三千世界   十




  門をくぐり町の中に入ると、玻月は途端に警戒心を強めたようだった。
 生き物の数が急増したからだろう。
 ここに来るまでに三日。子どもと共ならどれほど時間がかかるだろうかと思っていたのだが、一人で歩いていた時と変わりのない時間に辿り着いた。
 どうやら玻月を気にして時間を遅らせる必要はないようだ。
 手間のかからない子どもだ。
 正門の中は賑やかなかけ声が満ちていた。
 この町はよく栄えている。山の道たちが集中している場所なので生き物たちが集まりやすい。その分多くの品物がそろえられるので、自然と活気があるのだ。
 そしてその栄えを元として、更に栄華を誇るものがそびえ立っていた。
 正門からもよく見える。赤く大きなもう一つの門。
 煌びやかな装飾が施され、まだ太陽が顔を出している時刻からともっている提灯。
 綜真は町のあちこちにある店たちには目もくれずに、その門に向かった。
 玻月も黙って付いてくる。
 朱色の門には男が数人立っていた。
 筋肉の目立つ、非常に大柄の男たちだ。
 ちらりと綜真と玻月を見るが、何も言わずに通してくれる。
 門は大きいのだが、通り抜けられる部分は狭く小さい。一度に三人通れれば良い方という、極端な差があった。
 むちろん意図として作られている。
 ここは幾人もの生き物を一気に通すわけにいかないのだ。
 門をくぐると、そこは赤い世界だった。
 玻月が息を呑むのが気配として伝わってくる。
 無理もないだろう。
 この門の内側と外側ではがらりと雰囲気が異なる。
 中は女の笑い声や、客寄せをしている男の声が響き渡っている。
 大通りである一本の真っ直ぐな道の両側に建物が幾つも並んでそびえていた。そのどれも似たような造りをしている。
 赤か橙ばかりの提灯がずらりとかけられ、朱色の格子が視界を埋める。
 道を歩いているのは男ばかり。女たちはみんな格子の内にいる。
 こびを売るような声。誰かを呼ぶ甘ったるい声。
 それに応じるのは笑い声や、値踏みするような卑しいものたち。
 この空間は綺麗というより華美だ。着飾りすぎて、悪趣味だとすら言えた。
 斜め後ろで歩いていた玻月は、半歩ほど綜真との距離を詰めた。耳が忙しなくあちこちを向いている。
 獣の姿であったのなら全身の毛が逆立ったことだろう。
「玻月。遊郭に入ったことはあるか?」
 狼の村で育っていたのなら有り得ないことだ。だが賊で暮らしていたのなら可能性はある。
 面白半分で連れ込まれていたかも知れない。
 もし売られていたのなら、玻月は格子の向こう側だったのだろうが。
「ない」
 返事は端的な物だ。
 だからこれほどに警戒しているのだろう。
「ならここが不思議なところに見えるのも仕方ねぇな」
 異世界のように思うかも知れない。
 子どもには触れることの出来ない。隔離された場所だ。
「……気味が悪い…」
 ぼそりと玻月は呟く。それは冗談でもなく本気であることは、気性から窺える。
 思わず綜真はからりと笑ってしまった。
「気味が悪ぃとはな!まー、おまえにとっちゃそうかもな」
 男にとっては極楽と言われているこの場でも、玻月にとっては気味が悪いだけのものらしい。
 何も知らない子どもであったのなら、異様な熱気が渦を巻いているここは、気圧されるものがあるのだろう。
 まだ己が手を出すものではないと判断しているかも知れない。
(しっかし十五ならそろそろ女に興味がある年だろうに)
 己を思い出すと、こんな場所にも入り込んでいたものだが。玻月はまだ遠いようだ。
 まだ身体がそこまで成長していないのだろうか。もしくは心が未熟であるのか。
「女抱いたことねぇだろ」
「ない」
 躊躇いの何もなく、玻月は答える。分かり切っていたことだ。
(この見た目じゃ女抱くとか以前かもな)
 女たちも玻月では抱かれようとも思わないだろう。
 綜真も、飯を食わせようかという気持ちはあるが。女を与えようという気持ちには到底なれなかった。
「お兄さん」
 店の前で景気良く声を上げていた男が声を掛けてくる。
 見ると茶色の耳が頭に生えていた。
 だが玻月とは全く異なる。人の良さそうな顔に、媚びるような声。
「可愛い声で啼く女がいるんですがね」
 そう親しげに言う男の背後には格子が並んでいる。女たちはそれぞれに笑みを浮かべ、手招きをしている者もいる。
 豪華な着物の群。帯は全て前で結ばれている。ついっと指を引っかければほどけることだろう。
 玻月はその光景に僅かに後ろに下がった。嫌がっているようだ。
「生憎馴染みがいる」
「たまには新しい子のお相手もよろしいかと」
 下から覗き込んでくるような姿勢でいる男に、綜真は苦笑した。
「馴染みに知れると機嫌を損ねる。頭から食われちゃかなわねぇ」
 遊郭は義理に厳しい部分がある。
 顔馴染みになると、よそに行くのは情がないとなじられる。
 まして綜真は女を抱くためにここに来たわけではないのだ。
 だから格子の中身には気を引かれない。
 男の話をそれ以上聞くことはなく、目的の館へと足を進ませる。
 それは赤い世界の中でも人目を惹く、赤紫を纏った大きな館だった。
 毒々しいとすら言えるその彩りを見上げ、綜真は入り口の暖簾をくぐった。
 外の格子には綺麗な女たちがいたが、目もくれない。
 中に入ると男が駆け寄ってくる。こちらも犬の耳と尾を持った男だ。
