三千世界 十一 「久しぶりじゃのう」 女は艶やかな唇から深みのある鈴のような声で言った。 不思議と人の心の中に滑り込んでくるような、耳に心地の良い響きだ。 「変わりなさそうだな。煉絢」 そう返事をする綜真に、煉絢は手でそっと、すでに用意されていた座布団に座るよう促してくる。 二つ並んでいるので、玻月は綜真よりやや遅れて腰を落ち着かせた。尻尾の方はまだまだ冷静さとはほど遠いようだったが。 無理もない。 綜真もこの部屋に初めて来た時は気圧されないように随分力んでいた。 それだけ、独特の雰囲気に満ちている場所なのだ。 「わっちが早々に変わるものか」 そうころころと機嫌良さそうに煉絢は笑った。 この女は綜真が初めてここを訪れた時から変わっていない。いつまでも美しいままだ。 「して、今日は何用じゃ?見慣れぬ者を連れておるようじゃが」 煉絢の興味はもっぱら玻月に向けられていた。無理もないだろう。綜真が誰かを連れてきたのは、これが初めてなのだから。 しかもまだ幼い子ども。 確実にわけありだ。 「炯月の息子だ」 そう説明すると、煉絢はじっと玻月を見つめた。真実かどうが確かめようとしているかのようだ。 疑り深い性根であることは知っているので、すぐには信用しないかと思った。しかし意外にも煉絢はすぐに頷いた。 「八つでさらわれたという、あの子どもかや」 「そうだ」 「どこにいた」 やはり狼の子が無事にこうして戻ってきた、その経緯は気になるものだろう。 「盗賊の中に混ざって暮らしてた。さらわれる前の記憶が綺麗さっぱり残ってねぇ」 誇り高い狼の子が賊にいるなんて誰が想像するだろう。 煉絢も「それはそれは」と淡く笑んでいる。 それでは分かるまいと、言いたげだ。 「しかしよう売られずにおったな」 「犬の子と間違われていたらしい」 「ほ、それは」 煉絢は吹き出すような声を上げた。だが表情が大きく崩れることはない。 見目を常に意識して生きている者だ。醜くなるかも知れないものは一切出さない。 「節穴じゃのう」 ここにはいない誰かを嘲笑している。 「さらわれた頃はもっところころしてたんだろ」 玻月はすでに狼としての鋭さが見えてきている。 身に纏っている雰囲気も精悍さが増している上に、人を近付けようとしないその姿勢は狼のものだ。犬であるのならもっと、取っつきやすいだろう。 しかしこれでも子どもの頃はもっと愛想が良かっただろう。 何せ愛されて育てられたはずなのだから。 「愛玩動物にされるよりかは良かったかも知れぬな」 さらわれて来た子が無理矢理欲情の慰み者になっていく様を、煉絢は知っている。 それがどれほど残酷であるのかも目に見ていることだろう。 だから、賊の中での暮らしはその地獄よりましなのだろうと言うのだ。 「誰ぞが見付けたのかや?」 「自ら飛び込んできた」 ほほ、と煉絢は楽しげに笑う。 どこまでも突飛な子どもだと思ったのだろう。 「しかし何であれ。戻ってきたのじゃ。親姉弟はさぞ喜んだことじゃろう」 女は居住まいを直して、玻月を愉快そうに見ている。 「おぬしの親姉弟は、それはもう必死になってぬしを探しておったぞ。わっちの元に来て頭まで下げよった」 玻月はそれを淡々と聞いている。 だが綜真は驚いた。 彼らが煉絢に頭を下げるなんて考えたこともなかったからだ。 ここは遊郭。女を売って金をもうけているところだ。決して褒められた商売ではない。 遊郭の主などと言えば、眉をひそめる者も多々いることだろう。 しかしここには多くの情報が集まってくる。 男は女の甘言に耳を貸し、柔らかな身体を貪りながら口走ってはならぬことでも零していく。快楽に頭を支配され、落ちていく。 女たちの思い通りに操られていく。 だからここには表には出せないような話も当たり前の顔をして聞くことが出来る。 それをあてにして炯月たちはここに来たのだろう。 そして、頭を下げた。 なんとか玻月を探してくれ。玻月の情報を集めてくれと。 卑しい、浅ましいと罵ってもおかしくない金儲けをしている者相手に。 「あの誇り高き狼が、頭を下げるのかとさすがのわっちも驚いた。そこまでして我が子が可愛いのかと」 煉絢が語ることを玻月はちゃんと聞いているだろうか。そして何か心に思わないだろうか。 己がどれだれ大切にされているのか、少しなりとも感じはしないだろうか。 狼が頭を下げるなど尋常ではないのだ。面の皮が厚く、動揺などしそうもないこの女が驚いたほどなのだ。 (分からねぇかな) まだこの子は狼が何であるのか、どういうものなのかすらきっと分かってはいないのだ。だから重大さにも気付かない。 他の者たちだけが知る羽目になっている。 「して。その可愛い狼の子を、ぬしがかどかわしたのかや」 煉絢は口角を上げて、綜真に向き直る。 「人聞きの悪い」 賊の次は綜真が玻月をさらうのか。そんなこと、炯月が許すはずもない。 「こいつが付いてきたいって言ったんだ」 「遊郭にかや?」 まだ年は早いわいな、と煉絢は玻月に笑みを向ける。 「女を抱きに来たわけじゃねぇよ。