三千世界 弐ノ七 土から生まれた蛇はのそりと頭を上げて動き始めた。その先を遮る物はいない。 それは案内させようとしているのだ。他の者は大人しくその後ろについた。 しかし人の腰ほどの高さを持ち、太股ほどの太さのある土の蛇が先頭に立って歩く集団というのはかなり異様なものだった。 夜を迎え、辺りが暗くなったから良いようものだが。昼間だったら間違いなく遠慮したい状態だ。 「どこまで行くかは分からねぇぞ」 綜真は蛇の後ろ姿を眺めつつ、灯成にそう忠告した。 どこに行くのか、知っている者はいないのだ。止めることは出来るだろうが、この猿たちは意地でも本体の元へと辿り着こうとするだろう。 どれほど時間がかかるのすら、計ることも出来ない。 「森の中だろうってことは分かってるが」 「その、森の中に主犯がいるわけ?」 森と断定しても不思議に思わないのは、この辺りが山だらけだからだろう。まして隠したいものは大抵森だの山奥だのに置かれるものだ。人が入りづらく、また視界が狭められた所が好まれる。 「主犯……まぁそうなるんだろうな」 どう表現すれば良いものか判断しかねる綜真は曖昧な返事しか出来ない。 「どんな奴が攫って、何してるんだろ」 灯成は気味の悪いものを想像しているのだろう。ぶるりと大袈裟に震えるような仕草までしてみせる。だがその耳も尻尾もぴんっと立ったままたなのだから、怯えているわけではない。 放浪をしている犬が、実物を目にする前から恐怖に戦いて動けなくなる、なんて無様なことはないだろう。剛胆でなくては一匹でいるはずもない。 「喰ってるんだろうさ」 綜真は端的に答える。 それが人や神格を攫って何をしているのかなんて、答えはたった一つしかない。 「喰って……人間も神格も?」 この世には喰らう神がいることを知っているだけに、灯成も神妙な顔つきになる。もし神であったとすれば、それは信仰する者たちがいるということだ。神を殺すことはさすがに憚られる。 信仰を集める神というのは神格より遙かに強く、気高い者なので、殺すこと自体出来ぬことかも知れない。 それを思うと分の悪さを感じているのだろう。 「源がありゃ何でもいいんだろうさ」 こだわりのある相手ではない。何でも良いのだ。 肉が付いていて、源があれば言うことはない。 「でも連日攫われてた時もあったのに、そんなに毎日喰えるもん?人間一人消化喰うのだって、苦労するだろ」 どんな肉食獣だって、大きな獲物を捕まえた後はしばらく狩りはしない。狩ったところで喰いきれないからだ。 動いても疲れるだけで、連日何体もの獲物を捕らえるなど無駄でしかない。 備蓄するにも限界というものがある。 それを思うとこの人攫いのやっていることはおかしなものだろう。 「身体を砕いて、懐に入れてからゆっくり吸い取ってんだろ」 食事光景を見たことのある綜真は冷静に語る。しかしその内容に灯成は首を傾げている。 「吸う?血を?それとも源?」 狙っているのは何なのか。身体か源か。そう問いたいのだろう。だが返す言葉は簡単なものだった。 「身体も源も、全部だ」 喰えるものなら全部喰う。 貪欲で単純なものだった。 「……想像が付かない。それどんな生き物?もしかして集団?」 一体だとは思いたくないらしい。そんな大食らいがいると思うだけで寒気がするのか、腕をさすっている。 「集団……獲物を捕まえているのは集団かも知れないな」 (あれの手先は幾つまでも増えるからな) 増やそうと思っても増やせるものではない。だが偶然にも増える時は膨大に増える。時の運に支配されているものだった。 「調達ってことは、喰ってるのは別の何か?」 「そうだ」 「それどんな化け物だよ。すげぇでかいんじゃないのか……?」 ああ近くなってきた、と綜真は灯成の独り言のような言葉に内心呟く。 あれは大きなものだ。だから獲物を連日運ばれてきても問題がないのだ。 「だから危険なのか?いきなり襲いかかってきたら逃げられる?」 「襲いかかって来ねぇよ」 それだけは断言出来る。ただしあれ自体は、という限定だが。 「用心してりゃ大丈夫だ。俺に従ってりゃな。従えねぇなら後は知らん」 (おまえと玻月くらいはな) 猿たちの面倒を見る気はさらさらないので、後のことは放置するつもりだった。 こういう流れになった時点でこの猿たちの結末は決まったようなものだ。 「怖っ」 絶対に逆らいません、と灯成は手を合わせて綜真を拝む。おちゃらけた態度だが、実際危険な目に遭ってもこの犬は衝撃で呆けることなく綜真の指示を待って即座に対応するだろう。 それだけの頭の良さと判断する力があるから、同行を認めたようなものだ。 「……月がよく出てる」 灯成は正体が何であるのか考えることに飽きたのか、森の隙間から月を見上げている。 か細い光が零れ落ちてきては、闇のような森の中を照らしてくれていた。 慰めにもならない程度の明かりだが、あると無いとでは気持ちの在り方が違う。 綜真も灯成も昼の生き物だ。どうしても明るさを求めてしまう。 「遠吠えしたくなるねぇ」 しみじみとそう言いながら、うっそりと灯成は月を見つめている。 好いた女を口説くような、熱の籠もった眼差しだ。 犬にとって遠吠えはそれほどまでに魅力的なものだろうか。 「ね」 灯成は先ほどまでの暗い顔をどこにやったのか。微笑みながら玻月に声を掛けた。だが玻月は何も言うことがないのか、表情を変えることなくただ見つめ返しただけだった。 