三千世界   十三




 煉絢から与えられた部屋は、最上階の一つ下だった。
 どうやら上から数階は女たちが仕事で使う部屋ではないようだった。
 綜真のような、女を目的としていない者たちを泊まらせる場所なのだろう。
 牡丹が描かれた襖を開けると、玻月は暗い部屋の片隅に座り込んでいた。
 提灯に灯りを入れていないのは、狼は夜目が効くということで分かるのだが。どうしてそんな隅の方に、そして膝を抱えるようにして小さくなっているのか。
 まるで、閉じ込められている囚人のようではないか。
 部屋の中央には布団も二つ敷かれているのに、何故横にならない。
「どうした」
 寒いなと肌が感じる。窓も開け放っていた。
 風が通っては玻月の身体も冷やしているだろう。
 見るとは玻月は声を掛けられ、びくりと肩を震わせた。
 怯えているように見える。
「なんでそんな端にいる」
 壁に寄り添っている玻月に近付く。
 怯えているのは己に対してか、と危惧を抱いてしまったが距離を詰めても玻月は逃げなかった。
「声が、うるさい」
 玻月は強張った声でそう答える。
「声?」
 綜真が耳を澄ますと、女の嬌声が微かに聞こえてくる。
 ここは遊郭だ。それが聞こえてきても何に不思議ではない。
 どうやら近くの部屋で女を招いた者がいるのだろう。
 しかしここなどまだ良い方だ。下の階になればどこもかしこも喘ぎ声だらけになる。
「気味が悪い……」
 玻月が嬌声を厭っているのは分かっていたが、ここまでとは思わなかった。
(子どもにとっちゃ嫌悪か)
 そういうものだろうか。
 己が幼かった頃の記憶などほとんど残っていない。だからどうだったのかなど、分かりはしなかった。
 ただ、玻月は嬌声が嫌なのもあるだろうが。見知らぬ場所に置かれているということも理由の一つであるように思えた。
 来たことのない場所。地上から離された部屋で、じっとしていなければならない。どこから誰に襲われるか分からない。襲われても逃げ場がない。
 そう恐れているのかも知れない。
 どこまでも警戒心が強すぎる奴だ。そんな考えを持っていてもおかしくないだろう。
「どこもかしこも……うるさい」
 文句を言うのに、憤っているとはほど遠い姿勢だ。
 ここから逃げ出してしまいたい。そう言っているようにしか見えない。
「やかましいなら、声を防ぐか」
「出来るのか…?」
 いとも容易く告げる綜真に、玻月はようやく顔を上げた。
 幼い表情だ。すがるように見えて手を伸ばしたくなる。
(俺は父親になんざなれる質じゃねえんだが)
 何かを慈しみ、育むなんて出来はしないと思っているのだが。思いこみだったのかも知れない。玻月のために動くことを面倒だとは、あまり思っていなかった。
「風で膜を張ればいい」
 そう言った直後に、綜真は風を呼ぶ。
 苦労にも手間にもならない程度の術だ。
 瞬きをしている間に終わる。
 ゆったりとした風が呼ばれ、この部屋全体を包み込む。そして音だけを隔てるのだ。
 元々大きな声を弾くわけではないので、風の膜も非常に薄く。綜真も術を遣い続けることを意識せずとも良い。一晩くらい、寝ていても風は消えないだろう。
「聞こえなくなっただろ?寒ぃから窓閉めろ」
 玻月は頭の上に付いている耳をひくひくと動かし、音がないか確かめている。そして聞こえてこないことが分かると、大人しく障子、雨戸を閉めた。
 ようやく部屋の隅から離れた子に、綜真はやれやれと布団の上に座る。
「……だが、音がないと外の様子が分からない」
 安堵したのは僅かの間だったようだ。
 玻月はすぐに次の不安を持ちだしてくる。
 ここをどれほど危険な場所だと思っているのだろうか。
「怖いか」
「いや」
 恐ろしくないと返事をする言葉通り、玻月は落ち着いたようだった。
 それでも耳は忙しなく動いている。
「一人で寝れそうもねぇな」
 周囲への警戒を一層強めているこの狼は、このまま素直に眠りそうもない。
 音がない分、いつ襲撃されても良いように起き続けていると言い出しかねない。
「寒いのか?」
 玻月へと向けた言葉のお返しは意外なものだった。
 噛み合わない会話に「何のこちゃ」と思わず訊いてしまいそうになった。
(もしかしてあれか。野宿する時に言ったやつか)
 一人で寝るのは寒いから、おまえも側に来いと言ったのを覚えていたのだろう。そして一人で眠れないと言ったのを綜真の独り言だと勘違いしているのだ。
(おめぇのことだっての)
 しかし言い直すのも面倒だ。
「そうだな」
 適当に応じると玻月は綜真の横に座った。
 自ら寄ってくるなんて珍しい。
「なら、アンタも行くのか?」
 玻月はどうも言葉を短くする癖、というか肝心な部分を省く癖があるようだ。
 どうしてそんなことを言い出したのか意図が全く掴めない。
「どこに?」
「女のところ」
 ここは遊郭。こうして男同士で顔を付き合わせているような場所ではない。そのことは玻月も分かっているようだ。
 己と違い綜真はどこをどう見ても成人が済んでいる。だから女を求めてここに来たのではないかと、勘違いしているのだろうか。
「いや。俺は女を抱きに来たわけじゃねぇよ。煉絢にさっきのことを話しに来た」
 目的は玻月のことを話し、手助けを求めるためだったのだ。
 それ以外に用はなかった。大体玻月を連れて女を抱きに来るような、馬鹿な真似はしない。
