三千世界   七




 月の子は己の身が何を宿しているのか、きっと知りはしないのだろう。
 あらゆるものを手に入れたと思われている男が焦がれてるものがそれなのだと、感じることもない。
「昔っから月にだけは関われねぇでな。どうにか手が出せないもんかと月の民である狼の村に行ったんだが」
 ここからは古い話だ。
 干し肉を何度も噛んでは柔らかくする。傍らで玻月も似たように肉を噛んでいた。
 鋭い犬歯がちらちらと見える。
「あいつらは特別警戒心が強い。他者は決して受け入れようとしなかった」
 訪ねては追い返され、話もろくに聞いて貰えない。
 村の中に入れるなど、言語道断という姿勢でずっと拒まれていたのだ。
 閉鎖的な村というのは珍しくもないのだが、狼ほどの気迫で拒絶されるとさすがに強気には出られなかった。
 それに村を蹂躙するためにやってきたのではない。むしろ近付くために、月のきっかけを掴むために来ていたのだ。
 対立するわけにはいかなかった。
「俺が入れたのはおまえみたいに賊にさらわれた子どもを、たまたま見付けて助けたからだ」
 運が良かったとしか言いようがない。
 村の外で奇妙な風の流れがあったから、なんとなく顔を出したら狼の子がいたのだ。
 あの時狼の子を囲んでいたのも猿だった。
 奴らは無駄に悪賢い。村に入る手段も様々に考えているのだろう。
 雌の子は十くらいの年で、あのままでは確実に売られていた。
「その子を助けて村に連れていったら、ようやく中に入れて貰えるようになった」
 村ではその子がいなくなったことに気が付いて、騒ぎになる寸前だった。
 子を連れていくと、村の中に入れるために綜真が子をさらい、脅しに来たのではないかと思われたのだが。十の雌の子がその辺りはしっかりと話をしてくれた。
 それまで氷のように冷たかった狼たちは、ようやく綜真に話に耳を傾けてくれるようになった。
 そしてそれからよく綜真を気にしてくれている炯月は、そのさらわれた子の叔父だった。
「まー、中にに入ったところで月の師に聞いたらふざけたことを言われたがな」
 源を体内に宿している種族の中には、一匹か二匹、特にその源を色濃く受けている者がいる。
 それは師と呼ばれていた。
 狼の村にもその師はいた。
 綺麗な雌の師は、月の源をなんとかして手に入れたい、触れたいと言ったら嫣然と笑った。だだをこねる子どもを宥めているような表情は、綜真が受けるには似合わないものだった。
「月が欲しけりゃ、他の源は全て棄てろ。そう師は言いやがった」
 あらゆるものを手に入れるなんて、そんな生き物の身に余るようなことは願ってはいけない。
 そう師は告げたのだ。
 その上で、月が欲しければその身に宿している源を全て捨て去りなさい。そうしなければ月は見えないと返してきた。
 綜真は冗談ではないと突っぱねたのをはっきり覚えている。
 どうして一つの源のために、他のものを全て棄てなければならないのか。割に合わない。
 そもそもこれほどの源を宿しているのは、この世で綜真ただ一人なのだ。その特殊な体内を手放すなんて考えたこともない。そして考える気もない。
「出来るわけねぇだろ。んなことはよ」
 だから綜真は月に触れられなかった。
 月の師も、ならば諦めるしかないと言っただけだ。
 綜真が源を棄てるつもりがないことはとうに分かっていたことだろう。
 他の方法を教えろと言ったのだが、そんなものは存在しないと退けられる。そしてこの世に生きている者全てがその理に添っているのだ、今では知ってしまった。
 月は己しか宿すことを許さない。
 狼たちはみな、月しか持っていない。
 他の種族もそうだ。月の恩恵を受けているものたちはみんな、他の源に触れることが出来なかった。
 なんと自我の強い。そしてなんと独占欲の強いものなのかと驚くほどだ。
「ま、諦めんのも癪だから。どうにかできねぇもんかと思ってんだが」
 手に入らない。だから素直に諦めろ。そう言われたところで諦められるほど、綜真は潔い生き物ではなかった。
 術に関してはどこまでも貪欲で、伸ばした手を引くということを知らずにいる。知ろうとも思わない。
(生きてる事と同じだ)
 求めることは生きていることだ。
 だから死ぬまで、欲しがることを止めない。
「……そのために俺を連れたのか」
 玻月はそう告げては残り少ない干し肉を口に入れた。
「そうだな」
 何の魅力もない相手をわざわざ引き連れて、歩き回ることはない。
 まして綜真は今さしたる用事もないのでしばらくは玻月の望みのために動いてやろうかとしていたのだ。
 術師に会いたいというのならばそれを探し出してやると言ったのだ。
(一番は月、二番目は炯月の頼みだからってのもあるがな)
 狼の村では何かと世話になっているので、炯月の顔を立てているというのもある。だがやはり己の欲に近付くためだ。
「……血でも飲むのか……?」
 恐ろしいことを話しているくせに、玻月は淡々としている。
 もう少し怯えを見せてくれたのなら、からかってやるのだが。
 これではからかっても冷たく眺められるだけのような気がして、やりづらい。
「はん、そんな外法使っても術が手に入んのは一瞬だけだろ」
 月を宿したいと言って、玻月がまず考えたことを綜真は鼻で笑う。
「すぐにくそになって出ちまう」
 そんな浅ましいやり方が何になるのか。
 そもそも身体の中に入った血を使って術を生み出しても、それは綜真自身が月を宿したことにはならない。