「そういえばおまえが遠吠えしたところを見たことがねぇな」 狼ならば犬と同じで遠吠えの一つや二つ、自然とするものだろう。だが玻月が月に向かって吠えたことなど、ただの一度もなかった。 ただ月を見上げることはあっても無言で、しかもすぐに視線は逸らされた。 「えぇ!?したくならないの!?」 信じられないと言いたげに灯成の声がひっくり返った。 そんなことがあるなんて、嘘だろうと言うような声に綜真の方が面食らってしまう。 だが言われた玻月は無表情のままだ。 「しない」 ばっさりと断つような返事に、灯成が唖然としている。 目の前にいるのは誠に狼だろうかと、問いたくなっているのが綜真にも分かった。 「本当に?うずうずしたりしないの?我慢してると身体に良くないよ?走り回って暴れたくなったりしない?」 遠吠えとはそれほどまで強い欲求なのか、と人間の身では他人事として思う。 しかし灯成がこれほどまでに驚いているのならば相当なことなのだろう。 「吠えることは許されなかった」 それが、玻月に強制されたことだった。 (……猿の中で、遠吠えなど出来なかったわけか) たった一匹の犬はよほど目立ったのだろう。そして犬らしいことは全て封じられたのだ。 目立たぬように、猿の癇癪に障らぬように。ただじっと己を縛ったのだ。 それが玻月が己を守るためにしたことなのか。術師が玻月を守るために強いたことなのかは分からない。どちらにせよ、この細い身体には見えない縄が幾つもかけられているのだ。 玻月の返答に、灯成は凍り付いた。 驚愕が過ぎたのだろう。時が止まったかのような有様だ。 そして少しして唇を戦慄かせたかと思うと、いきなり綜真の胸ぐらを掴み上げる。 「綜真!あんまりだ!アンタがそんなに非道だとは思わなかった!連れ歩いている子になんて仕打ちしてるんだ!遠吠え出来ないことがどんだけ辛いかアンタには分からないかも知れないが!」 「俺じゃねぇよ!遠吠えくらいで俺がぐだぐだ言うと思ってんのか」 「だったらなんで!」 穏和な生き物であった灯成が激怒しで怒鳴るということは、犬にとっては遠吠えが出来ぬということは悲痛なことなのだろう。 だがその怒りを向けられても困る。 「こいつは狼の中で育てられてねぇんだよ。だから色々抜けてんだよ」 「抜けてるって……」 こんなことが抜けるわけがないだろう、と灯成は泣きそうな顔をする。 会ったばかりの相手、ほとんど会話をしたこともないような相手のことでも、こうして痛んでやるのが灯成の良いところだろう。 己にはないことであり、真似をするつもりもないのだが好ましいとは感じる。 「遠吠えを禁じられるなんて、そんな」 灯成は胸ぐらを掴んでいた手を放して肩を落とした。うちひしがれているような様を玻月が見ているがきっとその痛みは分からないのだ。 自由に生きた記憶がない者が、自由を束縛される苦しさを知る術はない。 憐憫の情を向けられても、理解することはないだろう。 (不憫なこと、なんだろうな) 周りがどれだけ哀れみと優しさを向けたところで。玻月はその全てを受け取ることが出来ない。 灯成はぐっと拳を握ったかと思うと、くいっと頭上を仰いだ。 誰に対するものかも分からない憤りがその目に宿っている。 そして大きく息を吸い込んだかと思うと、牙を剥くようにして口を開けた。 オオォーン……、とどこかもの悲しげな遠吠えが森に響き渡る。 人の形をした口から発せられたというのに、その音は間違いなく犬のものだ。 太く、立派な声にどこかからまた遠吠えがこだましている。呼応しているのだ。 嘆いている灯成を慰めるものか、それとも励ましているものか。人の耳には分からない。 しかしもう一度灯成が呼吸を深くしたところで、綜真は「おい」とそれを止めた。 「そろそろ静かにしろ。目的のもんが近くなってる」 土の蛇は綜真たちを置いて先に行くこともなく、近くで待機している。綜真がそう操ったからなのだが、先に進もうとしている動きが顕著になってきているのだ。おそらく本体が近いのだろう。 それはすなわち、目的のものが近いということだ。 「悟られると面倒だぞ」 気取られなければその方が楽なのだ。こちらから何もせずとも良いのだから。 しかし灯成は止められて不満げだった。 「綜真、この子にも遠吠えくらいさせてあげてよ」 「俺は止めたこともねぇよ」 好きにすれば良いと言っている。邪魔にならなければ綜真は文句も言わない。 だが玻月は何もしないのだ。 まるで従者のように綜真に添っているだけ。己の意見も何も言わず、ただ淡々と過ごしている。 綜真は狼でも犬でもない。どれほど異質であっても人の身体であることに違いはない。なので種族としての特徴など、詳しくは知らないのだ。 だから遠吠えのことだって灯成に言われるまで気が付きもしなかった。 (遠吠えをしない狼、か) 狼にとってその姿はどれほど悲壮であろうことか。 だからと言って遠吠えをしろと言うわけにもいかないだろう。したいというのならすれば良いだろうが、玻月はしたいと思うだろうか。 少しは、微かでも、己のことを出せは良いだろうに。 己のことを出すこと、滲ませることから導くべきなのだろう。 だが綜真は親姉弟でもなければ、師などというものにもなれない。 どうしたものかと、独りごちながら蛇へと顎をしゃくった。立ち止まるのは時間の無駄だ。 その意志を感じ取り蛇は再び動き出した。 次 |