三千世界   壱




 山を背に持ち、森の中で静かに暮らしている村。その村に入ってこようとする馬鹿はいつの世にもいた。
 入ってこられるはずがないと知りながら、かつて誰かが奇跡的に忍び込んだことを思い出しては欲に駆られるのだろう。
 その結論が一つの終わりを導くのだと、考えもせずに。
「ここが狼の地と知りながら、入り込むか猿ども」
 雌は低く唸った。
 金に近い色の髪を一つに結び、薄い蒼銀の瞳を刃のごとく細める。
 頭には二つのぴんっと立った狼の耳。尾は僅かに膨らみ、感情の高ぶりを表していた。
 幼い頃の記憶が、雌の傷口をえぐる。
 あれはまだ母がいた頃の記憶だ。
 やんちゃ盛りの弟が遊びに出たきり戻らなかった。村の外れまで行ってしまったのではないかと騒ぎになり、山狩りまで行われたのだ。
 その時に知ったのは、猿の盗賊の群が近くに来ていたという遅すぎる噂だ。
 弟はさらわれてしまったのだ。
 かつて何度かあったことだ。
 狼は数がそう多くない。まして狼の子どもなどここにしかいないのだ。大きくなるまで外に出ることは許されない。
 他の生き物を制することが出来るほど、力を持った成獣だけが多種族の目に触れる。
 だから、狼の子どもというのは希少価値が高かった。売り物にすればかなりの高額になる。
 そこに目を付けた賊たちが村に侵入しようとやってくる。
 まだ無抵抗な子どもを金に換えようとするのだ。
 そんな欲望のために弟が、あの無邪気に笑う小さな弟が奪われたことを思うとはらわたが煮えくり返る。
 父も母も弟を捜して駆けずり回った。母は病に伏せ、弟に会いたいと言いながら、目を離してごめんなさいと言いながら亡くなった。残された父は今も弟がどこにいるのか調べ続けている。
 あの愚か者どものせいで、一族の悲しみが消えることがない。
 唸り声は大きくなり、牙がちらつく。
 猿の姿を視界に入れると、雌は一気に襲いかかった。
 手に握るのは短い刃。
 猿が持っている刀に臆することもなく、懐に潜り込んでは腹を切り裂いた。
 悲鳴が響き、他の猿たちも危険を察知したのか周囲を見渡そうとする。
 狼の目にはその姿もしっかりと映っていた。
 真昼の森は、木々が日の光を遮り少しばかり薄暗い。
 賊は大抵夜の暗がりに潜んでやってくるらしいが、狼は夜目がとても利く。猿よりよほど夜に愛でられている生き物なのだ。だから真昼を選んだのだろう。
 だが狼はひなたでも活発に動いている。不利な時がないのだ。
 目にした猿を片っ端から斬り殺していく。
 木々の上に逃れた猿には短刀を投げつけた。幾つもの猿が上から落ちてくる。
「一匹も逃さない」
 ただの一つも逃すつもりはない。
 皆殺しにするのだ。
 それでもこの悲しみは癒えぬだろう。この傷は塞がらぬだろう。
 あの子が戻るまで。無事に、無邪気に笑ってくれるようになるのでは。
「決して、決して…!」
 憎しみの感情が高ぶりすぎて手元が狂うのではないと危惧してしまうほどだ。だが頭と切り離されているかのように、手は猿の命を順当に奪っていく。
 血の匂いが森に充満する。断末魔の声があちらこちらから聞こえてきた。
 ここには雌だけではない。父やすぐ下の弟も来ている。雌とさして変わりない殺意を抱いていることだろう。
 猿たちの中で動きの違うものが目に入った。
 二匹。
 同じ背丈で、全身を大きな布で包んでいる。頭からすっぽりと覆われているので顔が見えない。
 同じ動きで襲いかかってくる、その速さは今までの猿たちとは比べ物にならなかった。
 刀の切っ先が雌の胸元に向けられる。一匹は逃れられる。だがもう一匹の刀まで避けられるかどうかの自信がなかった。
 刀が己に刺さる。
 そう感じた時、片方の刃を矢のように放たれた短刀が退けた。
 視界の端では父の姿がある。
 邪魔が入ったと思ったのだろう。二匹はそれぞれ別れ、一匹は父の元へと駆けていく。
「犬か」
 雌はそう唸った。
 猿どもとは匂いも動きも違う。
 地を駆けるその動きは同族に近い。だが誇り高き狼が賊の中にいるはずもない。
 所詮どこぞの野良犬が紛れ込んでいるのだろう。
 相手は答えることもなく刃を振りかざした。
 速いと先ほどは思ったが、それも猿の動きに慣れてしまったためだ。意識を改めると恐れるものではないと分かる。
 賊の刃をするりとかわすと、今度は振り返るようにして真横に斬りつけてきた。
 布の裾が大きく広がり扇を描く。
 それでは遅いのだ。
 無駄な動きが混ざっている。それほど大きく動く必要などどこにもない。
 雌は愚かしさに嘲笑を浮かべ、握り締めていた短刀をそれに向けた。
 するりと眼前まで近寄ると相手の匂いが分かる。そして鼻腔に入ったものにびくりと心臓が震えた。
「は……」
 あ、と口に出す前に手が動いていた。だが迷いはその短刀を鈍らせ、喉を狙っていたものは頭からかぶっていた布を切り裂くだけに留まった。
 そしてその下から現れたものに言葉を失う。
「玻月……!」
 はづき。  この匂い、そしてその顔。母によく似た甘い色をした髪と良い、己とよく似た薄い蒼灰の瞳と良い。
 それはかつて失われた弟と酷似していた。
 名を呼ぶと相手は刃を持つ手をひくりと一瞬だけ揺らした。だが動揺を隠すようにして刃を切り返してくる。
