三千世界   九




 真昼の光を浴びて、林の傍らを歩いていた。
 玻月はやはり綜真とはやや距離を空けている。
 一晩共にしたくらいで容易に警戒を解く相手でないことは分かっていたので気にもしない。
 道中に会話などほとんどなく、とても静かなものだった。
 話す必要がなければ話さない。
 それが二人に共通する意識のようだったので、無理に口を開こうとは思わなかった。
 その静寂の中で、風が切れる音がした。
 それは耳に届いてきた音というより、感覚のようなものだった。
 まるで頭の中に直接風が割れる様が見えているように、感じられる。
 振り返ると、玻月も一拍遅れて同じ方向を見た。
 こちらはぴんっと立ったその耳で音を拾ったのだろう。
 極度に警戒しているのはその耳が小刻みに周囲を探っているところからして察せられる。
 そして声を張り上げようと息を大きく吸い込んだのが聞こえた。
 しかし綜真はその声を待つことなく、腕を胸の位置まで上げて真っ直ぐ正面に伸ばした。
 まるで壁を押すかのような体勢だ。
「足を踏ん張れよ」
 玻月はきっと「避けろ!」と叫ぼうとしたのだろう。だが綜真はその前に軽く告げた。
 それが合図だったかのように疾風が襲いかかってくる。
 人の身体など吹き飛ばすような勢いのある風だ。その証拠に土までえぐれていた。
 しかし綜真や玻月の元にはそれが届かない。
 伸ばした綜真の右手からも風が巻き起こったからだ。
 襲いかかる風を巻き込み、飲み込み、綜真の風が見えない壁を作る。
 暴風の衝突は激しく、玻月は両腕で顔の前を覆っていた。大声で叫んでも風のためにすぐ消えてしまうほど、音が荒れている。
 風の壁はじわりじわりと敵の風を食い始めている。
「さあ、どっから来てる」
 この風の様子では少しずつこちらに近付いてきているようだが、どれだけ力を増しても綜真が押されないことに焦れていることだろう。
 姿を出すだろうか。だがその前に、全て。
「風を蹂躙し終わるかもな」
 笑いが込み上げてくる。
 力と力がぶつかり、嵐を起こして荒れ狂う。
 純粋な術の食らい合い。まるで生き物のように抗い、もだえ、牙を向き合うこの力たちの禍々しさと強さは神々しいほどだ。
 同時に浅ましくて愉快だ。
 高く、卑しく、命のようで目を離せない。
 敵の風が悲鳴を上げるように大きく乱れてゆく。
 制御を放棄して、力強さのみを風に与えているからだろう。
 それでも綜真は悠然と立っている。
 小さな命を少しずつ削り取っていく感触。嗜虐心に歪な笑みが深くなる。
 相手が必死になっているのを感じれば感じるほど、もっと高みへと押し上げたくなる。
 命の限界まで無理矢理に持ち上げて、そして燃え尽きるその時まで使い果たしてやりたい。
「羽が混じったな。ってことは鳥か」
 荒れ狂う風の中には木の葉や枝に混じって鳥の羽が幾つか舞っている。
「風の民が、風で押し切られるのはさぞかし屈辱だろうな」
 源の恩恵を受けている民が、同じ源に殺されるなど。最も恥とされる死に方だろう。
 そうと知りつつ、綜真は風を止めなかった。
 むしろ切り刻もうと歓喜する風を鋭く、そして速くしてゆく。
 どれだけ民として、生まれながらに風を宿していたとしても。所詮力の差は埋められない。
「それにしても邪魔なもんがいっぱい混ざってんな」
 木の葉や枝に羽という、様々なものが混ざった風。玻月はそれらに巻き込まれることを恐れ、綜真のすぐ近くまで寄ってきていた。
 どこが最も安全なのか、見ていて分かったのだろう。
 見た目が綺麗とは決して言えないその風が、少し気に入らない。
「燃やすか」
 ぼそりと呟いた声は嵐に消される。しかし思い付いたことまでは掻き消すことはない。
 綜真は風を右手で留めたまま、唇で火を呼ぶ。
 その瞬間だけは風が僅かに緩まった。それに気が付いた敵はここぞとばかりに風を強めてきたのだが。
 綜真の風に灯火が混ざる。
 ぽっぽっと、それら一つずつは星のように小さな光でしかなかったのだが。風に混じっている木の葉や枝、羽に触れると爆発を起こしたように一気に炎が燃え上がった。
 赤く、紅く、火に染まっていく風。
 狂気そのものであるかのように吹き荒れては大気を焦がしていく。
「これの方が綺麗だな」
 綜真は口角を上げては剣呑なことを呟く。
 その炎が敵の風を浸食して殺す様を眺めながら。
「さあ。食らい尽くせ」
 どこか優しげに、どこまでも非情なことを綜真は風に命じた。
 どくりどくりと脈打つ心臓が高笑いをしているように、みんな切り刻んで燃やしてしまえばいい。
 力というのはそのために存在している。
 歪、非道というよりもはや欲に取り憑かれているような綜真の有様に共鳴するように、風は敵の風を陵辱し尽くす。
 視界は灯火を纏った風のみになった時、遠方で悲鳴が響いた。
 鼓膜を裂くような、高く忌々しい声。
 それを聞き、我に返ったように綜真は手を下ろして風を止めた。
 主に従う忠義の高い風はすぐさま霧散する。