 所詮血だ。
 狼の血が月を呼んだだけだ。
 綜真はそんなことがしたいわけではない。ただ単純に呼びたいだけではないのだ。
(俺のもんにしてぇんだよ)
 玻月が生まれながらにして持っている。その生きている月の力を、この身体の生気に溶かしたいのだ。
「俺が欲しいのはな、もっと根を張るもんだ。心臓で息づくようなやり方だ」
 無理だ。無茶だと言われようとも。欲しいと思ったものは欲しい。
 挑みかかるような剣呑さを持つ声の響きに、玻月は視線を地面に落とした。
「……俺は何も出来ない」
 切なさが滲んだ。
 それまで冷淡に聞こえていた声が微かに揺れる。
 きっと玻月が痛感していることなのだろう。
「狼であることすら、俺はずっと知らなかった」
 まるで犬のような扱いをされて、生きてきたのだ。
 気高く、雄々しき狼の一族である。そう言われたところでどうしていいのか分からずにいるのだろう。
 玻月が家族の中でも、どこか所在なくいたのはそのせいかも知れない。
「何かして欲しいわけじゃねぇ」
 期待していないと言うのも、おまえは役に立たないと言っているようで憚られるのだが。今の玻月には無駄に気負わせるより、その方がまだ良いかと思われた。
「月っていうのはな、成獣にならねぇと使えやしねぇんだよ」
 幼い子でも、希に使える者はいるらしいが。希少な存在だ。
 それを玻月に求める気はなかった。
「近くにいる月の子を見て、てめぇの頭で考えるさ」
 たとえ月が使えないとしても、玻月が月の民であることには違いがない。何か得る部分があるかも知れない。
 だからそれを見ている。
 そもそも他人のおかげで己に源が入ったとなっても、嬉しくも何ともない。
 己の力だけで会得したいのだ。
 その欲を嗅ぎ取ったのか、玻月は竹筒の水を一口飲んでは、もうそのことに関しては口を開かなかった。
 その代わり、立ち上がろうとする。
「どこに行く」
 いくら懐に暖かな石があったとしても、焚き火の元から離れると寒いだろうに。
「寝る」
「おまえ、寝るのに一匹になってどうする」
 群で暮らしてきたのなら、夜に一匹になることが危険だということくらい知っているだろう。
 玻月は狼なので夜目が効く。だから油断しているのかも知れないが。夜の暗がりに紛れて何がやってくるのは分からない。
 まして眠るというのなら意識は薄れてしまう。無防備になろうとしているのに単独でいるなんて、命を投げるようなものだ。
「襲われた時に不利だろうが」
 一匹より二匹。その方が敵を感知しやすい。反応しやすい。そんなことは当たり前の考え方だ。
「…誰かがいると眠れない」
 呆れるほどの警戒心だ。
 野生の生き物では珍しくもないものだろうが。危険を承知で一匹になろうとするなんて。
 どこまで他者が嫌いなのか。
「慣れろ」
 綜真は玻月の言葉をばっさり斬り捨てる。
「無理だ」
「この先もずっと一匹だなんてめんどくせぇ。文句言うなら叩き返すぞ」
 夜になったらいちいち離れて、敵が来たらお互いの場所を確認するところから始めなければならないなんて、どれだけの手間だ。
 まして集団であるのならともかく、二人だ。
 離れている方がずっとおかしい。
「一匹で旅したら間違いなく捕まるだろうな。てめぇが売られずにここまで来てるのは運がよっぽど良かっただけのことだ」
 この狼はそのことをちゃんと分かっているだろうか。
 おまえは特殊な運命を引いたのだと。
「ま、俺はてめぇを一匹で旅させるくらいなら村に戻すけどな。そうなったらもう二度と外には出して貰えねぇだろう」
 炯月は、綜真が共にいるのならばと断腸の思いで外に出したのだ。
 恩義を売った、あらゆる力を保持している綜真だからこそ息子を預けたのだ。そうでなければ決して外には出さなかっただろう。
 ようやく帰ってきた子をまた失うかも知れないなんて認められるはずがない。
 玻月は振り出しに戻ることは許せなかったらしい。
 ゆったりとした、とても不服そうな動きで腰を落とした。
「おまえ、賊にいた時も一匹で寝てたのか?」
 猿の中に紛れた狼。異端の子は一匹で丸まっていたのだろうか。
「…もう一匹俺がいた。二匹で寄り添ってた」
「なるほど」
 玻月には形代がいたのだ。
 ならば他の群の猿といるより己とぬくもりを分け合っている方がずっと安心しただろう。
 己一匹で満たされた生き物だ。
「よれ」
 玻月との間には一匹分ほどの離れがあった。
 その距離が寒い。
「……本当に眠れなくなる」
 身体が寄せ合うと、警戒心でがちがちになるのだろう。玻月は頑なに動くのを拒んでくる。
 しかしこれからもその態度でいられるのは、綜真が愉快ではない。
「一晩中起きてて、明日は寝不足で動けねぇってことになったら。勘弁してやる」
 まだ幼い子が一晩眠れないというのはなかなかに辛いものがあるだろう。だから玻月は近付くのを嫌がっている。
 しかし綜真はそれを押し通した。
「一晩我慢しろ」
 たった一度で構わないと条件をつけると玻月は渋々寄ってきた。
 並んでいると玻月の小ささがよく分かる。
 群では満足に食わして貰っていないのだろうか。あの村にいたのなら溢れんばかりに食い物を差し出されていたはずなのに、それを蹴ってでも術師に会いたいのか。
 それとも村から出たかったのか。
 探ろうとしたが、俯く蒼銀の目からは何も見えてこなかった。