三千世界 八 (ようやく寝たか) すぅすぅと微かに聞こえてくる寝息に、綜真は溜息をついた。 寄り添っている玻月の身体はずっと硬いままだった。 非常にこちらを警戒しており、到底眠れるという状態ではなかったのだ。 だがそれでは困る。 怯えてはいないが、始終こちらを気にして背中も見せない関係ではその先共に旅をするには疲れる。 様々な部分でぎくしゃくとして、気を使い合う羽目になるだろう。 それは無駄に気力を奪われるということだ。 綜真にしてみれば遠慮したいことだった。 大抵、最初は他者を警戒しても自然と慣れていくものだが。玻月に関してはそれがかなり時間のかかることに思えた。 だから手っ取り早い方法に出たのだ。 無防備な状態を作り出し、その傍らに綜真を置く。 それを繰り返せば、いずれ嫌でも綜真に対しての警戒心を薄めるだろう。 何もしてこない。だいじょうぶだということを身体に分からせれば良い。 頭の方は後から付いてくるだろう。 「やっぱり術が要ったか」 寝ろと言っても玻月が一向に寝付かないので、綜真は術で玻月の意識を緩めさせた。 それは体内の気の巡りをゆったりとさせるものだった。 陽の気にそっと囁くものだ。 すぐ近くに玻月はいたけれど、きっと綜真が陽を呼んだことには気が付かなかっただろう。独り言を微かに告げたくらいの音しか、聞こえていなかったはずだ。 術師同士だったならともかく、そうでない相手にまで術を気取らせるような派手なものではない。 緩やかになった玻月の気は自然と眠りを誘い、玻月はいつの間にかまぶたを下ろして眠りに落ちていた。 起きたら呆然とすることだろう。 あれだけ警戒していたというのに、どうして眠ったのかと自我を疑うかも知れない。 しかしどれだけ驚いたとしても、綜真と共に眠ったことに違いはない。 これを繰り返せば慣れるだろう。 「……ちっこいな」 並んで座った時も思ったけれど、寝顔は特に幼い。 表情を見せることのない子が安らかそうに見えるからだろうか。 何の苦も知らないように錯覚してしまいそうなほどだ。 しかし細い身体が、玻月の今までを少しばかり語っている。 (食い物を気にしてた華月の気持ちも分かる気がするな) 玻月に食い物に苦労させないでくれと訴えていた姉は、この身体の細さが気になっていたのだろう。 確かに食い物を与えたくなるような雰囲気が、玻月にはある。 玻月自身がそういうことに無頓着に見えるので、余計に不安になるのだ。 (警戒心は強ぇし、身体は細ぇしよ。まるで彷徨ってる野良犬みたいじゃねぇか) 狼の子どもなんて、ふっくらとして幸せそうな姿しか知らない。 村の中で大切に育てられ、可愛がられて、笑顔に満ちている印象しかない。 それなのに玻月は、正反対だ。 きっとこれほどの孤独を背負っている狼は、他にいない。 狼の群すら知らない。狼の生き方もきっと知らないであろう狼なんて他にはいない。 けれど、だからと言ってもう一人の玻月を作ってやることは出来ない。 (もう一匹の自身なんて、都合が良すぎんだよ) 何でも聞き入れてくれる。納得してくれる相手。 それは甘くて、危険だ。 己が正しいと思ってしまい。己だけで世界が閉じてしまう。 この世には多くの生き物と、多くの意識がある。だがそのことを無視して世界は己の元にあるのだと勘違いしてしまう。 視界は閉ざされ、意識は固まり、見えるものも見えなくなることだろう。 他者を見ない、現を見ないものに対して、決してこの世は優しくはない。 玻月は緩やかに首を絞められていくことだろう。 それでは炯月が嘆く。 形代がいればきっと玻月は父すら見なくなる。 「……恋しいか」 形代が。 だから術師を探しているのではないのか。 玻月の記憶は本当に封じられているのかどうかも分からない。 ただあまりにも綺麗に、賊に入る前の記憶が欠落しているから、その疑いが高いというだけで。確かかどうかはまだ謎だ。 それでも玻月は術師を探すと言い出した。 それは、術師が恋しいからではないのか。 形代がいなくなった今、術師であるのなら己のことを分かってくれるとでも思ったのかも知れない。 (こいつは術師に情けをかけられていた節があるからな) 術師が、生まれてこの方一度も犬に会ったことがないというのなら話は別だが。犬というのは狼とは比べもにならないほど数がいる。なので出会ったことがないというのはとても考えにくい。 