三千世界   弐ノ四




 板きれの小屋から出ると辺りに宵が滲み始めていた。
 黄昏時だ。
 まして木々の隙間を歩いていると、すぐ先に誰がいるのかも分からなくなる。
 足下から暗がりが忍び寄ってきてはすぐ背後まで押し寄せている。
 夜目がきかずに昼間の視界に頼る生き物であったのならば、怯えることだろう。
 明かりを求めて先を急ぐのだろうが、綜真は夜目も利かないが泰然と歩いていた。
 何か危険が迫った時には身に纏っている風が騒ぐ。
 綜真にとっての目は己の眼窩に収まっている眼球だけではない。
 まして隣にいる狼の子は夜目が利く夜の獣だ。
 暗闇を嫌がる必要がない。
(何の収穫もなかったな)
 わざわざ赴いたというのに大したことは何も得ることがなかった。
 期待をしていたわけではないので落胆らしい落胆ではないのだが。ただ玻月の反応にやや愉快な思いはあった。
「知り合いのようだったな」
 猿の一人は玻月を知っていた。玻月も記憶にあるように返事をしていたが、感情は出ていなかった。
 好ましいような態度ではなかったが。
「ああ」
 淡々とした玻月の双眸を横から見ると微かな輝きが宿っている。
 夜を見据えることが出来る瞳が、その暗がりを己の支配に置こうとしているのだ。
 昼の生き物と違い夜の生き物が黄昏に立つと、背筋に快楽に似たものが走るほど美しい。
 どれほど他者が犬に間違えたところで、この子は狼の目をしている。
「群れにいた時には、世話になったり何かして貰ったりしたのか?」
 相手には面と向かっておまえに恩義はないというようなことを口にしていたが。事実そうであったのか。
 確かめる綜真に玻月は視線を向けてくることもなく「ない」と切り捨てた。
 名前すら知っていないかも知れない。
 そんな関係の薄さが見える。
「そうか。殺しても問題なかったな」
 玻月に関わりがあるかも知れないからと思って殺すのは止めておいた。うるさかったので殺しても良かったのだが、万が一でも玻月が惜しむのならば哀れかと思ったのだ。
 そんなことをここにきて思う己に、さすがに一年という歳月を過ごせば情も微かに湧くか、と不思議な心境になった。
(親のように、とは思わねぇが)
 側に置いている者が悲しみを見せるのは勘弁して欲しいと思う程度の心はあるらしい。
「戻りたいとは思わねぇのか?」
 懐かしいだろう顔を見て、群れにいた時のことを考えてしまったことだろう。
 本当にこれでいいのか、悩むことはないのか。
 綜真は思案するのに玻月は迷いを見せない。
「戻らない」
 己の決断に一つのゆがみも感じないだろう強さがあった。
 それは群れには己を支えてくれていたものがないからだろうか。
 形代もいない、術師もいない。だから群れに帰らないのだろうか。
 もし術師に会って、形代も返してくれたのならば。形代を作り出してまた玻月が二人になったのならば、この子は満面の笑みを浮かべるのだろうか。
 凍り付いたような表情を溶かすのだろうか。
「……あの女は、術師はどんな奴だった?」
 玻月を守っていたらしい女がどんな者であるのか、玻月は多く語らない。
 恋しがる気持ちを掻き立てるのではないかと思い、綜真も詳しく尋ねることなかった。
 探し出すために姿形の特徴は知っておいて損はない。けれど玻月の目にその女がどう見えていたかどうかは、探し出すために使える情報かどうかは疑わしいものだった。
 だから掘り下げて聞かなかった。
 他人のことは知りすぎると互いにしがらみが出来るだけだと、綜真はいつの間にか人と距離ばかり置くようになっていた。
「……黒髪の女」
 玻月は思い出しているのか、少しばかり遠くを見るように視線を僅かに上げた。
 綜真の目では木々の重い影が折り重なっているだけだ。
「他は?」
「人間だった」
 端的な、会話を成立させる気持ちすら感じ取れない言葉だった。
「知ってる。あと紅猿の頭の女房な」
 玻月を連れるようになってすぐ、それくらいの情報は集まっていた。
 紅猿の頭に惚れられ、口説かれ女房になり。群れを纏める頭の傍らでそれなりに信頼を置かれていたらしい。人当たりもそう悪くないがあまり明るい人柄ではなかったらしい。
 癇癪持ちの頭に当たられることがあってもじっと耐えて、頭の機嫌をそっと整えることの出来る器量良しであったと噂されていた。
「何故、その術師はおまえを手元に置いたんだ?」
 訊いたことのある問いかけだった。だが出会ったばかりの頃で玻月はよく分からないというような顔をするだけだった。
 だが理由もなく狼を売り飛ばさずにいるはずがない。
 まして形代まで与えているのだ。特別な何かが玻月にあったはず。
