三千世界   弐




 森を抜け、山の麓に近い所にその村はあった。
 村に入るまでに門がある。人の背丈ほどのものだが、それをゆるりと動かすと鈴が鳴るのだ。
 深い響きを持つ幾つかの鈴は一度鳴ると、遠くまで音が伸びる。
 それを聞いて狼たちはやってくるのだ。
 周囲は囲いがあり、外側から何者かが入るのを拒んでいる。ずっと昔からこれはあったらしいが、数年前にかなり頑丈なものに変えられたらしい。
 内側から迎えが来るまで村には足を踏み入れなかった。
 単独で入ると、狼たちに詰問される場合があるからだ。外部に対する警戒心がとても強い狼は、見知らぬ者が入り込むと襲いかかってくる可能性もある。
(まぁ俺は何度も来てるから。大抵の奴は顔見知りだが)
 それでもたまにしか来ないので忘れられているかも知れない。
 さて誰が来るかと思っていると、ここに来るたびに顔を合わせている雄がやってきた。門番なのだろう。
 濃紺の着物、袴だというのに、羽織だけは煌びやかな色で染められており随分派手である。長い髪は一つで緩く編み、結われていた。
 そんな格好をしている男はおそらく一人しかいないだろう。
「あんたか。話は聞いてるぜ。入りな」
 四十ほどに見える雄はそう言って中に入れてくれる。
 そこからは好きにしろと言わんばかりに離れていった。
 行くべき場所というのはすでに決まっていた。ここで最も交流のある狼の元だ。
 気の良い狼で、警戒心が強い種族の割に厭うことなく村に入れてくれるありがたい奴だ。
 その家に行くと家の前でその狼が立っていた。鈴を聞いて出てきたのだろう。
 褪せた銀色の長い髪。それを一つにくくっている。二つの耳も同じ色をしており、ぴんと尖るように立っていた。
 ふさふさとした尻尾は目が合うと僅かに揺れた。
 再会を喜んでくれているようだ。
 見た目は四十前に見える。非常に精悍な顔立ちをした雄だ。狼というのは幾つになっても力がみなぎっているように見える。種族の特徴なのだろう。
「久しぶりだな炯月」
 けいげつと呼ぶと小さく笑みが返ってきた。
「おまえは相変わらず年が分からぬな。綜真」
 そう言われ、肩をすくめた。
 年というのは止まってしまったものだ。生き物の摂理としてはおかしいのだが、この世界ではよくある。さして珍しくもないことだった。
 それでも人の身でこれはおかしいと言わざる得ないことを炯月は知っている。
「年は取らぬのか」
「分からねぇよ」
 特殊なものとして生まれ、育ってしまった己のことは誰にも分からない。無論自身にも分からないことだった。先例も存在しないのだから予想しようがない。
「それで、どうした。てめぇが俺を呼び出すなんて」
 外と関わりを持つことは好まれない村だ。いくら親しくしているとしても、外の生き物を呼びたがる種族だとは思っていなかった。だから伝言鳥が炯月の名を告げ、村に来て欲しいと言われた時は驚いた。
 何事かと思い、足早にやってきたのだが。この村の雰囲気は相変わらずのんびりとしたものだ。
「息子が戻った」
 炯月は真剣な顔でそう告げた。
「玻月か?」
 炯月には三人の子どもがいる。雌の華月。雄の志月と玻月だ。その玻月は七つの時に行方が分からなくなっていた。
「ああ」
「どこで見付かった」
 息子を見付けることをずっと望んでいた炯月だ。帰ってきてくれたことが嬉しくないはずがない。だというのに笑顔が見えないというのがおかしかった。
 何か、特別な事情が絡んでいるのだろう。
「向こうからやってきた。賊の一匹として村に侵入しようとしていた」
 言われたことを理解すると、綜真は盛大に怪訝そうな目をした。
「なんでまた」
 狼というのは矜持の高い生き物だ。それは子どもであっても変わりがない。
 誇り高く、気高くあれというのは幼い頃から教えられている。狼が狼であるための意識だ。それを持っている狼が、浅ましい集団である賊にいるなんて。似つかわしくないにもほどがある。
 しかも侵入しようとしていたということは自ら動いていたということだろう。連行されてきたというのならともかく。
「記憶がないのだ。八つより前の…ここで暮らしていた時の記憶が何一つ」
 苦しげに、心の臓を締め付けられているかのように炯月は告げた。
 痛ましいその有様に綜真は掛ける言葉を失った。
「気が付いたら盗賊として暮らしていたらしい」
 我が子が盗賊に成り果てていたと知ったときの炯月は酷く衝撃を受けたことだろう。他人であり、狼ですらない綜真が気の毒に思うほどだ。
 狼にとっては認められるはずもないことだろう。
(生きているだけで儲けもんだって思ってくれりゃいいけどな)
 命があるだけで、と思い直してくれることを願うばかりだ。
「しかし……奇妙だな」
 狼の子がさらわれたと言うと、まず思い付くのは売られたのだということだ。
 かなりの高額で売れるはずだというのに、どうして盗賊である群が狼の子を内包しているのか。
 狼は強い生き物ではある。しかしその強さよりも金を目的としているはずだ。盗賊というのは金のために動く集団なのだから。
 それを知っていたからこそ、炯月たちは子どもを売り買いしているところを重点的に調べていた。
