三千世界   弐ノ五




 夕暮れになり宿からふらりと出ては腹拵えをして戻って来た綜真を犬が待っていた。
 どうしてこの宿が、と言う問いかけはしない。
 曼荼羅の羽織を肩からかけている男の所在など人に訊けばすぐに分かる。この羽織がなければ綜真の特徴など体格の良い長髪の男というくらいしかなくなるのだが、羽織を捨てるという考えはなかった。
 それに目立ったところで支障はない。
 畳の上で我が物顔をして寝転がっていた灯成は綜真を見上げると「よいっしょ」と言いながら上半身を起こした。
 茶色の髪が目にかかって、それを掻き上げてはへらりと笑った。
「おかえり」
 ただいまと言う義理はなく、綜真は「何してんだ」と責めるわけでもなくそう声を掛ける。
「綜真がいつまでここにいるかなと思って来た。いなかったら待たせて貰ってたってわけ」
「そうか」
 綜真は部屋に入っては灯成の近くに腰を下ろした。玻月は見るまでもなく己の傍らに座る。
 まるで側に控えていることを制約されている従者のようだが、綜真の世話をするどころか綜真に世話をされている。
「明日にでも出ようかと思っているが」
 持ち物の補充ならば昼間の内に終わらせている。用事などなく、紅猿の情報もろくに得られないようなので次に行こうと思っていた。
 何ならば今すぐにでも出て行ける。
 夜に外を出歩けば無駄に賊やら獣やらに狙われる上に寒いので、面倒事を嫌がる綜真は朝まで待つつもりだった。
 急がねばならないことは何一つない。
「別にこだわってねぇよ」
「ふぅん、そうなんだ」
 そう言いながら灯成は綜真を窺うような視線を向けてくる。
 何か言おうとしている目に綜真は溜息をついた。
「連れて行かねぇぞ」
「え、そうなの?」
 落胆した態度にやっぱりか、と内心己の予感が当たったことに脱力する。
 この犬は綜真を気に入ったようで、出会うとたまに途中まで付いてくる。一人で旅をしていた時は、共にいたところで厄介ごとを引き起こすこともなく、手間もかからない相手だったので気が向いたら付いてくることを許していた。
 ずっと何日も付いて回ることはなく、長くても数十日で唐突に「じゃここで」と言って道を分かつので、深く考えることもなかった。
 旅は道連れなんて、らしくないことも頭を過ぎったものだ。
「二つも連れて歩く気にはならん」
 玻月だけ、灯成だけなら構わないと思っただろうが。二匹とも、となると面倒になるだろう。
 なんせ灯成は玻月をかなり意識している。人懐っこく、陽気な灯成と物静かで陰りのある玻月は正反対とも言える。同じ場所に長い間置くとどんな影響が出るか分からない。
 ましてその真ん中に己を挟むなんて、気を遣えと言われているようでまっぴらごめんだった。
「そう?そうか…」
 玻月がいるので連れて行けないということは、灯成にとっては納得出来ることだったらしい。本人もどこかで玻月がいるから無理かも知れないと思っていたことだろう。
 残念と言いながらも、食い下がることはない。
 しかし幼子のようにあぐらをかいた身体を左右に振ったかと思うと、ふと真面目な顔を見せる。
 ここに来てから、灯成には珍しいはずのその表情をよく見るようになっていた。
「ねぇ、気にならない?」
「何が?」
 持ち物である煙管を取り出して、宿にある煙草盆を手元に引き寄せる。
 そこには火打ち石もあったが、綜真は微かな声で火を呼んだ。
 刻み煙草を詰めた火皿に種を宿らせて煙を生ませる。
 ふわりと上がる紫煙に灯成の耳がぴくりと一瞬だけ震えた。
 本当は鼻をひくつかせたいところだろうがおそらく耐えたのだろう。
 煙は嫌いではないが少しばかり落ち着かなくなると言ったのは、その身体は火を源にしているからだろうか。
「攫われた人たちのこと」
 灯成は顔見知りがいなくなったことが心に引っかかっているのだろう。だがあいにく綜真はその相手を知らない。
「別に」
 あくまでも綜真は素っ気なく返して、煙管の吸い口へと唇を寄せた。
「源のあるやつばっかり攫われてんだよ?おかしいと思わない?」
 灯成はなんとか綜真の気を惹こうと思っているのだろう。じりじりと膝で寄ってきてはわざとらしいまで、声を潜める。
 これは大事だろうと示唆したいらしい。
「源に関しては興味津々のくせに」
 食いついて来ないはずがない、とすら言いたげに灯成は誘いをかける。だが綜真はそれを吹き飛ばすかのようにゆっくりと煙を吐いた。
「ある程度見当は付いてる」
「え!?」
 ただ人が攫われて、源が関わっているかも知れないということなら綜真は灯成の誘いに乗っていたことだろう。
 どういうことだ、という己の言葉が頭の中を駆け巡ってはその欲を満たすためにあらゆる手を尽くそうとする。
 だが今回は違った。
 この状況を思案すると、答えが朧気に浮かんできたのだ。
「季節、土地、攫われた者たちの特徴からしておおよそ分かる」
「攫われた人の特徴って、源があるかどうかだけだけど」
 源を持つ生き物など珍しくない。むしろこの世界にいるのに何も持っていない方が少ないだろう。
 なのでそれは特徴と言えるのか、と灯成は怪訝そうだ。だが綜真が言いたいのは「特徴らしきものがそれしかない」ということが一種の道筋だった。
「だからだよ。それしか気にしない相手なんだろ」