術師を探しに来た」 目的はそれのみだ。 「こいつが暮らしてた賊の中には術師がいて、そいつが記憶を封じ込めてんじゃねぇかって疑ってんだよ。こいつは記憶を取り戻したいらしい」 それが本心かどうかは、綜真にとっては半信半疑だったのだが。表向きはそう言うしかない。 「賊の名は?」 煉絢の問いに答えられるのは玻月だけだ。 まだ綜真もそのことに関しては聞いていなかった。 「紅猿」 一言だけ、玻月は発する。 それは綜真の耳にも確かに入ってきていた名であり、予想通りのものだった。 「ああ。あのあかざるどもか」 煉絢はあえて馬鹿にするように言い方を変えている。この遊郭にも来て、あまり素行の良くないことをしてくれる輩だと、以前聞いたことがある。 煉絢自ら出て場を納めたこともあるとつまらなそうに語ってくれた。 「あそこにおったのは水の術師じゃな。聞いたことがありんす」 さすが、と綜真は感心したように言う。ここにはやはり情報が集結してくる。 「頭の女房じゃろう?」 玻月は問いに頷いた。 (なるほど。女か…) 玻月に情を持った相手はどんな者かと思ったのだが、女であったのなら子どもである玻月が哀れだったのだろうとすぐに思い付く。 真実かどうかは分からないが。 「しかしその頭は三月ほど前に亡くなったようじゃ。それ以来女房も姿が見えぬらしい」 「殺されたのか?」 黙ったままの玻月に代わり、綜真が訊く。表情一つ変えぬ玻月は、こうなることを知っていたのだろうか。それとも、これすら興味がないのか。 「そこまでは知らぬ。紅猿は次の頭が誰になるかとえらい騒ぎじゃ」 もしかすると前の女房である術師は、その騒ぎに巻き込まれるのを嫌がって雲隠れしているのではないだろうか。 頭になりたいと思っている者たちに、下手に利用されると殺される可能性がある。 ならば尚更見付けるのが難しい。 名の知られた賊にいる術師だから、さして苦労もなく見付けられるだろうと踏んでいたのに。大誤算だ。 逃げまどう者を見付けるのは、そうでないものに比べて格段に難儀だ。 「つまらぬ顔をしておるな」 表情がとても薄い玻月が気になったのだろう。煉絢は小首を傾げる。そして手を一つ打った。 「菓子でもやろう」 手を打った音に促され、先ほど襖を開けた女童が入ってくる。 煉絢は近付いてきたそれに「部屋の奥に菓子があったじゃろう」と命じている。 「欲しくない」 玻月はわざわざ出されても困ると思ったのか、煉絢の申し出を断る。 しかし煉絢は聞かなかった。 「そう言うでない」 煉絢が玻月に向けている態度は子どもに対するものだ。妙に優しい。 綜真の前ではそれほど柔和な態度を見せたことはなかった。 成人してしまった男に対しては冷たいものなのかも知れない。 「して、それをわっちに探せとな?」 「そうだ」 探せと言っても煉絢がどこかに出向いて情報を集めるわけではない。 ここに来る人々から、それとなく賊に関することを話して貰うのだ。 その役割をするのは主にここで身を売っている女たちだろう。その話術で吐いてはならぬことも吐かせることの出来る者たちだ。 「おそらく賊の跡目に関わりたくなく、隠れておるのじゃろうから。すぐには出てこぬと思うが」 「構わねぇ。俺たちも足で探しに行くしな」 ここだけに頼っているわけではない。 綜真もまたふらりふらりと動き回って探すつもりだった。 ふぅんと煉絢が何とも言えない相づちを打ったところで、先ほどの女童が綺麗な漆塗りの器を持ってやってきた。 それには色とりどりの砂糖菓子が盛られている。 金平糖だ。 「召し上がれ」 女童が玻月の前に静かにそれを置くと、煉絢が勧める。しかし玻月は首を振った。 「毒など盛っておらぬぞ」 そう告げても、玻月は動かない。 尻尾の警戒がようやくん収まってきたかというところなのだ。与えられた物に口をつけるなんてとんでもないと思っているかも知れない。 「警戒心が強いのう」 少し呆れたように言いながら、煉絢は腰を上げた。 重ねられた着物を乱すこともなく立ち上がり、足を玻月に向けた。 無理矢理口に入れさせるつもりか、と綜真は身構えてた。いくらなんでもそれは無体過ぎる。 目の前でやられる前に、止める覚悟だ。 「さすがは狼の子かと言ったところかや」 煉絢はほっそりとした形の良い指で金平糖を一つ摘んだ。 そして無造作に己の口の中へと入れる。 「ほれ。毒など入っておらぬわ」 かりかりと砂糖の固まりを噛み砕き、毒味をして見せたかったらしい。 しかし顔を近付けられ、玻月は困惑を見せていた。 まるで脅迫されているかのような気分なのだろう。 それを見て、煉絢は楽しげにふふふと笑っていた。そしてすとんとそこで腰を落とす。 玩具で遊ぶつもりだろかうと綜真はやや呆れ気味に横目で眺めていたのだが、予想に反してその笑みは優しげなものに変わった。 あまり性根が真っ直ぐとは言えない女にしては珍しい、素直な笑みに見える。 初めて会ったはずだろうに。 そう思う綜真の視線も気にすることなく、煉絢は玻月を眺め、見つめられている玻月は視線を彷徨わせていた。 次 |