三千世界   弐ノ参




 潰れかけている小屋とは言え、おそらく家とされているものに入り込んで一言もなしというのはさすがに非礼だろう。
 今更とは思ったのだが、綜真は一応「邪魔をする」と告げた。
 だが言い方からして横柄であることは自覚していた。
 案の定殺気だった猿たちは更に怒気を強める。
「なんだてめぇ」
 この手の輩はどうしてどいつもこいつも同じことを言うのだろう。
(決まりでもあんのかね)
 台詞はこれであるという教えを誰かが広めているのだろうか。
「紅猿か?」
 ただの猿の小さな群れであり、紅猿と勘違いされているかも知れない。そう思って尋ねると真ん中にいた猿は威嚇するように嗤った。
「そうだが」
 きっと紅猿であることが猿の矜持なのだろう。自慢に溢れたそれに綜真は肩をすくめたくなる。
 何かに属していることによって己が高みに上れるという感覚が理解出来ない。
 己が己であることに、他者は関係ないようなものだ。
「……おまえ、犬か」
 主格と思われる猿が綜真に後ろにいる玻月を見て驚きを見せた。
(犬と呼ばれていたか)
 玻月は狼であるのに犬と勘違いされたまま群れにいたらしいが。呼び名は犬とだけあったのだろう。不憫なことだが、本人はそれを気にしている様子がない。
 呼称すら関心がないかのようだ。
「生きてやがったのか」
 主格は途端にやたらとにやついた顔をした。良いものを見付けたと顔に書いてある。
「犬?」
 後ろにいる三匹は玻月を知らないのか、首を傾げては互いに視線を合わせている。
(ということは、真ん中にいる猿は紅猿にいたが、他の三匹は分からねぇってことか)
 紅猿が分裂してから無駄に数が増えたと聞いている。紅猿に前からいた者が余所者を呼び寄せて紅猿の中に入れようとしているのだ。他の三匹はその手かも知れない。
「群れにいた犬だよ。あいつが可愛がってた」
 主格は後ろを振り返って説明をしている。あいつ、というのが誰なのか綜真には分からない。
 しかし玻月が可愛がられていたと自覚していたのは術師だけだったらしいが、もしかするとそれだろうか。
「なんだ生きてたのか。こんなところまで来て何の用だよ」
 主格は綜真ではなく玻月に関心を示している。
 無表情の子どもに何かを期待しているようだった。
 群れの中で玻月は主力であったことは予測が付く。猿より狼の方が戦いに優れているのだ。まして形代と共にいたのならば二匹でかなりの働きをしたことだろう。
「主人捜しか?寂しいってんならなってやってもいいぜ」
 やはりこうきたか、と綜真は黙ったまま猿が喋るままにしていた。
 玻月が群れでどんな扱いをされていたのか、どんな立場にいたのか。少しは見えてくるからだ。
 それにしても玻月は口を開かなければ感情一つも見せない。それでも猿は気にしないのだから、ずっとこうだったのだろう。
「もう一匹はどうした。死んだか」
(人代であったことすら、こいつは知らないか)
 玻月と同じ顔の生き物は別にいたのだと、猿は思っているようだ。
 あまり源を持っていない者であるなら本物と人代との区別は付かないものだが。群れの中でも玻月は双子として見られていたのだろう。
「まさかそこの人間が新しい主人だなんて言わねぇだろうな」
 犬とは主人を持ちたがる者が多い。
 まして玻月は群れの中におり、主人であるかのように扱っていた者がいたのだろう。だからまた次の主人を求めているのかと勘違いされるのだ。
 不躾な視線を向けられ、綜真の精神がぞわりと逆撫でされる。
 そんな人間よりこっちの方がいいだろうに、という声が聞こえてきそうだった。
 たかが凡庸な猿の分際で。
「まさか陰間にでもなったのか?」
 親姉弟が恐れ、嘆き続けた「もしかすると」という不安を猿の口から聞いてしまい、綜真はぎりと奥歯を噛んだ。
 もし犬でないと知られれていれば、きっとこの主格が言うように陰間に落とされたことだろう。
 そうならぬようにと、己もかつて玻月を探していたのだ。その労力を嗤われた気がした。
 下卑た笑みに綜真は冷えた怒りを腹に抑えて口を開いた。
 殴り倒してやっても良いのだが、あいにくまだ訊くことがあった。
 それでも己から源の残滓が滲み出ていることは止められなかった。
「よく喋る猿だな」
 低く、地を這うような声でそう言うと猿たちが玻月を見るのを止めた。
「術師を知っているか?」
 それだけを尋ねてにわざわざここまで来たのだ。
 睨み付けながら問うと猿は機嫌を損ねたらしい、顔を顰めた。
「あぁ?」
「前の頭の女房だったか?」
 猿の機嫌を取るつねりはない。自ら喋らないというのならば口を割らせる方法は他にもある。
 どちらの手でも良いのだ。
 だが強制する前に猿は「あぁ、あの女」と舌打ちをした。
「どこにいる」
「知らねぇよ。頭が死んでからどっかに消えた」
