三千世界   参




 炯月を見つめ、綜真は口を開いた。
「玻月は、どうしている」
 この様子を見る限り、あまり普通とは言えない状況なのだろう。
 双方不憫としか言えない。
「……いつも淡々としているのだ。感情をあまり出さない」
 そう告げる炯月も家族のこと以外では感情の波が少ない生き物のように思えるのだが。その炯月からしても、おかしいと感じるほどなのだろう。
「喋ることも少ない。酷く頑なでそれこそ……人形のように思える時もある」
 形代と本体を間違えたとでも思っているのだろうか。形代を始末した際に匂いがなくて分からなかった。そしてその姿が消え失せたところも見ただろうに。
「そりゃいきなり親だなんて言われても戸惑うだろうよ」
「しかし何かが欠けているように思えるのだ」
 心配で仕方がないのだろう。
 狼たちは特別家族に対する情が深い。それが彼らの美点だと思うのだが。その分心配し過ぎるのは難である。
「確かに魂を分ける形代もある。だがそうじゃないやり方だって多々あんだよ」
 むしろそちらの方がまだ簡単なのだ。
 魂を完全に分けて形代を作るなんて芸当は、相当な術師でなければ出来ない。
「まぁ見れば分かる」
「だからおまえを呼んだのだ。なんかとかしてやってくれ」
 炯月は頭を下げるのではないかと思う勢いだ。
 狼は矜持が高い。他種族に対して頭を下げるなんてことは滅多にない。それこそ己の命に関わることであっても、己が正しいと思えば堂々としている。
 だが、家族のことになるとそんな矜持も低くなってしまうものかも知れない。
「なんとかってなぁ」
 ここまで来た以上は何かをするつもりではあるのだが。話を聞いていると己に出来そうなことはさしてないような気がする。
 玻月がどんな状態なのか見極めることくらいだろうか。
「とりあえず見せて貰おうか」
 ここで立っていても意味がない。
 会って見なければ分かるものも分かりはしないのだ。
 炯月は「無論」と言って引き戸を開けた。草履を脱いでたたきに上がる。
 よく磨かれた廊下を歩き、一歩前にいる炯月の背中に従う。
 角を曲がり、手入れされた均整の美しい庭を眺めて、一つの障子の前で止まった。
 そこからは二つの気配がしている。
「入るぞ」
 炯月はそう声を掛けて、障子を引いた。
 中にいたのはやはり二匹の狼。
 ぴんっと立った四つの耳が全てこちらに向けられた。
 右側で座っていたのは姉の華月だ。父とは異なり、銀色というより金色に近いような色をした毛並み。長い髪はそのまますんなりと下ろされていた。
 着物の柄は白地に寒椿のようだ。袴はそれに合わせて緋色を履いている。
 もう一匹の狼は、年の頃は十二、三に見えた。表情はなく、ただ綜真を見上げている。
 甘い色とも見える毛並みは亡くなった沙月とそっくりだ。顔立ちも、母とうり二つと言われた姉と似ている。父ではなく母方の血を濃く継いだのだろう。
 二匹の間には書物が置かれていた。
 可愛らしい絵の描かれた、子どもが読むような絵本だ。
 玻月の見た目を考えると内容は拙い物のように思えたが、盗賊の中で暮らしていた子は文字の読み書きが満足ではないのかも知れない。
「綜真さん。お久しぶりです」
 華月は穏やかに微笑む。
 その名の通りとても華やかな容姿を持った雌だ。
「久しぶりだな。元気にしてたか」
 そう言いながら綜真は部屋の中に足を踏み入れた。華月に声を掛けたにも関わらず、その目は玻月を見ていた。そして唐突に手を伸ばし、むんずと頭に付いている耳を両手で摘んだ。
「っ…!?」
 玻月は肩を跳ねさせ、綜真の手を払いのけた。
 そしてそのまま後ろに下がる。瞬時に中腰になって低い姿勢のまま綜真を睨み付けてくる。臨戦態勢だ。
 その反応の早さに綜真は笑みを浮かべた。
「おい!」