ならば玻月が犬ではないことくらい分かるはずだ。 術師なら、犬と狼が異なる気を宿していることは即座に見破る。 それなのに、術師は玻月を売らずに手元に置いたのだ。金になるはずだったのに。 その上友達として形代まで与えたなんて。情が沸いたのだろうとしか考えようがない。 賊の群の中で浮いていたであろう玻月が、その術師に情を感じて懐いていたと勘ぐるのは当然の流れだろう。 (一緒にいたいって言われたら、どうするかねぇ) 術師を探し出し、もし炯月とではなく術師と暮らしたいと言われた時。綜真はどうすれば良いのだろう。 いや、どうしようもないだろう。 きっと止める。止めて、炯月の気持ちを告げて、それでも駄目だったらその旨を村に持ち帰るしかない。 所詮綜真は他人だ。 しかしその結末はあまりにもあの父親にとっては辛すぎるものだ。 (そうならねぇことを祈るばかりだな) ああ面倒だ。そう思いながら吐いた溜息は白く濁った。 目を開いた玻月はぼんやりとした視線を彷徨わせた。 ここがどこなのか思い出そうとしているのだろう。 先日までは家の天井を眺めていたはずなのだ。小鳥の鳴き声とざわめく木々、隙間から零れてくる朝日。それらを瞳で見つめてから、首を回して綜真を見た。 ぱちりぱちりと瞬きをしてから、その蒼銀の目を見開く。 信じられない。 珍しくはっきりとした感情がそこには宿っていた。 こんな距離で今まで眠っていたなんて、どうしてそんなことが出来たのか。 玻月は固まったまま、再び周囲を確認している。 これが幻ではないのかとでも思っているのだろうか。 (どれだけ警戒心が強い生き物だおまえは) この状況が受け入れられずに幻覚を疑うほどだなど。 「いつまで夢ん中にいるつもりだ?」 ちゃかすようにそう告げると、綜真の声が鮮明に聞こえることに気が付いたのか。戸惑ったように口を開いた。 「……嘘だろう」 「何がだ。寝てた自覚はねぇのか」 綜真が冷静に問いかけると、玻月は首を振った。 そして深く息を吐く。 こんなところで寝るなんて不甲斐ないとでも、後悔しているのだろうか。 それはそれで可哀想なのかも知れないが、後々楽になるのはこちらだ。 玻月はもっと他者に頼るという方法を身につけたほうがいい。 何でも自力でやろうとしては無理がある。ましてまだ成獣でもないのだ。 それに親姉弟は頼って欲しいと願っているのだから、その癖を付けてやって恨まれることはないだろう。 「おまえにやった石。もう暖かくねぇだろうから出したらどうだ?」 寝る前に玻月に手渡した石は、そう長い間熱を発するようにはなっていない。そこまで力を入れていないのだ。 朝が来る前に冷えてしまっているだろう。 玻月は頷き、懐から石を出して地面に置いた。 その石に何か仕掛けでもされたと思ったのか、しばらくじっと凝視していた。しかし残念ながら、眠ってしまった原因はそれではない。 (何回か繰り返したら諦めもつくだろ) 今が冬で良かった。 これが夏であったのなら、寄り添って眠ろうと言っても暑苦しいと拒絶されて距離を縮めるのに苦労したことだろう。 綜真は竹筒から水を流し、片手に溜めては顔を洗う。 何の躊躇いもなく水を流していく綜真に、玻月はまた瞬きをしてこちらを見ている。 驚いているのだろうか。 旅をしている者に取って水はとても貴重なものだ。飲み水の確保だけでも大変だというのに、川でもあるまいし顔を洗うなんてどういうことかと思っているのかも知れない。 だが綜真にとってみれば水は今すぐにでも出せるものだ。 昨夜、実際にやって見せたように。 「どうした」 わざわざ問うてみると玻月は目をそらした。 「水、よく使うな」 やはり予想通りのことを考えていたらしい。 「いつでも出せるからな。特にこの辺りはいつでも探れる」 通い慣れているというのもあって、水脈は大雑把に把握しているのだ。だから水は惜しまない。 「苦労をするほど才が乏しいわけではない」 てめぇが誰と旅をしようとしているのか。ちゃんと目で見て知るがいい。 綜真は玻月に対してそんな気持ちを持っていた。 才を持つということは、源を使役すると言うことはこの世の理を使うということだ。 それがどれほど力になることか。そしてどれほど愉快なことなのか。いつか玻月にも分かる日が来るだろうか。来ると良い。 (これほどの喜びはそうそうねぇからな) 綜真は冷たい水ですっきりとした顔に、笑みを浮かべた。 次 |