた。魅入られているのならば綜真の声など届きはしないだろうに、視線を絡ませたその瞳は凛としている。 「正気だな」 月の子には陰の惑わしは利かないと思っていたのだがその予想は外れなかったらしい。 そもそもこの手の惑わしは狼の得意とするところだ。まして月の出ている夜に狼を幻覚に陥れられる者などいない。 まだ成獣になっておらず、月を宿していない子どもだが。しっかりと狼の血をこの身体に流しているのだ。 (どんな性分であったとしても、やはり月の子は月の子か) 惑わしに参って目を閉ざさなければならない犬などではないのだ。 「あれは何に見える?」 陽の気で身体を満たそうとしながらも、綜真はもう大樹を見ようとはしない。強すぎる陰の気を浴びて平然としていられるかどうかは、博打だった。それほどあの大樹は強い。 「ただの樹と男」 玻月は淡々と答える。灯成が言うような女の姿などその目にはない。 「他には何もないか?」 「ない。緑の茎がいっぱい出てきて男が見えなくなっている」 それが真実だ。 もしそれ以外のものが見えているのであれば、偽りを塗られている。 ちゃんと玻月は現のみを見ているのだ。 「なんでその子は平気なの?」 己の目は綜真によって塞がれているのに、玻月が現状を説明出来ていることが不思議なのだろう。 「狼は月の子だからな。月は魅了と幻惑の王だ。耐性が強くこの程度なら平気なんだろう」 「へぇ」 「陰の気も吸収して手前のもんにしてるかもな」 ちらりと玻月を見てもそれに答えはない。むしろよく分からないというような視線が返された。 本人に感覚がないようで、吸収しているのかどうかも分からない。 他の狼であったのならばどうであるか感じ取ってくれるところだが。玻月にそこまで求めるのは酷なのだろう。 「遠吠えもしない狼だが。中身は生粋だからな」 里にいる親が聞けば涙を浮かべるかも知れない事実だ。しかし綜真はそれに口角を上げて面白がるだけだ。 だからこそ、これが必要なのだと。 次 |