三千世界   六




 見上げるとはっきり星が見えた。
 瞬くそれを眺めながら、溜息をつく。
 真っ白に染まった呼吸に、更に力が抜けていくのを感じた。
(村を出るって言い出したのが朝だ)
 しかし実際に出られたのが昼過ぎだった。その理由は考えるまでもない。
 玻月に延々と家族が話しかけていたからだ。
 名残惜しいのは分かる。
 大切な子どもた。色々言って聞かせたいのも頭では同意する。
 だがいくらなんでも引き留めるのが長い。それほど気にするのならば無理矢理でも置いておけば良いのだ。
 おかげで、さして歩くことも出来ずに日が暮れた。
 冬場の日はすぐに隠れてしまう。
 そして寒さが強くなってくるので、冬という季節はあまり好きではない。
 真夏の日の光に焦がされるよりかはずっとましなのだが。
「この辺りで止まるぞ」
 黙々と静かに後ろを付いてきていた玻月にそう声を掛けた。
 二人きりになってもやはり玻月は喋らない。そうだろうとは思っていたので、気にもせず放っておいた。
「狼は夜でも平気だろうが、俺は夜の間は寝たい」
 月の民と言われているだけあり、狼たちは夜の間でも生き生きと動き回っている。月の下では最も生気がみなぎることだろう。
 だが綜真は狼ではない。夜は寝る生き物としてこの世に生まれ落ちてきた。だから無理せず夜は寝ることにしている。
 この旅に同行してくる以上、玻月にもそれに従って貰うつもりだった。
「慣れてる」
 玻月は文句も言わず、短い返事をした。
 群の連中もあまり夜には活発に動かなかったのかも知れない。
 夜を根城としている種はそう多くないのだ。
「火を起こすから木を持って来い」
 森の近くを歩き続けていたのだ。綜真の言っていることは全く難しくないことだろう。玻月は静かに頷いて、ふらりと森に入っていった。
 他に生き物の気配は感じないので、一匹でも危なくはないだろう。
 綜真も森の辺りで枝と掌ほどの石を三つ拾う。これが大切なものに変わるのだ。
 野宿は慣れていると思ってはいたが、戻ってきた玻月の腕の中には太い枝数本と、細かな枝が多く積まれていた。
 これだけあれば十分過ぎるほどだ。
(何の心配もねえな)
 一匹でも旅が出来るのではないだろうか。
「おまえ、前はどこの辺りをねぐらにしてた。この辺か」
 玻月がいた盗賊がどんなものなのか、綜真は知らない。きっと炯月たちは知っていただろうが、詳しく聞く前に様々なことが有りすぎた。
 それどころの話ではなくなってしまい、聞けずに離れてしまったのだ。
 玻月が持ってきた枝を組みながら、ようやく尋ねる間が出来た。
「違う。あちこちにいた」
 点々と巡っている賊らしい。だからこそ、玻月は見付からなかったのだ。
「賊に名前はあったのか?」
「……紅猿」
「ああ、でかいところだな」
 盗賊にさして興味のない綜真でも、旅をしている中で聞いたことのある名前だった。
 猿が頭となって動いている、幾つかの群をさしていた。
「猿の群が集まって出来た賊だろう。あちこちうろうろしてるらしいな」
 数が多いだけに、様々な場所で盗みや略奪をしていたのは知っている。
 実際に出くわしたこともある。もしかすると玻月にも会えたかも知れない。そう思うと不思議な思いだ。
「それで、どこの群にいた」
 群の中でももう一つ小さな群があったはずだ。玻月もそのどれかに属していると思ったのだが。
「…どれってわけじゃない。ふらふらしてた」
 その答えは奇妙だった。
 群というのは連帯意識がある。あまりうろうろと動かないものだ。
 しかし玻月は猿ではない。さらってきた犬の子と思われていたのだ。どこに属していても異端だったのだろう。
