三千世界 四 「ずっと二人だった。それがいなくなって、いきなり家族だなんて……無理だ」 「これからなれる。いくらでも、家族になれる」 炯月はきっぱりと言う。常に悠然と構えている男らしい、自信に溢れた声だと言ってやりたいのは山々だったのだが。 (おまえら狼ってのは、どうしてそうも家族のことにやると弱いのかねぇ) 炯月の蒼銀の瞳は姉と同じだ。すがっている。 我が子に、家族になりたいのだと切望している。 他の種族に対してはどこまでも強固になれるのに、身内になるとこの有様だ。 「俺には出来ると思えない」 玻月の言葉が炯月を斬りつけたのが感じられる。 面倒過ぎる事態になって、綜真は手元を探りたくなった。 (煙管が欲しいところだな) 一服して、蚊帳の外に出して貰いたい。 「そう言うなよ。てめぇがいなくなってこいつらは半狂乱で探し回ったんだ。今はいないが母親なんてどれだけ嘆いたか」 厄介だと思いながらも、親子の間に立っている己はおそらく情が深い。 しかし話していることは事実だ。 綜真がふらりとここに立ち寄ったのは、玻月がいなくなって一年近く経っていた。それでも彼らは鬼気迫るほど必死になって玻月を探していた。 血眼というのはこういうことかと思わせられるほどだ。 「身体を悪くしても探すって聞かなかったんだぜ」 肉体が頑丈な狼であっても、病には勝てなかった。母親は肺の病を患って、血を吐きながらも玻月を求め彷徨っていた。 あまりにも痛ましい姿に綜真は眠りの術をかけて無理矢理床につかせたこともあった。 「沙月はおまえの帰りをずっと待っていた……」 さづきと名を告げた炯月の中には、あの痛々しい有様がまだ残っていることだろう。 子を見失った母親の悲愴な様を最も見ていたのはつがいである雄なのだから。 「知らない」 父の話を投げ捨てるような言い方であったなら、綜真はさすがに苛立ちを露わにした。 いい加減突き付けられてる情を受け入れたらどうか。そんなに意固地にならずともいいだろうが、と。 しかし玻月の声はどこまでも淡々とし過ぎていて、空しくなってくる。 (こいつの中には何があんのかね) 「記憶がない。何も覚えてない。名前だって、俺の服に縫いつけられてから分かった。他には何も知らない」 玻月の服に名をつけたのは沙月だ。 それは綜真も聞いていた。 家族といなくなった子を唯一繋いでいたのは、その服に縫い止められた名だけになってしまった。だがそれすらなかった場合、玻月との距離はもっと離れてしまったことだろう。 「記憶は封じられているようなのか?」 ここに連れてこられた二つ目の理由を、炯月が囁いてくる。 おまえの目には分かるのだろう、という期待に溜息をついた。 「分からねぇよ。形代の後が残り過ぎてる」 玻月の中に残滓が生きている。 それは体内に微かにまとわりついて、未だに術を持たそうとしているようだ。 聞くところによると形代は術が切れたわけではなく、形代自体が姿を保っていられなくなり消滅した。なので術自体はまだ玻月の中で動いているのだろう。 「術師の気は術ごとにそう区別出来るもんじゃない」 相当特殊な術でない限り、どんなものをかけたのかは他者には判別がつかない。 「形代の気配が消えるまで記憶が弄られてるかどうかは分からん」 炯月と華月に落胆の色が見える。しかし事実は変えられない。 「その気配が消えるまでどれくらいかかる?」 「二、三年ってところじゃないか」 形代の姿が消えてしまった今、術は自然と薄くなっていくだろう。 だが玻月がいつ形代を作って貰ったのかは知らないが、術が玻月の中深くまで潜り込んでいるのは感じられる。 長年、形代と共にいたのだろう。その口で語っていたように。 それが霧散するにはやはり年月がかかる。 「昨日の今日ですぐ消えるなんて土台無理な話だ」 更に沈んでいく二人に、綜真は追い打ちをかけるようなことを教えなければならなかった。 「それに記憶を封じられていたとしても、俺には解けねぇぞ」 「どうして!?」 「この世で最も優れているとその口でのたまったではないか!」 偽りだったのかとなじる勢いで問いつめられ、綜真はがりがりと頭を掻いた。 