 番犬なのだろう。強面だ。
 目が合うと、向こうは綜真が誰に会いに来たのかすぐに察したようだった。
 何度も通っているとそうなる。
「姐さんを」
「承知致しました」
 男はちらりと玻月を見たけれど、何を問いかけることもなく奥へと入り込む。
 玄関の頭上は吹き抜けになっており、眩暈がするほどの高さまでこの建物が連なっていることが分かる。
 くるりと回りながら昇っていく階段も、同じだけ高く高く伸びていた。
 気の遠くなるような距離だ。
 男はすぐに奥から戻ってきた。そして階段の方へと手を差し出す。
「どうぞお上がり下さい」
 姐さんはどうやら上にいるらしい。
 この館を支えている女は、綜真が尋ねた際は上にいることが多い。最も高い位置でこの館の全てを眺めているのだろう。
 綜真は頷いて階段に進むが、玻月の顔が僅かに強張ったのが分かった。
 この距離を昇るのかと、うんざりしたのだろう。
「随分嫌そうじゃねぇか。途中でへこたれそうか?」
 からかってやると玻月は見事に無視して綜真の後に続いてきた。
 実に可愛くない反応だ。
 しかし昇ることを躊躇うのも無理はないと分かっている。
 ずっと、延々続いている階段は壮観なほどで、実際これを昇れと言われれば綜真は笑えねぇ冗談だと言い返したことだろう。
「まー心配すんな。全部昇ってたら日が暮れちまう」
 大袈裟な表現ではない。
 すでに外は紅色に染まろうとしているのだ。律儀に昇っていたら宵を迎えることだろう。
「向こうさんはそれほど気が長くねぇ。だから途中で」
 そう語っていると、大気が歪むのを感じた。
 術の気配だ。
 この屋敷を造りだし、最上に鎮座している者が二人を呼んだのだ。
 綜真は抗いもせず、大人しくその術に包まれた。もしここではない場所でこの気配を感じれば、はね除けていたことだろう。
 力ずくでまぶたを下ろされたような感覚に包まれた。その後目の前に広がっているのは大きな襖だ。
 椿の絵が描かれた、煌びやかな襖。
 その左右にはおかっぱ頭の女童が控えている。
 こちらも綺麗な着物を纏い、きちんと淡く化粧までほどこされていた。
 背後で玻月が絶句している。
 あまりにも唐突に、しかも理解し難い場に連れてこられて呆然としているのだろう。
 多少気の毒であるが、綜真と共にいると今後もこういうことは後を絶たない。
「術で呼ばれたんだよ。ここはあいつの腹ん中みたいなもんだからな。これくらいは造作もねぇ」
「腹の中……」
 驚きつつも、玻月は目の前にあるものを認めようとしていた。同時に腹の中という言葉を呟く。
 大丈夫なのかと問い詰めたいところだろう。
「悪さしねぇ限り何もして来ねぇよ」
 その辺りはちゃんと分別のある相手だ。
 そもそも、その辺りを区別しない者を綜真は相手にしない。馬鹿馬鹿しいからだ。
 最後の一段を昇の終わると、女童が襖に手を掛けて開けてくれる。
 双子なのか。動きは一拍の乱れもなく同時だった。
 静かに開かれた部屋の中。こちらは橙よりも黄色に近い色の提灯がぶら下げられていた。落ち着いた装飾の数々。
 箪笥も香炉も、衝立も華美ならず落ち着いた様を見せていた。だが品物は良いのだろうということだけは疑いようもない。
 この部屋にだけ、窓に格子ははめられていない。必要のないものだからだ。
 踏み入れると、上座に女が座っていた。
 金糸で張られた蜘蛛の糸に、美しい蝶が捕らわれている絵だ。
 その前で女で脇息にしなだれかかるようにして足を崩していた。
 髪は耳から上の部分は綺麗に結い上げられている。紫色の玉がぶら下がる簪で艶やかな黒髪を飾っていた。
 下の髪はそのまま垂らしている。
 長く、紅色の着物の上で絹糸のごとく広がっている。
 女は綜真を見て嫣然と微笑んだ。血のごとく色づいている唇。瑠璃色の瞳。背筋が凍るような、非の打ち所のない麗しい容貌。
 緊張をほどいたその瞬間に頭から食らいつかれるような、そんな恐ろしさを女は纏っていた。
 美しさなら蝶のごとくと言える。だが女の後ろにあるような、何かに捕らえられるようか弱い蝶などでは決してない。
 むしろ女は、食らう側だ。
 華より華々しい生き物。
 そして毒のように底知れぬおぞましさも纏っている。
 いつ見ても、この女は怖い。
 しかし男であったのならこの怖さに心奪われるものだった。綜真が冷静さを保っていられるのは、この女の本性が何であるのかを知っているのと、女より術に捕らわれて我を忘れるたちだからだ。
 変わり者だから、と言った方がはっきりしている。
 ここまで付いてきた玻月もこの女に捕らわれるだろうか。ちらりと背後を振り返ったが、玻月は女からすでに視線を外していた。
 見とれてしまった恥ずかしさというより、見てはならない者が目の前にいるというような態度だ。
(まだ幼いな)
 己には巨大である。近付けない。そう判断したのかも知れない。
 今はその幼さがありがたい。
 女に惚れ、ここにいたいとただをこねられると面倒だ。
 しかしこの状況に対して極度に緊張しているのは、膨らんだ尻尾からして明らかだった。
(尻尾にまで出るなんて珍しい)
 警戒心を露わにしても、尻尾にまでそれを出すことは少なかったのに。それだけこの女が怖いか。
 無理もない、と綜真は苦笑した。
 ここは、蜘蛛の巣の中だ。