三千世界 十二 「ぬしは母によう似ておるな」 玻月をまじまじと眺め、そう告げた。 どこか懐かしそうな眼差しだ。玻月の母が亡くなってからもう三年が経っていた。 きっと母と初めて会った時のことでも思い出しているのだろう。 「狼とは思えぬ色と目じゃ」 金色の毛並みは犬のものだ。 大半の狼は灰色、銀色だ。金色を混じらせている者もいるが、おおむね銀に埋もれている。その中で、玻月と、その姉である華月は特殊だ。 そして玻月の母はもっと甘い色の毛並みをしていた。 「わっちはな、ぬしの母の必死な姿しか知らぬ。命を棄てても構わぬと言うてな」 本気じゃった。と煉絢はもう一粒金平糖を口に入れた。 「がらにもなく、それに心が傾いた」 ぽとりと零すように煉絢は言った。 その目はいつも人をからかっているものではない。上から見下ろすような色も消えていた。ただ、少しもの悲しく見える。 冷淡、冷酷、血が流れていないと言われるほど淡々とした商売をしている女だが。決して情がないわけではない。 ただ、他の者より己を律する術に長けているだけだ。 その煉絢も必死な母の姿には何か感じるものがあったのだろう。 同じ雌だからか。生き物としての本能に訴えられたのか。 「望みを叶えてやりたいと思った。だがそれが出来ぬまま逝ってしまった」 沙月は玻月に会う前に、病で逝ってしまった。 さぞ無念だったことだろう。 可愛い、愛おしい我が子がどこにいるのか分からない。 泣いているだろうか、苦しんでいるだろうか、生きていて、くれているだろうか。 それすら分からず不安の中で逝ってしまった。 「母の代わりというわけでもないが、ぬしを助けてやろう」 煉絢を動かすために何を差し出すか。楽なのは金なのだが。希にこの女は金以外のものを欲しがってくる。面倒にならなければ良いがと思っていたのだが。 どうやら今回は何もなく、煉絢が手を貸してくれるらしい。 ありがたいことだ。 「ぬしよ、ありがたく思うが良い」 煉絢はにやりと笑って玻月に顔を近付ける。気圧されるように玻月は身体を後ろに引き、戸惑いをはっきりと見せた。相当弱っているようだ。 その表情に煉絢は柳眉を寄せた。 やや気分を害した様子だが、拗ねているように見えてやや年が幼く見える。 ずるい女だ。 どんな顔であっても己を魅せる術を知っている。 「わっちが助けてやろうと言っておるのだ。喜ぶべきじゃろうが」 玻月が困ったままで何も言わないのが気にくわないのだろう。 煉絢がただで動くと言えば手放しで喜ぶのが自然だと思っているのだ。そしてそれは半ばここに来る者たちも同意出来る感覚だった。 なので玻月の反応が不可解なのだ。 「そいつは感情を出すのが上手くねぇんだよ。それに、温情には慣れてねぇ」 ずっと賊で暮らしていた者だ。しかも歓迎されていたとは思えない経緯。 周りの者たちに優しく接して貰っていたとはあまり思えない。ましてこの無表情さ。 どれほど冷たい中で生きてきたのか、計ることは出来た。 「まさしく、狼らしくないの」 煉絢は哀れだという顔はしなかった。 さらりとそう思ったことを述べただけのように見える。下手に同情されるより、その方が玻月にとっては楽かも知れない。 己の素性が悲愴であると玻月自身が嘆いている雰囲気がないのだ。他者の余計な嘆きなど鬱陶しいと思っていそうだ。 「良いか。こういう時は礼を言うものじゃ」 「あ……ありがとう」 煉絢に催促をされ、玻月は拙い口調で告げる。 そういえば玻月の口から、ありがとう、すみません、というような単語を聞いたことがなかった。 (そもそも喋ってねえしな) 出会って五日が過ぎたというのにまともな会話は数えるほどしかしていないのだ。一人旅の時とさして変わらない調子でここまで来ていた。 それほど、玻月は無口だ。 「ございます、も付けるべきではないかや?」 媚びるような言い方でしなだれかかるのはわざとだろう。 そうして玻月をからかっているのだ。 不意の近さに驚いて玻月はその場から逃れる。綜真の傍らまで膝で逃れ、唸りだしそうなほど警戒している。 尻尾が狸のように膨らんでいた。 「ご、ございます」 嫌がりながらも礼を付け足している。 上擦っている声は初めて見るもので、やはりこの子どもでも煉絢は恐ろしいかと思うとつい笑いが零れた。 「ぬしはまだまだ童のようじゃな」 しどけない姿のまま、煉絢はからりと笑う。 成人した男であるのなら目を離せぬほどの美女であっても、子どもにとっては得体の知れない恐ろしい存在であるだけのようだ。 しかしその認識はずっと忘れずに持っていた方が今後とも道を踏み外さずにいられるだろう。 「ガキの方がずーっとおまえの本性が見えるらしいぜ」 そうせせら笑うと、煉絢はそれこそ愉快というように双眸を細めた。 綜真は湯を貰い、身体を清めた。 真夏であるなら野宿中でも地下から引き上げた水で身体を洗うのだが。真冬にそれをすると凍り付いてしまう。 それでも何日も宿に泊まれない場合は水の中に焼け石を入れて湯に変え、身体を布で拭いたりはしているのだが。 やはり湯は浸かるのが最も心地良い。 