「……ま、一人じゃ寒いから中入れ」
 どう言って良いものか。
 これまで寄り添って眠り続けたのだ。本日もそうして眠っても問題はない。むしろ互いの存在に慣れるためには、都合の良いことなのだが。
 布団が二つするのに一つしか使わないというのも奇妙な感じがする。
 こんな子どもに手を出すような趣味もないというのに。
(言った所で嫌がるだろうがな)
 野宿であったのなら渋々共に寝るのを認めていたようだが。ここは部屋、まして布団があるのだから一匹で悠々と寝たいと思うだろう。
 そう思ったのだが、玻月は瞬きをすると綜真がめくった布団の中に入った。
(入るのか…)
 あまりにもあっさりと従われたので、枕元で座っていた綜真はやや面食らった。
 いつの間に添って寝るのが当たり前になっていたのだろうか。
(……どういう考えなんだこの狼は)
 己とずれた思考を持っているらしい玻月に、綜真はやや溜息をついた。
 しかし一匹で置くのも忍びない。まして部屋の隅にいた姿を見た後だ。
 もしかすると己が戻ってきたから、ようやく眠る体勢に入ったのかも知れない。一匹にして置けば警戒して横にもならないかも、と思うと放置しておくのも憚られる。
(しかし部屋中でも同衾となると、やや考えさせられるな)
 これで良いのかと思いながらも、己が招いた種である。綜真は腹をくくって布団に潜り込んだ。
 抱きかかえるような形で眠る気は一切ない。
 しかしどう足掻いても狭い布団の中。背中合わせでもどこかしらが触れ合う。
 これで良かったのだろうか。
 何とも複雑な気持ちになりながら、玻月の呼吸を聞いていた。
 ここに来るまでの様々なことが思い出される。
 月を求めて狼の元に行った時には、まさか狼の子を連れて歩くようなことになるとは思っていなかった。
 まして、同じ布団で眠ることになるなんて。
 この世は奇怪なものだ。
 綜真は記憶を探りながら苦笑いが込み上げてくるのを止められなかった。
 そしてこの苦さの元になっている子の様子を窺う。
 術をかけて眠らせようか。早めにそうした方が違いに気を使わずに済む。
 そう思い眠りを呼ぼうとしたのだが、ふと玻月の身体が寄ってきた。
 警戒して硬くなり、いつもなら決して自ら寄ってくることなどないというのに。
 どうしたのだろうかと思っていると、その呼吸が緩やかであることに気が付く。
(寝かかってるな……)
 術もかけていないのに。いや、布団に入ってから時が流れているのは自覚しているのだが。
(慣れてきたのか、布団で寝るのが心地いいからか。どっちにしたってこりゃ)
 すごいことじゃねぇのか?と誰かに問いかけたかった。
 誰かがいれば眠れないと言っていた奴が、これだけ近くにいるのに自然と眠ろうとしている。
(でもまぁ俺が横にいても眠れるって、何回か繰り返して分かってんなら今更警戒もしねぇか)
 ここに来るまでの間で、綜真と寄り添っていても眠ってしまうと分かっているのだ。もう警戒は解いてしまっていることだろう。
 だからここで眠っているのもおかしくはない。
(……もしかするとこいつは、誰かと一緒に寝んのが自然なのかもしんねぇな)
 玻月はずっと形代と共に生きてきたと言っていた。眠る時も一緒だったのだと。
 ならばこうして布団の中で寄り添って眠るのも、半年前の玻月にとっては自然なことだったのかも知れない。
 ならば一匹で眠るのが寒いと、寂しいと感じていたことだろう。
(無理矢理横で眠らせたが。今にして思えば良かったことなのかも知れんな)
 こうしている方が元々安心出来るのであれば。願ったりなのだが。
(……恋しいか)
 術師が、己の形代が。
 しかし心の奥底で求めたいものは、それらではなく。
(甘えたいさかりに親から切り離されてんだからな。寂しいのも無理ねぇだろ)
 八つなんて、まだまだ親の元で甘やかされて育てられている頃だ。
 そこから無理矢理離され、一匹にされてしまったのだから。何かを恋しがる気持ちだけ膨らんで、まだ玻月の中に残っているのかも知れない。
 こうして寄っていても逃げなくなったということは、それを僅かなりとも、綜真に寄せてくれていると思って良いのだろうか。
(だから、子守なんてがらじゃねぇってのによ)
 この状態にやや満足している己に、笑ってしまう。
 このていたらくでは炯月を笑えないかも知れない。
 だが言い訳があるのだ。
 玻月を探していたのは何も炯月たちだけではない。煉絢も巻き込んでいたように、綜真とて探していたのだ。
 あちらこちらで狼の子はいないか。狼の子を囲っている者はいないと訊き、囲われた狼に会ったこともある。
 しかし雌であったり、年が異なっていたりして、玻月の足取りも掴めていなかった。
 だから見付けられたと言われた時には嬉しかったのだ。安堵もした。
 こうして生きて、眠っている様を眺めていると素直に「良かった」と感じている。
 思い入れが、あるのだ。
(こいつには分からねぇだろうけどな)
 己に向けられている情を、嬉しいと思うところか戸惑うばかりで、警戒を解こうともしない奴だ。
 綜真のこんな気持ちを知っても、どうすればいいのかという目をするだけだろう。
 だから何も言わずにもう少し付き合ってやることにする。
(遊郭に来て、女も抱かずに狼の子どもの添い寝か)
 なんて物好きな。
 そう心中で呟きながらもまぶたを閉じて、玻月の寝息を聞いていた。