三千世界 五 「あの子は戻ってきてから、何かを欲しがったことがなかった」 玻月を見ているとさもありなん、と言いたくなる。 表情も硬く、言葉も少ない。まるで己はここにいないものであるかのような淡々とした有様だった。 「ただぼぅと虚ろに日々を過ごすだけだ。だから中身が欠けているのかと危惧したほどだ」 危惧したというより半ば確信していたように見えた。 「あんな風に意志を貫こうとはしなかった。あれほど何かを望むことも」 だから炯月はあの時、息を呑んだのか。玻月が己を主張したから。 「…だから叶えさせてやりたい」 「親元から離れることになってもか」 炯月がどうして止めなかったのか、考えてみれば分かる。 我が儘を聞いてやりたかったのだろうと。 しかし玻月を甘やかしたいと言っても、限度があるだろう。ましてもう一度手元から放すなど、決して懸命だとは思えない。 「致し方ない。あの子の望みであるなら」 その表情に歪みはない。しかし平然ともしていられないのだろう。その両肩にしっかりと躊躇いがのし掛かっているように感じられる。 「苦渋だな」 からかい混じりにそう言っては、綜真は再び煙管に煙草を詰める。 「あの子が戻れは再び家族になれると信じていた。愚かしいことだな」 炯月は口元に笑みを浮かべた。淡く緩やかな形である分だけ、哀れだった。 (愚かしいも何も、真っ当な奴ならそう思うだろ) 綜真ですらそう信じていたのだから。 「あの子はずっと私たちを警戒している」 家族に警戒をされることがどれだけ彼らを傷付けていることか。 視界の端で膨れっ面を晒しながら座っていた志月でさえも、神妙な面もちになるほどだ。 「記憶がない。だからそう易々とは懐かんのだろうさ」 そもそも狼は他者に対して酷く警戒する生き物だろう。だから無理もない。< 綜真などは他人なのでそう冷静に諦められるのだが、親ともなるとそう割り切れない部分があるのだろう。 「家族だと思えるものが記憶であるのなら、それを取り戻してくれれば良い」 「心にもないことを」 綜真は軽く笑って、煙草箱と共に置かれていた火鉢から火箸で炭を取る。そして煙草に火を付けた。 「我が儘を叶えたいだけだろう」 「私に出来ることはそれくらいしかない」 じっと我慢して、また再び玻月の帰りを待つだけの日々に帰るのか。 (おまえそれでいいのか) 不安と背中合わせの、心が安まることなき地に戻っていくと言うのか。 ちりちりと煙草が燃える音を聞き、溜息のように煙を吐く。 「……ところで、誰も俺のことを訊かねぇのな」 何もかも決まっているように話が進んでいるのだが、一つ重大なところが流されている。 「連れていくなんて俺は言ってねぇんだが」 「行くだろう」 炯月は何を今更言っているのかとやや呆れたような顔まで見せる。 「おまえの欲しがっている月の子だ」 口角を上げて皮肉の一つでも言いそうな様で、炯月は言った。 狼は月の類。 生まれながらにして月を体内に宿している。 月の満ち欠けに己の身体を委ね、月の光で駆け回る月の僕だ。 「おまえが手を出せずにいる、唯一の源」 炯月は、綜真がここに来た時のことを思い出すようにして笑った。 月の源が欲しいと言った、その愚かしさをまだ忘れてくれていないようだ。 「他のものは手に入れられても、月だけは手に入らない。しかし月の民を連れていれば何かは分かるかも知れぬぞ」 随分な甘言を囁いてくれる。 己の手に届かないものに対して、綜真がどれほど貪欲であるのか見透かしたように、炯月は薄く笑んでいた。 他者を掌に乗せるのは好きだが、己が乗るのは気分の良いことではない。誰しもそうだろうが、綜真はそれを特に嫌っていた。 「面倒になって売りさばくかも知れねぇぞ」 わざと軽薄な言い方をして煙を吐くのだが、炯月の笑みは深くなるばかりだった。 「おまえなら僅かな興味も逃すまい」 月に関することであるのなら、些細なことでも気にしてしまうだろう。 しかしがっついているような様を見せたことはなかったのだが。 欲がどこかで滲んでいたか。 「何かを得られるのではないかと、未だにここに通ってきているほどだ」 ここに来たところでおまえには月を得ることは出来ないだろう。 そう言われても懲りずに来ているのだ。 狼の村が気に入ったということもある。それに滅多に他種族を入れぬ村に入れるという優越感もあった。 そして何より、月を得る方法があるのではないかという期待が棄てきれない。 「それに玻月を売って何になる。金ならいくらでも稼げるだろう」 ふらりふらりと旅などを続けていると己の力だけで金を稼ぐやり方を幾つも持っているものだ。 綜真は己の持っているものを駆使して金を稼ぐ技に長けていた。 言ったことはないのだが、綜真が特殊であることを考えれば炯月にはすぐに理解出来ることだったのだろう。 「何より、おまえを信用している」 その一言には煙草の煙を飲み込んでしまうかと思った。 信用しているだなんて。たとえお世辞であってもまず聞くことは出来ないものだと思っていた。 警戒心が強く、一族以外を己の懐に入れることを拒む狼が。信用しているなんて口にしてくれるとは。 綜真は天井を仰いだ。 年季の入った梁を見つめ、大きく息を吐いた。 「今ここで、それを言うかねぇ」 どんなことを言うより、卑怯だ。 信じる気持ちというものは計れない。目にも見えない。 