(もう一匹の己だけが頼りだったのか)
 むしろ群と言っても、玻月の中では己と形代だけを指していたのかも知れない。
 枝を組み終わると、玻月は背中に斜めに欠けていた風呂敷を下ろして石を取り出した。
 火打ち石だろう。
 しかしそれを見て綜真は苦笑する。
「いらねぇよ」
 火を打ち出そうとしている玻月を止めると、視線が返される。何故だとでも言いたいのだろう。
「しっかし色々持たせてんなとは思ってたが。火打ち石もか。誰と一緒にいると思ってんだかねぇ」
 玻月の親兄弟はあれでもない、これでもないと様々な物を玻月に持たせたがった。
 用心には用心を、と思っていたのだろうが同行するのが誰であるのは、少しは覚えておいて貰いたいものだ。
 綜真は拾ってきた小石を掌に乗せる。
 そして何かを呼んだ。
 きっと玻月には不思議な響きに聞こえたことだろう。人の声であるはずなのにそれはどこか違うものを帯びているように、放たれたのだ。
 するとその音に呼応するかのように石が自然と燃えた。
 赤い炎が夜を照らす。
 綜真はそれを適当に組み上げた枝の元へと投げた。
「こうしてりゃ一刻は燃え続ける」
 自然に火を付け燃やしていてればいちいち枝を足し、大気を吹き込んでやらなければならない。だがこれは石自体がそれだけの時間燃え続ける。
 枝を組んだのは炎を大きくするためだ。小さくていいのなら石だけでも十分だった。
「アンタは…火を使うのか」
 玻月は誘われるように自ら燃え始めた石を見て、そう口を開いた。
「前の術師は何を遣った?」
「水だ」
「そりゃ重宝されただろうな」
 生き物にとっては水は欠かすことの出来ないものだ。
 水を扱い、地の下から水を引っ張ってこられる術師は群でとても大切にされる。
 綜真はもう一つ石を包んで、また火を呼んだ。
 掌が暖かくなったのを感じて、それを玻月に差し出した。
 だが炎を纏った石を見た後だからだろう。玻月は受け取るのを躊躇っているようだった。燃えたら、という危惧があるのだろう。
 さすがに眼差しが不安の色に変わる。
「熱くねぇよ。懐に入れてれば一晩くらいはずっとぬくいまんまだ」
 冷え切った夜風の元では、小さな熱であっても大切なものに変わる。
 玻月も寒いとは思っていたのか、少し迷った後掌を出してきた。
 そっと乗せてやると、暖かさが分かったのかそれを握り締める。
「俺はな、火だけでなく水も風も土も使える」
 火を使うのかと問うた玻月に、綜真はもう一つ己の石を暖めながら答える。
「……嘘だ」
「嘘じゃねぇ」
 初めから信じて貰えるとは思っていなかったので、綜真はすんなりと言い返すだけだった。
「半身が火、もう片方は水。そうやって分けて宿してる」
 玻月は賊の中にいたという術師とちゃんと交流があったらしい。そんな話をしても全く信じる様子がなかった。
 火と水が相反する源であり、同時に宿すことなど出来るはずがないことを知っているのだ。
「俺の親は、父が火の術を、母は水を得意としていた。随分名の通った術師らしい」
 らしいとは言ったが、今でも彼らの名は人の噂に上るものだ。
 人でありながら、火の民、水の民と拮抗する力を持ち合わせている。
 むしろ越えてしまうかも知れないと危惧されていたものだ。
「だがお互い、己の術が限られていることを不満に思っていた。父は水も使いたいと、母は火も使いたいと願っていた」
 相反するものであっても己の中に宿したい。
 それは純粋な欲だった。だが生き物の身には許されることではなかった。
「しかしどれだけ願っても宿せぬものは手に入らない。父は水を得られなかった。ぎりぎり眷属である木に触れられるだけだった。母は火に届かず、風に触れるだけ」