 玻月を気に入って自分のものにしようとしていた、くらいの理由ならば思い付くのだが。それならば玻月がいなくなった現在、探し回っているはずだが。
 我が身の方が大事ということでじっと潜んでいるのだろうか。
「子どもの代わり、だと思う」
 玻月は前を見据えていた瞳を足下に落として、そう呟いた。
 確信はないのかも知れない。だがきっと己の境遇はそのためだと感じていたのだ。
「女の子どもの代わり、ということか?」
 頭の女房に子どもはいなかった。だからこそ紅猿は荒れているのだが。その代わりを玻月が担っていたというのか。
「子どもを失ったばかりだった」
 玻月を見付けたのは我が子を失ったばかりの頃だったのだろう。だから幼い子が失った子とかぶったのだ。
 それを売り飛ばすのは恐らく酷く心に堪えたのだ。
 だから術師は手元に置いた。可愛がりたかったのかも知れないが、衆目があるために我が子同様とまでは扱えなかっただろう。
「……優しかったか?術師は」
 我が子の代わりだと、あからさまでなくとも心のどこかで思っていたのならばきっと玻月に対する態度は柔らかいものだっただろう。
(だからこいつは術師を求めているのかも知れない)
 母恋しかと紅猿の下っ端は嗤った。だが玻月は意識しているかいないか分からないが、きっと母親に対するものと似た感情を持っていることだろう。
(ましてこいつの母親はもういない)
 父や姉弟はいるけれど、母親はもう死んでしまったのだ。
 記憶がないので面影も持つことが出来ず、玻月の中で母とはその術師のことかも知れない。
「……おそらく」
 沈黙を幾つも流した後に、玻月は弱々しく答えた。そう告げることが誰に対する後ろめたさを覚えているかのようだ。
(別に誰も責めたりしねぇのにな)
 玻月が自分の意志で賊に入ったわけではない。生きるためにはそこにいるしかなかった。そしてそこにいるためには術師の恩情が必要だった。それに支えられて育てられたのだ。
 だから優しいと感じるその気持ちは当然のようなものだ。
 それでも玻月は俯いた顔を上げない。
「だが……ち、父や、姉や、兄……おまえ程じゃない」
 酷く、言い辛そうに玻月は告げた。
 引っかかり、素直に口から出すことが難しい言葉のようだ。
 言われた内容に綜真は数度瞬きをしてまじまじと真横を見てしまった。
 優しいと、感じていたらしい。
 父や姉、兄という堅苦しい表現はとても家族に対する違和感を示している。だが優しくされた自覚はあるようだ。その温度に安堵もするのだろう。
 だからこそ術師に対して優しいと言ったことに弱腰になったのだ。
 家族の情がのし掛かっている。
(……あいつらが優しいのは、そりゃそうなんだが)
 狼の家族愛が溢れ出るものであることは見て知っているので玻月の言うことは納得出来た。しかしそこに己まで入れられているのは、なんともくすぐったい。
「俺もか」
 ただ一緒にいるだけだ。親のように手を差し伸べて物を教えるようなことはしない。必要であれば伝えるが、そうでなければ放って置くことも多い。
 優しいと言われるようなことをやってきたかと訊かれると首を傾げるしかなかった。
 玻月は綜真の小さな戸惑いなど気が付かないのか、再び黙って隣にいる。
 ただこうしているだけだというのに。どこが気に入ったのだろう。
 綜真に付いてくるのは群れの中で玻月をかくまっていただろう者と同じ、術師という共通点があるからだと思っていた。
 それだけしか、綜真に懐く理由はないだろうと思っていたのだが。それも今では変化があっただろうか。
(だが俺よりずっと優しいと感じたのは、やはりあいつらだろうな)
 綜真は最後に付け足されたようなものであり。玻月が言いたかったのは家族のことだろう。
「帰りたいか?家族の元へ?」
 今でも彼らは玻月を待っている。会える時を楽しみにしている。
 しかしそんな気持ちを知っているだろうと思いたい子は緩く首を振った。
 故郷だというのに、と思うのだがきっと玻月は狼の里を己の故郷とは感じられないのだろう。たった数ヶ月いただけの場所だ。
 群れに入れられて各地を転々としていただろう子には、己のすみかと言えるような家がない。
 放浪の旅に出てもう数えるのも馬鹿らしいほどの年月を過ごした綜真にすら故郷がある。生まれ育った懐かしい里があるのだ。
 だが玻月にはそれがない。
 待ってくれている人がいる場所ですら、故郷だと、己の生まれた土地だと思えないのだ。
 この子の記憶の中には思い出深い土などないのだろう。
(不憫、か)
 可哀想だと嘆く父親の声が耳の奥で蘇ってきた。