「玻月!!」
 何故、そんなにも弟と酷似し、名に反応するというのにどうして襲いかかってくるのか。人違いだというのか。
「私が分からない!?貴方の姉よ!」
 求め続けた者に、叫び声をあげる。
 失ってから七年。一刻たりとも忘れたことなどなかった。望まぬ日はなかった。
 その者がようやく目の前にいるのだ。
 抱き締めて再会を喜びたい。だが玻月は耳を貸そうとしなかった。
 必死の形相で刃を振り回す。
「玻月!!正気を持ちなさい!」
 怪しげな術か何かで我を忘れているのかも知れない。
 刃の軌道は目で見て取れる。どう動かしているのか、玻月の癖も察しが付くようになっきた。幼いその外見を裏切ることなく、分かり易い動きだ。
 刃をかいくぐり、するりと懐に入る。そして玻月の手を掴んだ。
 両手を掴むと間近で玻月と向かい合うことになる。
 自然と嗅ぐことになる匂いは、やはり同族のもの。そして一族のものに違いがなかった。
 玻月もそのことに気が付いたのか、双眸を大きく見開いた。
 驚愕がそこには張り付いている。
「分かった?私は貴方の姉です」
 血を分けた、大切なかけがえのない姉弟だ。
 頭からかぶっている布の下で、耳がぴくりと動いたのも確認出来る。
 それにしてもどうしてこんな賊の中にいるのか。
 問いたい気持ちは山々だったが、だがそれよりも先に再びこうして出会えたことを喜びたい。
 自然と口元には笑みが浮かんだ。だがあまりにも苦痛の時が長すぎたのか、瞳の奥が暑くなっては視界が歪んでいく。
「玻月」
 ようやくだ。
 そう心が呟いた時、玻月はがばっと急に横を向いた。
 まるで何かに叩かれたかのようだ。
「玻月?」
 どこかを見つめたかと思うと、見る見るうちに青ざめていく。ただごとではない表情に思わず手首を掴んでいた力が緩まる。
 それを狙っていたように玻月は雌を突き放しては地面を蹴った。
「玻月!どこ行くの!」
 とっさに掴み直そうとした手は届かなかった。
「っ!」
 速さが違う。さっきまでとは比べものにならない速度で逃げていく。
 いけない。
 このままではまた離れてしまう。
 せっかく会えたというのに、父にも、もう一人の弟にも会わせることなく別れてしまうなんて。そんなことはあってはならない。
 全身に熱が駆けめぐった。
 咆哮をあげるように雌は力を込めて駆ける。大気を切り分けるようにして玻月の背を負った。
 一心不乱と言わざる得ない気迫がその後ろ姿から窺える。一体何を感じたというのか。
 分からないまま雌はその背中に手を伸ばそうとした。そしてあともう少しというところでその光景が目に入った。
 大きな布の前で立ちつくす父。
 玻月はそれを見て、足を留めた。
 父は突然現れた者に短刀を握り、始末しようと腰を低くした。だがその顔を見て雌と同じく凍り付いた。
 玻月だと、気が付いたのだろう。
「……おまえ、玻月か」
 問いかける父の声はからからに乾いていた。
 無理もない。
 血眼になって探し続けた息子が、自ら現れたのだ。
 喜ぶより先に驚きの方が強い。
 玻月はふらふらと父に近寄った。姉は分からずとも、父は分かるのか。ようやく再会を理解してくれたのかと思った。
 父も似たようなことを思ったのだろう。戸惑いを見せながらも玻月に触れようとした。だがその手が肩に届く前に、玻月は座り込んでしまった。
 そして地面に広がる布を掻き抱く。
「あ……ああ…」
 呆然と、声を零す。
 衝撃が強すぎて受け止められないようだ。
 そういえばあの布は、もう一匹の賊が身につけていたもの。父が斬り殺したとすればその死体はどこにいったのだろう。
 そこには布があるだけで、肉体どころか血すらなかった。
「ああああああああ」
 玻月は壊れたように悲鳴を上げた。
 布を抱き、身体を震わせている。
 異様な状態に雌は戦慄を覚えた。
 これは、一体どういうことなのか。何がどうなっている。
 この子は玻月ではないのか。
「父様……」
 訳が分からず、父の顔を見上げる。
「華月、あれは玻月に違いがないと思うのだが」
 かづきと呼びながら父は同意を求める。華月もそれには頷くしかない。
「あの布は…どうなさったのですか」
「斬り捨てた。すると中の者が消えたのだ。逃れたとは到底思えない」
 おそらく、と父は渋い顔をした。
「形代の類であったのだろう」
「かたしろですか」
 朧気に聞いたことのあるものだ。
 もう一人の自分を作り出すことの出来る術だと聞いていた。ということはあの布の下にいたのはもう一人の玻月だったのだろう。
「…どうしたものか」
 玻月は悲鳴を上げるのを止めた。その代わり嗚咽を漏らしながら泣き始める。
 可愛い弟が泣いている様はあまりにも痛ましく、抱き締めて慰めたい気持ちは山々だ。
 けれど、その泣いている原因を作ったのはこちら側。
 父はましてのこと、華月が抱き締めたところで玻月はまた悲鳴を上げるのではないかと思われた。しかし放っておくことも、苦しい。
「……素直に喜べぬ形になろうとは」
 父は鋭い犬歯を剥き出しに、やるせなさを噛み締めているようだった。
 華月には何がどうなっているのか分からず、ただ抱き締めたいと願う手をぎゅっと堪えていることしか出来なかった。