とても不確かなものだ。目をつぶるまでなく、なかったことに出来る。 けれど、だからこそ重く、大切に感じることの出来るものである。 炯月の言葉は、まさにその重さが詰まったものだ。無視できるはずもない。 「狼にそんなこと言われちゃあ断れねぇ」 「喜ばしいだろう」 ありがたいが困ったことよ、と苦笑する綜真に炯月は目を細める。 「ああ、誉れこの上ねぇな」 ったく、と悪態の一つでも付きたい気分だった。 からりと晴れた晴天の下。 その分寒さは骨身にしみるほどだ。 派手な色をした羽織が微かな風を防いでくれる。 「本当にいいのか?」 門の前に立ち、綜真は最後の問いかけをした。 首を振ったのであれば、ここに来た時と同じように一人で村を出ていくのだが。玻月はやはり無表情のまま動かなかった。 「構わない」 淡々とした声。村を出るのだから緊張の一つもすれば真っ当な姿勢だと言えるのだが、玻月からは何も窺い知れない。 「外で生きてきた。だから何の不安もない」 賊の中にいたのだから、一つの家に留まっている今の方がずっと慣れない生活なのかも知れない。 「まぁそれは心配してねぇがな」 家の中でずっと生きてきた仔狼を共にするのならば話は別なのだが、野良のような暮らしをしてきたのならむしろありがたいくらいだ。 いちいち気を使わなくても良いということなのだから楽だ。 「帰りたくなったらいつでも帰ってきていいんだぞ!」 玻月の肩を掴んで、志月が力強く訴えている。 その横には華月が不安げな様子で、やはり玻月を見つめている。 「迷子にならないようにね」 耳を疑うようなことが聞こえて、綜真は思わず振り返る。 (迷子も何も、明確な道があるわけでもねぇんだから) せめてはぐれるなという言い方にはならないのだろうか。 「伝言鳥も持って行け!それがあれば村まで何かを伝えることが出来る!助けて欲しい時は俺を呼べばいい!」 「使い方を知っているのか?むしろ玻月はそれを使えるのか」 綜真は姉弟の会話を呆れながら聞いていたのだが、つい口を挟んでしまった。 (それ以前にてめぇはどっからどこまで助けに来るつもりだ) 地の果てであっても来るつもりか。いや来るのだろう。 その勢いならどこであっても、どこからでも来るに違いない。 (鬱陶しい) 想像すると眉が寄った。 「今から使い方を教えるからな!」 伝言鳥というのは己の中にある気を流すことによって飛ぶことの出来る鳥だ。気を流していない鳥は薄い張りぼての姿をしている。 「だから旅を遅らせてくれ!」 「炯月、おまえの馬鹿息子を殴ってもいいか?」 気を流すという基本的なやり方を知らない相手に、それを教えるなんてどれほどの時間がかかることか。まして狼という生き物は子どもの頃は本当に無力なのだ。 玻月くらいの年では気を流すという方法を身につけるのに一年近くかかる。もう少し育てばもっと短くて済むだろう。 それより何よりも、玻月が危機に陥ることを前提に話されているのが腹立たしい。綜真がいるというのに、そんな事態になるはずがないのだ。 「怪我をしないようにな」 綜真に話しかけられていることに気付かず、父は玻月を見守っていた。 「病には気を付けるのよ。何かあったら綜真さんにすぐに言いなさい。大抵のことは叶えてくれるわ。ね、そうでしょう?」 華月はとてもいい笑みを浮かべながら綜真を振り返った。否定することを一切許さない威圧感が背後に漂っている。 微笑みの裏には牙を剥きだしで威嚇している狼の本性が透けているようだった。 「…納得出来ることであれば」 「ひもじい思いもさせませんよね?」 「おまえの弟だからな。出来る限りのことは」 「させませんよね!?」 曖昧な返答など求めてはいない。早く断言せよ。と華月は牙を見せつつ脅してくる。 狼の雌は強いと聞いているが、事実だったのだなと嫌な場面で実感させられてしまう。 「この旅はなかったことにしてもいいか?」 真顔で尋ねるのだが、誰も返事をしてくれない。 「ここまでおまえらが玻月を溺愛しているとは思わなかった」 一昨日の己は軽率だっただろうか、と珍しく後悔をしたくなる。 したところで覆すことは出来ないのだろうが。 「仲の良い姉弟なのだ」 炯月は誇らしげにそう言うのだが。そんなことは知っている。目の前でこれほど見せつけられずとも良いだろうにという程度には分かっていた。 「狼だから絆が深い」 それが我らの美しいところだろう、と炯月は己の種族を高らかに語ってくれる。 「そうだな。それはよく知っている。だが初めて面倒だと思ったぞ」 面倒だと本音を晒してしまうと、玻月以外の狼は「信じられない」というような目で綜真を見てきた。 一人疎外されるのは別段構わないのだが、その視線だけは少し痛い。 (面倒以外のなんて言えばいいんだ?そんなに可愛いなら、旅立ちにもっと反対しろよ) ああでもない、こうでもない。気を付けなさい、あれは駄目よ、これは無理よ、と華月は母親のごとく説いている。沙月がいない分、己が母の勤めをしなければと思っているのだろう。 炯月はそれにいちいち頷いているし、志月は「兄ちゃんも付いていこうか!」と頭の痛くなるようなことを言い出した。 止めたところで、狼たちは止まらないのだろう。 頭上で烏でも鳴けば、きっと阿呆の一つでも落としてくれたはずだ。 そして綜真がうんざりする中、彼らのやりとりはそれから一刻を費やした。 次 |