三千世界   弐ノ壱




 肌寒さに首をすくめる。冬が来て空は随分低くなった。
 薄くなびく雲の下で冷たい風が綜真の頬をそっと撫でる。女の手のように微かな感触だが身体の芯を凍らせようとする性根の悪さがあった。
 吐く息もそろそろ白くなるだろう時期に、綜真は先急いだ。
 こんな季節に野宿などするものではない。
 まして連れがいるなら尚更だ。
 己よりも半歩後ろを黙って歩く狼をちらりと振り返った。
 玻月を連れるようになってから一年が過ぎていた。
 会ったばかりの頃はまだ十二、三ほどにしか見えなかった、がりがりの狼だったのだが今はようやく十五ほどにまで育った。
 最も実年齢は十七だ。
 まだまだ身体が追いついていないことは間違いない。
 それでも薄っぺらだったら身体に肉が付いて、しなやかに伸びていることは喜ばしいことだろう。
 父親が見れば笑みを零すだろう自信があった。
(見違えたと抱き締めるくらいはするだろ)
 きっと姉と兄も同じことをする。家族に対する情の深さは底がない。
 それが狼たちの在り方だ。
 しかしその態度に玻月がどんな反応をするかは分からなかった。
 里で育った、群れで生きていた狼ならば笑顔でそれを甘受する。抱き締め返すだろう。けれど玻月は狼なのに狼の中で育ちはしなかった。猿の中に入れられ、犬として扱われたのだ。
 そのせいか狼らしくない。
 甘やかな金色に見える毛並みが一層玻月を狼から遠ざけているようだった。
 狼は他の種族に対しては警戒心か強く、大変保守的だ。けれど玻月はそれが他人全てにわたっている。信頼していたのは自身と同じ存在であった人形と、もしかすると群れの中で玻月をかくまっていたと思われる術師だけかも知れない。
 それでも一年ともに過ごして綜真にも懐くようになった。
 寝る際は自ら寄ってくる。出した物は何も疑いもなく食べる。相変わらず無口でほとんど喋りはしないのだが、綜真の言いたいことを察するようにもなってきた。
 手間もかからず文句も言わない。
 前にいた賊たちの中にいるのと今とどっちがましだと聞くと、こちらだと言うくらいなので不満もそうないだろう。
 感情を示すはずの耳や尻尾は常に淡々としたもので、玻月が何を考えているのかは把握出来ないが、面倒なことはやらかさないので気にしていない。
 一緒にいる相手が何を思案しているかなど、己の邪魔にならない限りは知る必要のないことだ。
 そこまで玻月を詳しく掘り下げる気持ちはなかった。
 ぐっと短くなった夕暮れに急き立てられるように人里に入り、綜真はまず宿を取った。
 人通りが少なくない里ではあったが、宿は空いていたようで女将は腰低く部屋をあてがってくれた。
 寝床が確保出来たところで宿から出ては腹ごしらえをする。ここ何日も己が作った味気ないものばかり口に入れていたのでそろそろしっかりとしたものが食べたい。
 出来れば暖かいものが良いだろうなと思って饂飩屋の暖簾をくぐると見覚えのあるものがそこにあった。
 茶色の頭に同色の耳。後ろ姿だが間違いないだろうと思った。
 くるりと丸まった尻尾は典型的な犬のものだ。ひょろりと高い背は綜真と同じくらいであり、ずるずると饂飩をすする音が聞こえる。
 知人ではあるが別段声を掛ける用事もなく、綜真はやってくる店の女に目を向けた。
「二人分頼む」
 まだ幼いと言えるほど若い女は「はい」と愛想良く返事をしては席へと促してくる。綜真が一つの卓を選ぶと玻月は大人しく向かい側へと腰を下ろした。
「饂飩食うのも久しぶりだな」
 つい口から零れた独り言だ。  すると視界の外れで犬がぴくりと耳を動かしたのが分かる。その上勢い良く振り返ったのだ。
 誰の声に反応したのかは、考えるまでもなかった。
「あ、あぁ」
 犬の男は饂飩の入ったどんぶりを手に持ったまま、身体ごと綜真を振り返る。箸で饂飩を持ち上げている状態で目を丸くした。
「綜真じゃないの!?綜真綜真」
「繰り返すな」
 名前を連呼されて喜ぶような趣味はない。
 まして男の声は大きく、店の中にいた他の客も何事かという目で見て来た。
 だが玻月はほとんど動かない。この騒動でも気にしないのだから他者に関してどれほど無関心であることか。
「久しぶり〜。俺のこと覚えてる?灯成だけど」
 とうせいと言う響きは懐かしいほどだった。へらりと笑うそのしまりのない表情には変わりがないなという呆れが湧いてくる。
 全体的に弛緩している生き物だ。
 常に強張ったものを感じさせる玻月と共にいるせいか、灯成の態度には気が抜ける。
「そういえばこの辺りは犬っころがうろついている土地だったな」
 どんぶりごと移動して来た灯成は犬っころという言葉に眉を下げた。さすがに嫌らしい。
「ころはいらないでしょうが」
 そう本人は言うけれど、犬っころという単語がよく似合うのだ。
 茶色の人懐っこい犬はこの周辺の里をうろうろしている。他の犬より確実に広い範囲で歩き回っているので、野良犬と言えるだろう。
 しかし身なりもこざっぱりとしており、すれたところのない態度と双眸は里に住み着いている犬と差がない。
「四年ぶりくらい?」
「だろうな」
 綜真の隣に座って再びずるずる饂飩を啜る灯成は、向かい側にいる玻月を確実に意識していた。あからさまに視線を送ることはしていないが、頭に付いている耳がそちらに僅かに傾いているのだ。
(似たような生き物たが違うって感じるだろうな)