緩く編んでいる髪が揺れた。 「人の脳味噌ってのは難しいんだよ。他人が勝手に弄ると壊れる。術をかけた奴がそのまんま解くのが一番危なげがねぇ」 生き物の意識に関わる術はおいそれと手出しの出来るものではないのだ。一つの過ちも許されない。 なので綜真はあまり意識に関わる術を遣うことは避けてきた。せいぜい暗示や目くらましの類だけだ。 記憶をいじくるなんてことをすれば、下手をすると意識を荒廃させてしまう。 「てめぇの息子を馬鹿にしたくねぇだろうが」 「当然だ!」 父は怒鳴るように言い放ち。姉は「当たり前でしょう!?」とやはり似たようなことを言っている。 いつの間にかこちらが責められる側になっているのが不可解で仕方ない。 「じゃあ無理だな」 どこまでも頼ってきてんじゃねぇぞ、と言わんばかりにしっしと綜真は手を振った。 無理難題を押し付けられても、へいへいと頷くほど恩義があるわけではない。 「……かけた者なら、解けるのか」 それまで黙っていた玻月が、やはりぼそりと口を挟んだ。 「解けるだろうさ」 「ならあの術師に会いに行く」 さして抑揚もないまま、玻月はそう口にした。あまりにも淡泊だったため、一瞬何が聞こえたのか他の者には分からなかったほどだ。 「玻月……?何を言っているのか分かっている?」 姉が恐る恐ると言うように尋ねる。しかしその恐れている様が、玻月の言ったことを遅れながらも理解してしまったということだろう。 「記憶がない限り、俺は家族だなんて言われても分からない。大切にされていたって言われても俺は知らない…家族であるかどうかだって」 そんなの。 表情もなく、玻月は一人で立ちつくしている。 己と近い生き物であることは、匂いによって判別出来るはずだ。 人として生きている綜真には理解出来ない感覚だが。匂いというのは獣種にとっては重要な、誤魔化しようのないものだと聞いている。 しかし玻月は身体が受け取っている現を、見ようとしない。 「だから、記憶が欲しい……」 欲しいと玻月が告げた時に、炯月がこくりと息を呑んだ。それがとても重大なことであったかのようだ。 (記憶ねぇ…) 物心ついた時から順当に記憶を積み重ねてきた綜真には、一定の時期からしか記憶を持っていない、空虚のある意識がどんなものであるのか分からない。 だから諦めろとは言えないのだが。 「言いたいことは分かるが、今一人でふらふら旅に出てみろ。売られるぞ」 綜真は遠慮もせずにあっさりとそんなことを言う。 「いくら狼とは言え集団で囲まれたら捕まるだろ」 どれだけ狼が強い生き物であるとは言え、数に物を言わせられることはある。まして玻月はまだ幼い。身体も小柄なのだ。 「おまえが売られずにここまで生きてこられたのは運が良かったんだよ」 ただそれだけのことだ。 狼の子どもは、群から外れて捕まったのなら売られるか殺されるかのどちらかだ。 だから狼たちは子どもを村から出さない。 その牙が綺麗に生え、鋭く尖った時に初めて他の生き物にとっての脅威になるのだから。 「それと、情けをかけられてたな」 玻月の状態を見れば、それが分かる。 問いかけると玻月は顔を上げて、綜真を見つめ返した。それが肯定なのか、怪訝なものであるのかすら分からない。 感情を表に出す術は、誰も教えなかったのだろうか。 「綜真…?」 己に理解の出来ない話を目の前でされていると感じたのだろう。炯月がどういうことかという視線を向けてくる。 「それじゃ、連れて行ってくれ」 玻月は綜真の問いに答えることはなかった。元々明確な返答など求めていなかったから構わない。 しかし返ってきたことは、返答うんぬんというものではなかった。 「アンタは術を求め、試しながらあちこち旅をしてるんだろう」 おそらく炯月が語ったのだろう。 おおむね誤りのないことではあるのだが、術を試しながら歩いているというのはあまり良い内容ではないなと思ってしまう。 それでは綜真が術をむやみやたらに遣いまくって遊んでいる輩のようではないか。 無駄な術をみだらに放ったことなどないというのに。 「俺もそれに付いていく。アンタの負担にはならない。