 火に近い場所まで、水に近い場所まではいけるのだが。お互いそれを術として遣うにはほど遠いものだったらしい。
「それが分かった頃に、二人は出会ったのさ」
 綜真は腰からぶら下げていた布袋から干した肉を取り出す。炯月から貰ったものだ。
 これがなければ食い物を求めて動かなければならないところだった。
「双方、相手が優れた術師であると知ると、互いの力を宿した子どもをもうけようと考えた。そして四苦八苦しながら産み落としやがったのが、俺だ」
 なんて欲にまみれた理由であることか。
 今にして思えばろくでもない考えだ。
 しかしそれなりに情をそそがれ、慈しまれた記憶があるだけに厭う気にはなれなかった。
「生まれたばかりの頃は水の気が強かったらしい。均整を取るのに苦労した」
 幼い頃は、術を操ることばかりしていた。親もそれを望み、綜真に教え込んでいた。
 己の中に微かなりともある、全ての源をどうやって自由に使うのか。どうやって呼ぶのか。
 そればかりに捕らわれていた。
 まるで親の執着まで受け継いで生まれてきたかのようだった。
「目と手首に源の式を刻み込んでようやく支配してる」
 手首には文字か模様なのか分からないものがうっすらと刻まれている。ぱっと見ただけでは分からないほどうっすらとしたものだが、源を呼ぶは色濃く浮かび上がるのだ。
 瞳も同じこと。
「竹筒を出せ」
 綜真は玻月にそう言いながら、地面に手を当てた。
 水の鼓動を掌に感じる。
 玻月は何を言い出すのかと思っているのか、少しばかり綜真の顔を見つめた後、気怠そうに竹筒を出した。
「綺麗に整えられてるわ、名は刻まれてるわ、どんだけ玻月が可愛いってんだよ、あの狼どもは」
 堅苦しいほどに整った字で掘られた名前に、綜真は笑ってしまう。
 冷めた態度の玻月と見比べると何とも滑稽だ。
 ぽんっと竹筒の栓を抜き、綜真は水を呼んだ。
 地面を撫でるとその掌を押し返すように水が飛び出してくる。緩く弧を描き溢れるその様に玻月が息を呑んだ。
 この世の理に反していると感じたのだろう。そしてそう感じることは決して間違っていない。
 細い竹筒の口にするりするりと水を入れる。さほど減っていなかった水はすぐに溢れてきた。
「便利なもんだろ」
 呆然としている玻月に、水が満たされた竹筒を返す。ついでに己が持っていた筒にも水をそそいだ。
「水は土の下に流れているかどうかを確かめなければならないが。触ってりゃ分かる」
 今も掌で地に触れたらすぐに分かった。
 それにここからさして遠くない場所に川があるので、水が出てくることは間違いないと踏んでいた。
「俺は何も持ってなくとも生きていける」
 火も水も起こせる。
 土も感じられ、木も呼べるのでやろうと思えば作物を即座に育てることも出来るのだ。
 ただあまり褒められたことではない。
 土にかなりの負担を掛けてしまうのだ。下手をすると何年間もその場所は作物が育たなくなるほど枯れてしまう。
 自然に出来るものは自然に成るのを待つのが良い。
「だが、全く手に入らない源が一つだけあってな」
 竹筒に口を付けた玻月に、綜真はにやりと笑って見せる。
「月だ」
 玻月は狼としての意識を持ったのは、村に戻ってからだと聞いた。
 ならばまだ三月ほどしか経っていないのだろう。
 そんな狼は、知っているのだろうか。
 己の身体が生まれながらにして宿している、その源を。
「おまえの主だぜ」
 玻月は一度、ばちりと瞬きをした。
 それは驚きか、それともただの頷きなのか。綜真には判別がつかない。
 だが玻月の耳はこちらに向けられ、話を続きを待っていることだけは分かった。