 必死になり、我が子を取り戻そうとしていたのだ。
 まさかまだ盗賊の中にいたなんて、誰が想像していただろう。
「高値の子どもだからこそ、盗賊はここに忍び込んでくるんじゃねぇのか?」
 馬鹿が目先の利益に釣られて、と思わず心の中の声まで出てきた。
 すると炯月は憤りを押し殺すように吐息をついた。
「……犬の子に間違われていたそうだ」
「は…?」
 予想外の言葉に耳を疑った。
 確かに狼と犬は見た目が似ている。だが纏っている匂いも風格も異なるものだろう。
 綜真は人なので狼と犬との線引きを明確には出来ないかも知れないが。彼らの姿勢はあまりにも違うので、接していると分かる。
 狼はやはり他の種族に対して頑なで、静かだ。威圧感があるとまではいかないが、近寄りがたいものはある。距離が縮まるとそうでもないのだが、知らぬ相手には冷たい。
 一方犬は人懐っこい者が多い。集団を好み、賑やかなことが好きだ。
 それを混同するとは。
「あれは母親にそっくりなのだ」
 炯月の伴侶はすでにこの世にはいない。息子を捜し求めている内に病にかかった。
 どれほど強い狼であっても、病には勝てない。
 その雌は狼にしては珍しく、銀や灰色の毛並みではなく金色に近い色をしていた。
 狼にはあまりない色のせいで犬ではないかとからかわれることがあるとは言っていたが、立派な狼だ。
「賊の中に犬の類はいなかったのか」
「そのようだ」
 鼻が利く種族が近くにいたのなら確実に狼であることが知られてしまっただろう。
 見た目だけに捕らわれるから今まで分からなかっただけで。
 狼だと知られていれば、売られていたことだろう。
「道理で見付からないわけか」
 犬だと思われていたなんて。
 信じられないことだった。
 きっと炯月も同じ気持ちだろう。
「慰み者になっていないのが唯一の救いだ」
 炯月は息子が人の欲情の慰みとして捕らえられていなかったことだけが幸いだと、苦々しそうに呟く。
 賊になっているのも屈辱的だが、身体を弄ばれているなんて考えたくもないことだろう。親としてそれは辛すぎることだ。
「しかし…だ」
 溜息が深く聞こえてくる。
「あの賊の中には、玻月と同じくらいの年の子どもがいなかったようでな。友達が欲しいと言ったら作って貰ったらしい」
 賊の中に子どもなど、本来ならいるはずのないものだ。
 何かを育てるような集団ではないからだ。力のない者は邪魔であり、手間がかかるものなど排除される。
 その点でも玻月が賊の中に残されていたのが不可解なことだった。
 しかしそれより不可解なのが、友達を作るということだ。
「もう一匹の自身が、あの子にはいたらしい」
「形代か」
 不可思議とも言えるその現象に、綜真は覚えがあった。
 己にも出来るであろうことだ。
 術をかけて、生き物をもう一つ増やすのだ。増えたそれがどこまで綺麗に本人に似るか。重さはあるのか。感触はあるのか。どこまで同じに作れるかどうかは術師の技量による。
 形代には一応元となる素材が必要なのだが、木片だろうが紙だろうが何でも良いのだ。本人の身体の一部があれば素材はさして問題にならない。
「全く同自身己。それとずっと共にいたらしい」
 人形遊びをする幼い子どもを思い出す。だが形代はそれよりずっと高度で、たちが悪い。
 その人形は喋り、動き、己と同じ物の考え方をするのだ。
 もう一人の自分ほど都合が良い存在はない。
「だから俺を呼んだな」
 術が絡んでいるから、わざわざここに呼んだのだ。
 他人を拒むこの村に。
 重大な事柄があったのだろうと思ったのだが、子に関することだったのなら腑に落ちる。
「それだけではない。記憶のこともある。あの子は無理矢理記憶を封じられているのではないだろうか。術師はそういうことも出来るのだろう?」
 真剣な眼差しで問われ、綜真は「まあな」と単純に答えた。
 しかし面倒なことだ。
 賊の中にいたらしい術師は様々なことを玻月に施しているかも知れないのか。
「それで、その形代はどうした。中か?」
 玻月が二つになって戻ってきた。どちらが本物か見て欲しいという願いだったとすれば簡単だ。
 形代は所詮紛い物。生き物の中を流れている気の動きが全く違う。
 一目見ただけで見透くことが出来るだろう。そういう願いならすぐ終わる。
「……私が殺した」
 苦渋を滲ませる声で炯月は告げた。
「盗賊が村に入り込もうとしていた時に、私が殺した」
 悔やんでいる。
 炯月の顔にはそう大きく描かれていた。
「布で全身を隠していたのだ。玻月は華月が相手をし、匂いであの子だと分かったらしいが。形代には匂いなどなかった」
「そりゃ形代は作り物だ。生き物じゃねぇから匂いも何もない」
「だが形代は魂を分けて作るのだろう!?」
 急に大声を出した炯月は明らかに動揺していた。
 冷静で穏和である炯月の、こんな姿は今まで見たことがなかった。
「あの子にとって重要な何かを持って、あの形代は作られていたのかも知れない!だが私が殺してしまった!だから玻月は」
 俯いて、炯月は唇を噛み締めた。
 息子が戻って喜びだけに見た溢れていれば良かっただろうに。そうはいかぬようだ。
(上手くいかねぇな)
 どうやら悲哀はまだまだ消えることなく積もっているらしい。