 そんな情報はすでに知っている。
 群れの中で分裂が酷く、前の頭の女房であった女は巻き込まれるのが嫌で雲隠れしたのだ。紅猿を乗っ取るつもりはなかったらしい。
 だが周囲は女をどうにか利用しようとして探す者もいるらしい。
 女房は人望もそれなりにあったらしい。担ぎ出せば付いてくる者もいたのだろう。
「跡目で揉めているらしいが?」
 紅猿がどうなろうが綜真の知ったことではない。だがもし跡目が決まらず術師があぶり出され道具にされて、もし殺されでもしたら元も子もないのだ。
 さっさと解決して貰った方が無難だった。
「子どもがいねぇし。元々中身がばらばらになりかけだったからな。おかげで滅茶苦茶だ」
 秩序を失ったならず者たちは暴れ回って衰退していくばかりだ。
「じきに決まるだろ。どうせ次はあの人なんだろうしな」
 猿は仲間たちと顔を合わせて、互いたちのみが分かる視線を交わしている。
 何か心当たりがあるようだったが、興味はなかった。
「それで、決まるまでは離れたところで傍観してるのか」
「真ん中に突進して殺されちゃ割に合わねぇ」
 それが猿のやりかただ。
 綜真はそう感じた。
 一番良いところをどうやって被害なく、手間なく奪い取るか。それに苦心するのが猿の本来の姿だ。
 だから紅猿の内部が争っているのは本当はごく一部分であり。大半が傍観者であることを知っている。頭が決まるのを今か今かと待っている。
 美味い汁だけ吸うために。
「それよりなんであの女探してんだよ。母恋しってか?」
 猿は玻月に向かって嘲笑を向ける。
「いつまでガキのつもりなんだよ」
 見た目はあれから随分育ったのだが、それでもまだ子どもに見える。
 見下されても玻月は眼差しすら揺らさない。聞こえているかどうかも怪しいところだろう。
 しかし連れが侮辱されるのを聞いている綜真は次第に不愉快さを深めていった。
「それより俺たちと来いよ。前と同じような暮らしに戻れるぜ。どうせてめぇは狂犬。ただの飼い犬にはなれやしねぇよ」
 狂犬と言われた狼は返事をしない。
 綜真の知っている玻月は狂犬とはほど遠く、大人しい静かな生き物だ。
 狂犬にならざる得なかった何かが群れの中にはあったのだろう。
「どうしたい」
 動きもしない玻月に問いかけた。
 玻月が戻りたいと言うのならば考えなくもなかった。綜真としては戻ることによって玻月が得られるものはただの退廃であろうが、本人がそうでないと思い込むのであれば止めはしない。
 玻月の意識を支配するつもりはないのだ。
「こいつらといたいか?」
 いたいと言えば悪趣味なことだろう。可能性はかなり低いと思いながらも答えを待つと、玻月は綜真を見上げた。
「いや」
 淡い言葉だった。言葉と言葉の隙間に入るような、相づちにも聞こえるそれに綜真は「ん?」ともう一度意志を示せと促した。
「嫌」
 今度はきっちり否定の言葉が返ってきた。しかも珍しく「絶対に」という前置きすら聞こえてきそうなほど確かさの入った拒絶だ。
 それに多少ばかり綜真の機嫌も改善されるようだった。
(一年持ち続けて、こんなやつに乗り換えされるのも癪だからな)
 己といる方が遙かに暮らしやすいはずだという確信が、綜真の中にはあったのだ。
 それが裏付けされて、少しは気分も良い。
「犬のくせに…!」
 綜真は満足だが猿たちは逆だろう。
 下の立場にいると思っていた玻月にコケにされて気色ばんでいる。
「誰のおかげで生きて来られたと思ってんだ!」
 感謝しろと言わんばかりの猿に玻月は瞬きをした。
 そして珍しくまじまじと人を眺めている。
「おまえじゃない」
 淡々とした、実に短い言葉だった。
 けれどそれで十分「おまえに恩義など無い」ということが伝わってきた。
 玻月が己のことを口にしているのはあまり聞くことがなく、それだけ猿の言うことは心外だったのだろう。
 思わず吹き出してしまった。
「てめっ、誰に口きいて!」
「あまり絡んでくんな。うるせぇよ」
 殺気だっては握っていた脇差しで斬りかかってこようとする猿に綜真は笑みを浮かべたままそう吐き捨てる。
 ぎゃんぎゃん喚きすぎなのだ。猿というだけでやや高い声をしているのだが、男の大きな声など聞いていてもうるさいだけだ。
「んだと!?」
 主格らしい猿が腰を低くして全身から襲いかかってくる意識を露わにしている。他の三匹も猿が動けば同時に鋭利な武器を振りかざしてくるのだろう。
 だが綜真はこれといって身構えることはない。
 悠然としている態度に、更に猿が逆上したのが見えた。
 牙を剥きだしてにして脇差しを抜く。
「ふざけんなよ!?」
 馬鹿にされることが嫌らしい猿は、悲しいまでに単純な思考をしているらしい。
 丸腰だと思われる綜真に刀を振り下ろそうとするのだ。
(おかしいとは思わないのか?)