 こうしていると玻月と灯成は同じ犬のように見える。だが当人たちは互いが違う生き物だと薄々感付いているはずだ。
 しかし綜真はそれに関して自ら喋るつもりはなかった。
「どうしてんの?」
 綜真が源を探し求めてうろうろしていることを灯成は知っている。
 それが明確な何かを得られることでも、また終わりがあるわけでもないことも理解しているだろう。だから現在綜真が何を思いここにいるのか、見当が付かないのだ。
「いや、どうしたもこうしたもないが。言うならば人探しをしてる」
 血眼になって探し求めているわけではない。玻月や炯月から頼まれたので力は入れるつもりだが、他に己の欲望を掻き立てるものがあればそれを優先させるつもりだ。
 そのことに関してはすでに話してある。
「誰を?」
「紅猿の術師」
 玻月と全く同じ存在を作り出したという術師。それに会って玻月のことを聞かなければならない。そして今後、玻月がどうするかも知っておきたいところだった。
 もし術師と生きていくというのならば、それを炯月に伝える役目も負うことだろう。
 慟哭を響かせることは容易に分かるので出来れば避けたい未来ではあるが。それでもあの父親は玻月が望むのならば刃ですら飲むのだろう。
「へぇ、またなんで?恨みでもあんの?」
 綜真が賊の術師に関心を示すのが奇妙に思えるようだった。
 源の大半を所持している綜真は他の術師を追い求める必要性がない。己より優れた術師などそう転がっていないからだ。
 そんな傲慢さを知っているだけに、灯成は源の関わりではなく何か怨恨があるのだろうと思ったのだろう。
「あったら逃がしたりしねぇよ」
 綜真はそう言っては口元に剣呑な笑みを浮かべる。
 もし己に煮え湯を飲ますようなことがあれば、即座にそれを覆す。
 屈辱を与えられたのならば、死ぬよりも重く狂わしい恥辱を植え付ける。何かを奪われたのならばその者から全てを奪取する。
 やられたのならば何倍にしても返すのが主義だ。
「その場で皆殺し?」
「当然だな」
 間髪入れずに返答すると灯成は恐ろしいと肩をすくめた。だが復讐に手を抜く馬鹿などおらぬだろう。
「それならなんで探してんの?」
「……これが術師に用がある」
 これと言って綜真は視線で玻月を示した。するとどうしても灯成は玻月を見てしまう。
 見られた玻月は何の感情もない、淡々とした眼差しを向けているのだが灯成の方はすぐに目を逸らした。
 気まずいと顔に大きく書かれている。
「ねぇその子……犬じゃないよね?」
 恐る恐ると言ったように灯成は声を潜めた。だがそれくらい声量を落としても狼の耳ではしっかり聞こえてしまうことだろう。
 だが狼として育てられていない玻月は犬と比べられたことも頓着しない。狼であったのならば激怒することでも、この子の感情に触れることはないのだ。
  「狼だ」
「おっ、狼!」
 灯成は動揺したのだろう。持っていたどんぶりが揺れるほど身体がびくつかせた。
 中にあった汁が少しばかり零れそうになって綜真は思わず身体を引いた。
「毛色が違うじゃないか!」
 狼であるなら銀灰が混ざっているべき。こんな明るい色で良いはずがないだろうと言いたげだ。けれど玻月とて好きでこの色ではない。
(ま、この色だからこそこいつはここにいられるんだが)
 でなければ今頃どの遊郭に入れられていたことか。
「変わった色なんだよ」
 どうでも良いことのように綜真は言うのだが、灯成はちらりとまた困惑の目を玻月に向けた。
 狼と犬では狼の方が位が高い。なので気を遣っているのか、無意識に恐れているのか。しかし玻月はすでに灯成を見ていなかった。
「妙な気配だと思った。てもなんで狼連れてんの?」
「訳ありだ」
「だろうけど。まだ子どもだろ?よく連れて行けるね。親は?」
 狼は少なくとも子どもの内は里にいる。外の世界に出るのは成獣になり、何があっても己の力で切り抜けられるようになってからだ。
 なので外の世界にいる生き物たちが知っている狼はどれも強く、気高い成獣ばかりだろう。
 もしくは親から攫われて遊郭で飼われている哀れな籠の者か。
「親の許しはある。むしろ頼まれたくらいだ」
「へぇ!」
「色々事情があんだよ」
 一から説明するのは面倒だ。それに知らせる理由もない。なので素っ気なくその話題を切った。
 綜真が問いに答えないのは珍しくないことであり、好奇心のままに深追いをして綜真の逆鱗に触れる恐ろしさを知っている灯成は「ふぅん」と曖昧に返事をした。
「それで、紅猿について何か知っているか?」
 この辺りをうろついており、人の良さそうな顔をして他者の懐に入るのが上手い灯成だ。何かと情報を持っていることが多い。
 なので綜真もこの男をあてにする場合がある。
 顔を合わせたのだからついでとばかりに尋ねると、にやりとした笑いが返ってきた。
「丁度良いところだよ」
「良いところ?」
 どういうことだと怪訝な目を向けると灯成は声を落とす。
 そして顔を寄せてきた。
 しかしどんぶりがあるのでそれも限界があった。まして綜真は男に顔を寄せられることに不愉快さはあっても歓迎はしない。
 片手でそれ以上近付くなと制止をかけると灯成は片眉を上げた。
 芝居がかった仕草を楽しんでいたのだろう。興ざめしたというように膨れっ面を作られた。
 だが出し惜しみはしなかった。
「紅猿の下っ端がこの辺りにいるよ」
 思わぬところで引き当てた。
 綜真の口角がくいっと上がり好戦的な色がそこに滲んだ。