 険のある声で炯月が綜真の肩を掴んだ。何をしてくれる、と言いたいのだろう。
 しかし綜真は笑みを消すことなく振り返った。
「何も失っちゃいねぇ。元気なもんじゃねぇかよ」
「本当か!」
 怒りを見せていた父は、その一言に喜色を滲ませた。
「魂の欠けた奴っていうのはもっと虚ろで愚鈍だ。こいつは体内の気もまともに巡ってるし、何もおかしいところなんざねぇよ」
 魂が欠けるというのは己が欠けるということだ。
 今までまともに出来ていたこと。考えられたことも出来なくなる。
 真ん丸で動いていたものを歪な形に削るのだから、様々な部分に無理が出るのは当然のことだ。
 同じく身体の中を巡っている気、生きている気配も乱れが生じる。循環が乱れ、身体の中で衝突し合い、時には弱々しく留まる。
 そうして少しずつ壊れていくのだ。
 だが玻月の中身はすんなりと気が巡っている。とくりとくりと鼓動まで聞こえてきそうだ。
「いきなり環境が変わって、戸惑ってるだけだろう」
 さきほども似たようなことを言ったのだが、炯月は聞く耳を持たなかった。しかし今は「そうか」と大人しく頷いている。
 色濃く出ている安堵は綜真にまで伝わってくるほどだ。
「……アンタ……」
 ぽつりと声が聞こえた。
 囁きかと思うほど小さな音だ。だが聞き覚えのないそれが誰のものであるのか、綜真はすぐに理解した。
 正面を見ると姿勢を変えることなく、警戒心を剥き出しにして玻月がこちらを見ていた。探るような視線だ。
「綜真さんは父様のお知り合いの方よ」
 警戒を宥めるようにして華月が玻月に教えている。しかし玻月は姉を見ようとしない。
 目をそらしたその時に、襲いかかられるのではないかと危惧しているかのようだ。
「術…師か?」
 気がどうだの、と言い出したので綜真の正体はすぐに察しが付いたらしい。
「そう。この世で最も優れた術師だ」
 不遜な態度だと笑う者がいるかも知れない。だが綜真をよく知る者はその言葉に苦笑はするものの、否定はしない。
「おまえの群にも術師がいたんじゃねぇか?」
「……いた」
「それが、てめぇをもう一匹作った」
 玻月は探るような眼差しに何かを混ぜた。
 それは微かな期待のようなものに見えた。その時点で綜真は玻月が心の中に持っているものが何なのか、多少予測出来た。
「アンタも、作れるのか」
「作れるさ」
 形代など造作もない。まして魂を入れることも綜真なら出来る。やや手間がかかることだが、困難とはほど遠い作業だ。
「なら作ってくれ」
 玻月は警戒を見せていた姿勢を正した。
 すくりと立って見せても小柄に見える。狼の子にしては細い。まだ成獣になるには年が足りないけれど、それを考えても幼すぎる気がした。
「玻月」
 その願いに華月が切なげな声を上げた。
 それは許されることでもなければ、必要だとも思えなかったからだろう。
 所詮形代は作り物。人形遊びに違いないのだ。
「ずっと二匹で生きてきたんだ」
 感情の抑揚はほとんどなかった。まるで無理に読まされているかのような言い方だ。
(こりゃ炯月が不安になんのも責められねぇ)
「今更一匹なんて」
 そんなのは酷いとでも続けるのだろうか。
 しかし綜真にしてみれば肩をすくめる程度の問題でしかなかった。
「てめぇには家族がいるだろうが」
 まるで一匹きりで生きているかのような口振りだが。綜真の傍らには父。そして姉がいる。ここにはいないようだが、もう一匹兄もいる。
 それなのに一匹きりだなんて、天涯孤独の生き物が聞けば鼻で笑うだろう。
「……でも、家族は俺じゃない」
 ぼそりと零したその音に、綜真は心の中でふぅんとつまらない相づちを打っていた。
 己自身が欲しいのだ。
 他の何かではない。己を、目に見える形で、触れられる形で確かめたいのだ。