再び煉絢の部屋を訪れると、煉絢は屏風の前で煙管を吸っていた。 堂々たる態度は主に相応しい。 「結局、食わなかったな」 綜真は玻月へと持ってこられた金平糖を摘み、口に放り込んだ。 噛み砕くと甘さが口の中に広がる。 生き物は甘いものに目がない者が大半だ。ましてまだ幼い玻月などは喉から手が出るほど欲しがっても無理はないかと思うのだが。 「易々と、食うてはくれぬものじゃな」 煉絢は苦笑しながら煙を吐いている。 「警戒してんだろ」 出会って少ししか経っていない煉絢を簡単に信用されてしまえば、綜真など立場がない。四六時中共にいたというのに、まだろくに口もきいて貰っていないというのに。 「ぬしも良い者を連れるようになったものじゃな」 煉絢は玻月を話していた時とはうってかわって、怪しげに唇を歪める。嗜虐的な眼差しだ。 ぞくりと背筋が粟立つ。 人によってそれを欲情にすり替える、もしくは勘違いするものがいるだろうが。あいにく綜真は煉絢の魅了には捕らわれていない。 身体は警戒のみを促している。 「欲しがっていた、月の子ではないか」 綜真が月を欲しがっていることを煉絢は知っている。月を取るためにどうすれば良いのかと、かなり昔に相談したのだから当然だ。 そして狼のことに関して教えてくれたのもまた、煉絢だ。 「どうするつもりなのかや?」 「は、どうもしねぇよ」 綜真は危うい目をしている煉絢を鼻で笑った。 「あれをどうにかしても俺の中に宿るわけでもない」 それに玻月に何かすることは、狼たちを敵に回すことだ。あれらは執着すると長い。 厄介なことになるのは遠慮したかった。 「どうもせぬのに持ち歩いておるのか。ぬしが子連れというのは似合わぬと思うのじゃが」 (俺だってそう思ってるよ) 綜真が子連れ。 どこぞの女でもはらませたのかと笑われそうなことだ。 「寂しくなったのかや?」 ふふん、と煉絢は心にもないことを言っている。 綜真がもう何年も一人でふらふらと生きていること。そして他者を必要としてないことを見越して言っているのだ。 「今更人恋しくなるかよ。狼に恩を売っても悪いことにはならねぇからな。だからだよ」 寂しいなんて、そんな言葉は綜真に似合わない。 むしろ、それを抱いているのは。 「玻月は、寂しいみたいだがな」 炯月の家であれはそう呟いた。 虚ろで、空っぽで、どうしようもないのだと訴えるような声だった。 「寂しいのに旅に出たのかや?村におればいくらでも親姉弟が構ってくれように」 「…親兄弟じゃないんだろうよ。あいつは、術師が恋しいのかと思う」 炯月には言えなかったことを、煉絢には口にする。 そしてそれを否定する言葉は返ってこなかった。 有り得ると感じたのだろう。 「……それで。もし術師の元に帰りたいと言われたらどうするつもりでありんす?」 もし術師を見付け出した。玻月はその術師との出会いを喜んで。 術師の元に残りたいと言われた時は。 それを聞いてやれるだろうか。 命をかけて玻月を探していたあの家族を知っているのに。今も生きている親姉弟がどれほど玻月を大切に思っているのか知っているのに。いいと言えるのか。 または、寂しいと言った時の切なさを見ていたのに、駄目だと無理矢理引き剥がせるだろうか。 それは旅を始める前から綜真に悩ませていたことだった。 「さあな」 分からない。 実際にその場になって見ないと、そして玻月の思いを知るまでは何とも判断出来ない。 煉絢は近くの火鉢にかんっと煙管の首を逆さにして打ち付けた。 「女でも呼ぶかや?」 ここで女と言えば、抱くためのものだ。 それを綜真のために呼んでやろうかと言っている。 「ぬしの相手がしたい女ならいくらでもおるぞ」 ここには煉絢の眷属が多い。 綜真の素性を知って、面白がっている者もなかなかの数いるそうだ。 かつてそういう女を抱いたこともある。頭の良い者ばかりなので話していると楽しいと感じることも多い。 しかし女を抱くかどうかは、半々だった。 それより面白いものを求めて来ているのだから。気が乗らないこともある。 「さあてな。とりあえずあいつの様子を見てくる」 女より先に玻月の様子が気になった。 遊郭を警戒していた子は、今別の部屋で休んでいるはずだった。 煉絢も幼い子に女を与えるような真似はせず。寝床と湯を与えたようだ。食事は頑なに拒まれて出していないようだが。 さて大人しく寝ているだろうか。 ここの所は綜真が側にいてもようやく警戒を薄めてきたようだが。それでもすんなりと寝付いてはくれない。 まだ術を淡くかけている有様だった。 「大人しく寝てたら。女でも貰うかね」 前に女を抱いたのはいつだったかと思うと一月は軽く経っていた。たまには柔らかな身体に沈むのも悪くない。 それに子ども連れでは気軽に遊郭に入るということも出来ない。次にいつ女という生き物と向かい合えるのか、分かったものではない。 「子守じゃな」 玻月の様子を見ることを優先した綜真を、煉絢はそう表した。 「炯月からの預かりもんだからな」 否定も出来ず、綜真はもう一つ金平糖を口に入れて部屋を出た。 次 |