今までずっと賊の群の中にいたんだ。旅の作法は知ってる」 許されるはずのないことだろう。 ようやく戻って来た息子を、むざむざと再び外に出すなんて父が認めるはずがない。 即座に駄目だと言われ、この件は終わる。 そう思っていたというに、炯月の声が一向に聞こえてこない。 不思議に思い、この横顔を見ると非常に苦そうな顔で玻月を見つめていた。 斬り捨てられるはずの願いは部屋の中でふわりと浮かび、華月と綜真の意外そうな眼差しの先で炯月は沈黙を保っていた。 「冗談じゃない!」 客間で玻月の兄はそう叫んだ。 卓をだんっと叩いて、今にも腰を上げて襲いかかってきそうだ。 だが父に殴りかかったところで、容易に身体を押さえつけられて床に伏すのが目に見えている。 「せっかく帰って来たんだ!ようやく家にいられるって言うのになんでまた外に出るんだ!」 その怒りはもっともだ、と綜真は煙管を吹かしながら横目で眺めていた。 しかしその怒りをぶつけられても炯月はしらりとした顔のままだった。 (しっかし驚いたな。許すはずがねぇと思ったんだがな) 玻月が旅に出たいという願いを、炯月は承諾したのだ。 真っ青になった華月の顔は気の毒なほどだった。 「術師に会いたいそうだ」 炯月はいつの間にか冷静さを取り戻していた。厳格な、一本筋を通す父の姿に戻っている。 しかしどれほどぴんと張った心の様を見せようとも、頭に血の上った子には通じない。 「会いたいって!?そいつは俺たちから玻月を奪った奴なんだぞ!?記憶までなくしちまって!」 「だからそれを取り戻しに行くと言っている」 おまえは何を聞いていた、と父が冷たく言い捨てる。 きっと息子の苛立ちがよく分かるのだろう。この男も同じようにわめきたいに違いないのだ。 可愛い我が子、まだ稚いあの子を手元に置いて可愛がりたいはずだ。 父の情は七年分心の縁に溜まりに溜まっているだろう。しかし玻月はそれを拒んだ。 「それがなければ家族であると分からないそうだ」 「そんなの今からでも作っていける!家族なんて記憶があるなしで決まるもんじゃないだろ!?」 「だが玻月は受け入れられぬと」 「まだ半年だ!だからまだ受け入れられねぇのも分かるよ!これからゆっくり分かるようになる!そんなの当たり前のことだろ!?親父!」 どうして止めないのかと息子は焦れているのだ。 そんなことをみすみす許すなと警告を鳴らしている。だが炯月の表情は変わらせない。 「志月」 代わりに姉の硬い声が飛んだ。 しづきと呼んだ声は氷のようだ。 炯月の後ろで静かに座っていた華月の視線は冴えている。 もう腹が据わってしまったのだろう。 揺るがない強固なものを抱いているように見える。しかしそれは華月自身が望んだことでないのは、声の鋭さから察せられる。 腹の中では不満が渦を巻いていることだろう。 (親父よりよっぽど怖ぇよ) ふぅと煙を吐きながら、綜真は親子をただ眺めていた。 「口を慎みなさい。玻月のことを決めるのは父様と玻月自身です。おまえではない」 「でも!」 「志月」 まだ何かを言おうとした志月を止めたのは、炯月だった。 「それ以上わめくのであれば、出てゆきなさい」 炯月の声は静かだった。 だが有無を言わせぬ力がそこには込められている。 志月は首元を掴まれた子どものように力を抜き、口をつぐんだ。 憤懣やるかたないという顔をしているが、部屋から叩き出されるのは嫌なのだろう。黙って父の近くから離れる。 そして渋々という様子で華月の傍らに改めて腰を下ろした。 炯月は華月が入れたお茶に手を伸ばして、それを一口飲む。こくりと嚥下する音が微かに聞こえてきた。 一方綜真は傍らに置かれた煙草箱の縁で、かんっと煙管を叩く。詰めていた灰をぽとりと落とすと、慌ただしかった大気がようやく落ち着いていくのを感じた。 視線を炯月に向けると目が合う。 お互い、苦いものを口の中に入れている気分なのだろう。やや気の抜けた苦笑ばかりが浮かぶ。 玻月との話ですっかり疲れた感がある。 「どうしたもんかね」 茶化すように綜真が言うと「どうしようもないさ」と炯月は寂しげに呟いた。 次 |