「そりゃそうだ。てめぇがもう一匹いるなんて、おかしいからな」
 生き物はどれもたった一つで生まれてくる。
 双子だろうが、三つ子だろうが、全く同じものを見て、感じて、考えて生きていくことは出来ない。
 酷似していたとしても、所詮は己とは異なる生き物。
 本来は誰でもこの世の中では唯一無二の存在なのだ。
「おまえさんが特別だっただけだ」
 望むべきではないものがそこにあったという、おかしな状況に置かれてしまったのだ。
「今更……一匹では」
「寂しいか」
 表情を変えることはない。だがようやく視線が下がった。
 その眼差しの加減だけが玻月の機嫌を現しているのだろうか。
「……寂しい」
 玻月の言葉はか弱い小鳥が最後の一声を上げたような、細く儚い声だった。
(切ねぇ声で啼くなよ)
 凍えそうなくらいの孤独をたった一匹で抱え込んでいるようだ。
 少しでも身体を押せば、そのまま倒れて壊れてしまう。そんな錯覚を抱かせる。
「生き物はみんなそうだ。寂しいんだよ。だから誰かを欲しがる」
 寂しいということは誰の胸にもあることだ。
 生き物は一つで完璧であったなら、そんな感情もなく満たされていたことだろう。けれど完璧とはほど遠い形で生まれ、生きていく。
 だから何かが欲しくなる。誰かと共にいたくなる。
 それは異常なことではない。
「てめぇは今ようやく、その道に立った」
 己だけで満たされている生き物は幸せかも知れない。だが非常に閉ざされた世の中で生きていることに間違いがないだろう。
 変化もなく、進化もなく、学ぶべき事は限られて、双眸は狭くなる一方だ。
 緩やかな自滅のようだ。
 綜真にとってはそんな生き方はまっぴらだった。
 より新しく、より強く、己を変えて生きたい。得られるものは皆己のものにしてしまいたい。
「立ちたくない」
 玻月は綜真を拒絶するように言い放った。
 差しのばされた手をはね除ける頑なさ。炯月はこんな態度に不安を掻き立てられたのだろう。
(そりゃ今までいっぱい満たされてたなら、わざわざ厳しい道を歩きたくねぇだろうさ)
 まして玻月はまだ幼い。
 楽しい、嬉しいことだけを求めたがるような年だ。この先の己にとって良いことだと言われても、辛いことばかりに見える先へは歩き出したくないだろう。
 だが親姉弟はそれを良しとは思えないはずだ。
 出来ることなら多少厳しくても先の明るい道を進めたがるだろう。
 玻月と周りの差はそこにあるのだ。
 赤の他人である綜真はここで事を放り出すことは出来たのだが、炯月と華月の必死の雰囲気を感じて、この場から身を引くことも出来なくなっていた。
「だだをこねるなよ」
 子どもを宥めるなんて、そんなのがらじゃねぇと思いながらも溜息まじりに言った。
「周りにいるてめぇの親姉弟の立場がねぇだろうが」
 せっかく再会出来て、喜びに浸っている一族たちがその言葉を聞いてどんな思いになるのか。玻月は考えていないのだろう。
 しかしそれがちくりと刺さることは刺さるのか、周囲から目をそらしている。
「玻月は一人じゃないのよ」
 姉はそう、すがるようにも見える顔で語りかける。だが玻月は首を振った。
「俺には分からない」
 やれやれと、責めるのは大変簡単なのだが、それもまた哀れであるように思われた。
(記憶がねぇからな。いきなり親だ姉だの言われても困るだろうよ。しかも賊上がりだ)
 決してぬるいとは言えない環境で育ってしまった者にとって、溢れんばかりの情を向けられると、嬉しさよりも困惑が深まるのも無理はない。
 裏切られることを恐れてしまうのも致し方ない。
(信じられるのは己だけってところか)
 玻月の場合はもう一匹己がいたのだ。その相手だけが信じられるというところなのだろう。
 世知辛い世の中で生き延びていくには、むしろ懸命な考え方だった。