 一瞬前まで唸り、荒れ狂っていたというのに、消えるのは瞬時だ。
 その従順さは嘘のようだった。
(あの悲鳴は人型のもんか)
 羽が混じっているから鳥そのものかと思ったのだが。
 どうやら少なくとも顔の辺りは人の形をしているらしい。
「鳥なら食えるが人なら食えねぇな」
 この世は神格と人と動物がいる。
 神格は動物の形をどこかに宿した、おおむね人に近い姿をした生き物だ。源を強く宿し、人からは神様と人との間だと言われている。
 数はさして多くない。
 動物もまた源を宿して生まれてくる者が希にいる。この世にいる動物はけた外れに大きく、人を食らう者も存在している。だから今回はそれが襲いかかってきたのかと勝手に想像していた。
 人や神格であるのなら手は出して来ないだろうと高をくくっていたのだ。
 この辺りはよく綜真が通っているので、悪名もそれだけ知られているものだと思っていた。
(俺の噂もまだまだ小せぇってことか)
 術を乱用してこの世を荒らし回っている、極悪非道の術師。そんな噂が流れているのは知っている。そしていまいちそれを否定出来ない現状なので、笑うしかない。
(まぁそれはいいとして)
 人の形をしたものは食べない。
 それは同族食らいを厭う人の間では当然のこととされている。まして神格が食べるはずもない。それは人でも動物でもない、餓鬼のすることである。
 それが綜真の認識なのだが、いくら賊上がりであっても玻月とて同じ意識を持っていると思いたい。
 賊たちとて神格であることに違いはないはずなのだから、そのくらいの分別は持っているばずだが。
 そう期待して玻月を振り返る。
 するとそこには驚愕のまま、呆然としている狼が一匹いた。
「大丈夫か」
 そう声を掛けると、玻月はひくりと耳を動かした。そして瞬きをしてから綜真を見上げる。まだ驚きが納められていないようだ。
「アンタ、風も使えるのか」
 声は少し上擦っているようだった。
 おそらく今まで見たことのない光景が繰り広げられたことに気圧されているのだろう。
 それだけ派手な術のぶつけ合いだった。綜真自身もこれほど規模が広がったのは久しぶりだった。だからこそ、愉快だったのだが。
 自然と口元を歪めた笑みですら玻月を驚かせ、また威圧してしまったのかも知れない。正直、決して趣味の良いものではないからだ。
 欲望にまみれた、悪鬼のごとき表情だっただろう。
  (玻月がいることも、忘れちまったな)
 もう少し大人としての理性を持つべきだった。だが術を駆使している際の己に、そんな余裕があるはずもない。
 楽しむことで頭がいっぱいになっているのだ。
「風どころか、大抵のもんは使えるって言っただろ?」
 玻月が明らかな怯えを見せていないのがまだ救いだ。
 警戒心を更に強めることになると、今後が面倒になる。
「だけど。火まで出すなんて」
「同時に二つくらいなら混ぜられる。造作もねぇよ」
 きらきらと炎をまとわりつかせる風は玻月にとってはこの世のものではないように見えたのだろう。
 綜真にとっては大したことでもないのだが、他の者にとっては幻のようなものらしい。
「みんな、そうなのか?」
 玻月は少し上目で尋ねてくる。それまでの己の考えは浅かったのだろうかと、思い直そうとしているかのようだ。
「まさか。相当優秀な奴じゃねぇと無理だろ。同時に二つってのは体内に二つの気を呼ぶってことだからな。器用にやらねぇとぐちゃぐちゃになる。俺は別格だ」
 己のことは、他者とは異なるのだと告げても驕りだと責められる筋合いはない。
 実際に別格だからだ。
 生まれからして異なるのだから、別格で当然。そうでなければ親の立場がないだろう。
 玻月は、そういうものなのかと納得出来たのか。もしくは理解出来るものではないかと放り出したのか。それ以上、術のことに関しては尋ねなかった。
 しかし代わりに耳を少し動かして別のことを呟いた。
「人のくせに、耳がいいな」
 耳の良い狼より先に、綜真が風の音に気が付いたことを思い出したのだろう。
 この大きな耳が劣っていると感じるのが癪なのかも知れない。
「風が切られたことは、俺が纏っている風が言ったんだ」
「纏う…」
 玻月は綜真の姿を眺める。目に見える何かを探しているのだろうが、残念ながらごく微量の風は見えるものではない。
「分かり易く言うと、周りの大気をてめぇ自身と一体化させてんだよ。だから何かの異変があった時はすぐに察知出来る」
 綜真は周囲に鳴り子を張り巡らせているようなものだ。
 微かな変化、敵襲などがあった場合はすぐさま感じられる。
 それが術であっても代わりはない。
「……とんでもねぇな」
 玻月はやってられないとばかりに首を振った。
 術にさして詳しくないであろう玻月でも、呆れてしまうほどなのだ。まともに術の鍛錬をしている者からすれば、綜真など冗談のような生き物だった。
 だがその扱いにも慣れてしまっているので、肩をすくめると綜真は何事もなかったかのように歩き始めた。