 わざわざ攫っていくなら、もっと決まりを作っても良いはずだろうに。それをしないということが特徴だった。
「じゃなんで解決しないんだよ」
 何故ここで暢気に煙管など吹かしているのだと灯成は急いてくる。
 腰が浮いており、今すぐにでも灯成を部屋から出して何とかして貰おうとしているようだ。
 だが綜真は気怠そうに煙を吐いては遠くを眺める。
「面倒臭ぇ」 「いやいやいや、それを面倒って言うのは止めようよ!俺の知り合いもいなくなってんだから!なんとかしてあげたいんだけど!」
 動くことを嫌がる綜真に灯成は顔を顰めた。命がかかっているのにそんな理由でじっとしているのは道理に反するとでも言い出しそうだ。
 だが源を得るためなら外道にでも何でもなる綜真は人の道に外れようが、非情であろうが構いはしなかった。
 そしてもう一つ、動いても意味がないと知っていた。
「病気の弟がいなくなって、お姉さんすごく心配してんのに!なんとかしてやってよ!」
 病気で弱っている弟、と聞いて綜真は己の予想が外れていないだろうと確信した。
「諦めろ」
「そんなあっさり!」
 すぐにでも駆け出してしまいそうな勢いのある灯成ににじり寄られて、綜真はわざと煙を顔に吹きかけた。げほげほと咳き込む灯成を見ながら、煙草盆に雁首を叩き付けては灰を落とす。
「取り返せるもんじゃねぇよ」
 もう遅い。
 断言する綜真に、灯成は涙目で睨んでくる。
「綜真、もったいぶらずに教えてくれよ。アンタ何を知ってんの」
 何もかも見透かすような綜真の態度に灯成が悔しそうに尋ねてくる。
 もったいぶるようなことでもない。まして灯成はここで暮らしている者ではないのだ。綜真は新しく刻み煙草を煙管に詰めながら口を開いた。
 だが声を発するより先に宿の入り口から罵声が響いてきた。
 何かを倒す音や女将の悲鳴、他の客の困惑の声が入り乱れる中。荒々しい足音は何故か綜真の部屋までやってきた。
「てめぇ兄貴をどこにやった!」
 弾くような音を立てて襖を開けたのは昨日見た紅猿の下っ端だ。しかも主格と思われる猿の後ろに控えていただけの猿。
 他の二人もおり、どうやら三人揃ってここまで来たらしい。
 牙を剥き出しにして、飛びかかってきそうな猿に灯成は姿勢を低くした。いつでも襲いかかることが出来るように、全身が緊張しているのが気配で分かる。
「誰?」
 低く、短く、灯成は綜真に尋ねた。
 対する綜真は煙管を持ったまま、悠然と構えている。
「紅猿の雑魚どもだ」
 相手をするのも馬鹿馬鹿しいと思うほどの力量であることは昨日で知っている。だからこそ何の動きも見せなかった。
 玻月も同様で大人しく座ったままだった。
「兄貴をどこにやった!」
 怒鳴り込んできた時と同じことを言われ、綜真はやれやれと深く息をつく。
「知るか」
 言われている猿の顔は思い浮かぶけれど、それがどうなったかなど知るはずもない。むしろこの三人が来なければ間違いなく永遠に思い出すこともなかったような猿だ。
「知らねぇはずねぇだろ!」
 大きな声に綜真が眉をひそめる。やかましい音は嫌いだ。
「うるっせえよ。ちったぁ静かに出来ねぇのか」
「これが静かにしてられるかってんだ!」
 聞き入れない猿に舌打ちをする。また昨日のように土蛇でも呼ぶか。しかし呼べば宿の床が脆くも壊されることだろう。
 揉め事は面倒だ。しかし猿をこのままにしているのもうるさい。
 それ以前に昨日は怯えていたというのに、何故ここに乗り込んでこられたのか。
「猿なんざに興味はねぇよ。どうにかすんなら昨日殺してんだろ」
 兄貴と言われているあの猿のために、こいつらは綜真のところまで来たのだろう。触らぬ方が良いだろうということが明らかな人間だというのに、恐怖を押し殺して立っている。
 一匹は腰が引けているのだから、間抜けなことだった。
「事情が変わったんじゃねぇか」
 昨日の今日で何が変わるというのか。見ていたわけでもないのに知ったような口を利く猿に煙を吐いた。
 頭の弱い奴は前から嫌いだが、特に猿とは相性が悪いなと独りごちる。
「その犬が戻りたいとでも言ったんじゃねぇのか!?だから惜しくなって」
「惜しくなったならおまえら全部皆殺しだ」
 欲しいものが帰りたいと言うのならば、帰りたくないように気を変えさせるか。それとも帰る場所をなくしてしまうのかだ。
 前者が無理なら綜真は躊躇いなく後者の選択をする。
「紅猿を皆殺しにして回るのは手間だな。しかしこいつはそもそも帰りたがってねぇよ」
 何人いるかも分からない紅猿を殺して回るのはさすがに骨が折れるだろう。
 気が向かないことだ。まして玻月はそこを故郷だなど思っていないはずだ。
 ちらりと視線を送ると玻月はちゃんと頷いた。
 猿を見もしないがちゃんと話は聞いていたらしい。
 だが玻月の肯定を見ても猿たちは一向に下がりはしなかった。
「そんなもん分かったもんじゃねぇ!」
「言い出しゃきりがねぇだろ」
 何がやりたいのかこの猿は、と綜真の苛立ちが次第に膨らんでいく。
 ここで殺せば畳や壁が汚れることだろう。この里はよく綜真が通る道の中にあるのでこれからも通ってきたいところだった。
 その中で揉め事は避けたいのだが。
 らちがあかないこの事態に、己の纏っている風の源が騒ぎ始めたのを感じた。