 紅猿だと知りながらこの小屋に来ているのだ。相手が賊だと知りながら、野蛮な行いをする連中だと分かりながら、どうして己の身を守る術無しにここにいると思えるのだ。
 何故手が空いているから、反撃は喰らわないと思えるのだ。
 その刀が肉を斬れるなんて馬鹿な妄想を抱ける神経が、綜真には理解出来ない。
 鈍くきらめいた刀を眺めている綜真の足下から、土が盛り上がった。
 人の胴体ほどの太さがあるそれは蛇のごとく伸びては身体をくねらせる。
「う、ああああああ!!」
 動揺した他の三匹が悲鳴を上げる。
 だが主格の猿はさすがというか悲鳴は上げなかった。刀をそのまま土へと下ろしては何かを呼んだ。
 唇が動き、源が猿の身体に流れるのが感じられる。
 術を使うようだったが土の中に叩き付けられたのはただの炎だ。
「馬鹿が」
 そんな炎ごときで何が出来る。
 土の蛇はそれに口をぽっかりと開けた。あっさりと炎を飲み込んではようやく恐怖を見せた猿へと頭をもたげる。
 もしその土の蛇に目があったのならば、貪欲な光を見せたことだろう。
「これは俺のものだから。渡しゃしねぇよ」
 玻月の親姉弟が聞けばきっと冗談ではないと言うだろうが、旅の連れにしている間はそう言っても構わないような気がした。
 戻るつもりがないのならば、玻月は己のものだ。
「な…っ!」
 猿は何を言おうとしたのだろうか。
 しかしそれを最後まで言わせるつもりはなかった。
 土の蛇は再び口を開けては猿へと襲いかかる。
 怯えて猿は逃げようとするが、それより早く蛇の口は猿の腕に届いた。
 耳をつんざくような濁った悲鳴が響き渡る。
 刀を握っていたはずの猿の腕は、肘から先が綺麗に無くなっていた。
 血が噴き出しては床の板を汚す。
「欲をかけば失うのは道理。伸ばしすぎる手なら切らねぇとな」
「ぐ、うぅ……てめぇ……」
 猿は失った右手を惜しむように肘を掴んだ。止血しなければ命が危ういと知っているのだ。
 炎が使えるのならば先端でも焼けばよい。そうすれば血は止まるだろう。もっとも激痛を味わう羽目になるが。
 憎しみに煮えた双眸で睨まれるが、綜真は嗜虐的な笑みを深める。
「次は首か?それとも、後ろの奴か?」
 背後にいる三匹を見ると、今にも腰を抜かしそうだった。
 かたかたと震えている者までおり、この小屋に入って来た時に怒鳴っていたあの威勢はどこに行ったのだろうか。
 静まりかえった小屋の中で、腕を切られた猿の荒々しい息づかいだけが聞こえていた。
 襲いかかってくる気配のない四匹に綜真は拍子抜けをする。
(下っ端とは言え、紅猿もこの程度か)
 命が消えたとしても、恥をかかされて黙っていられるものか。という気概はないらしい。
 ただ綜真が次に何をするのかということを窺っている猿たちに綜真はやってられないとばかりに溜息をついた。
「興ざめだ」
 やってられん、と呟いては猿たちに背を向けた。
 武器を持つ者に背中を向けることは危険だとされているが、土の蛇はまだ消えていない。しゅるりと、本物の蛇が喉を鳴らすように砂が零れる音を出している。
 綜真がある程度離れれば消えるだろうが、何も身を守る術はこれだけではない。
 怒りが込み上げると同時に滲み出た源がたまたま土と共鳴したから呼び出しただけだ。
(つまらん、ちっちぇ猿だな)
 もっと大きく、危うい者が面白いのに。これでは気晴らしにもならない。
 そう思いながらも玻月がいるのならばこのくらいつまらぬ暮らしの方が良いのかも知れないな、という冷静さも持っていた。