冬の営み 六
悠里は目覚めてまず、身体が重たいと感じた。家守に抱かれた翌朝は大抵気怠さと共に身体がずっしりと重量を増した気がする。 家守が上に覆い被さってきた感覚が残っている、というわけではないだろう。単純に疲労感のせいで身体が上手く動かないのを、重いと勘違いしているだけだ。 そうは分かりながらも布団の中に身体を沈めたまま、外に出る気持ちにならなかった。 ただでさえ冬場の朝は寒さのせいで暖かな布団の中から出られない。息を吸い込む度に冷たい空気が体内に入ってくることに憂鬱さが増す。まるで布団の外が異界であるかのような抵抗感を覚えるというのに、今朝は情事の名残のせいで更に出られなくなっていた。 寝返りを打つのも億劫で、自然と再び目を閉じてしまう。 家守は傍らにはいない。火照った肌が冷める前に眠りの淵に立った悠里の身体を抱き締めていた腕は、いつも朝にはなくなっていた。 いつだって目覚めは一人きりだ。 この身体を抱いた存在など幻なのではないかと思ってしまいそうなところだが、生憎身体の怠さが現実だと伝えてくる。 他の何物でもなく疲れが情事を裏付けるというのも、守り神が相手だというのに何やら生々しい。 眠っているのか起きているのか曖昧な時間をたゆたっている間に、時間は軽く一時間半が過ぎていた。枕元の時計を見て、これ以上布団に籠もっていると朝ご飯を逃してしまうことに気付いては、手探りで空調のリモコンを取っては、暖房のスイッチを入れる。 部屋が暖まっていなければどうしても布団からは抜け出せない。 空気が多少ぬくもり、顔を出しても寒さが感じられなくなった頃にようやくのっそりと身体を起こした。 下肢に纏わり付く違和感に、ふと動きを止める。 何度経験してもこの怠さと違和感には慣れない。 台所では叔父がノートパソコンを広げていた。悠里が見ても分からない数字の羅列を眺めていたが「おはよう」と挨拶をすると苦笑が返された。 「おはよう。よく寝ていたな。岡井は仕事、永里は部活に行った」 「そう」 二人の所在を伝えながら叔父は立ち上がっては冷蔵庫から玉子サンドとサラダを出してくる。フライパンの準備を始めたので、ベーコンでも追加されるのだろう。 椅子に座り、親のように世話をしてくれる叔父の背中を見る。 何気なく視線を少しばかり動かすと、流しの端には見慣れぬマグカップが洗われて置かれていた。家族以外の痕跡に、自分でも意外なほどに違和感を覚えた。 自分たちの叔父だと昨日までは思っていたけれど、今は岡井のものでもあるのだろうと思うと多少複雑なものがある。 「岡井さん、朝は早いんだ」 「永里と似たような時間に出掛けるらしい。帰ってくるのは午後七時くらいだそうだ」 「一緒に晩飯は食えるわけか」 「永里を少しでも待たせるのが苦労しそうだがな。待っても三十分くらいだろうが、腹が減るといつもにましてうるさいからな」 部活から買ってきた永里は空腹がピークの状態であることが多い。なので帰宅するとすぐに晩ご飯を食べたいと騒ぎ出す。そこから更に三十分、岡井の帰宅を待てと言われてちゃんと待てるのか。 (幼稚園児じゃないんだから待てると思うけど、あいつはうるさいからな) 待てたとしてもその間ずっと一人で喋っているのだろうと思うと、うんざりしてしまう。悠里だけでなく叔父も静けさを好むので、きっと同じような心境になるだろう。 「岡井さん、うちに馴染みそうだな」 うるさく騒ぐ永里の横に岡井がいると、多少落ち着いてくれるようだった。 悠里と叔父がどうしても似たタイプである分、異なる性格の永里は反発をしていたのかも知れない。そこに岡井が加わることで、バランスが整ったように見える。 昨夜の食卓は少なくともこれまでにないほどに穏やかなものになっていた。 岡井と食事をすると我が家は大抵そうして和やかな雰囲気になる。岡井が細かく永里を構ってくれるからだろう。 「永里がよく懐いているのが有り難い」 「うちの空気も改善されるかもな」 兄弟仲が良くないことを、叔父は気にしていた。 人懐っこく構われたがりな永里と、真逆の悠里では上手くいくわけもない。けれど同居している兄弟である以上、どうしても接する時間は出てくる。そこをどう調整するのか、二人の間に立って叔父が悩んでいるのは察していた。 まして悠里は家守のつがいだ。特別な育ちと扱いをされている分、どうしても配慮されている。それも永里にとっては気に食わない部分だろう。 それでも悠里の扱いを変えるわけにはいかず、永里の肩を持つことも出来ない叔父の複雑さを目にしてきた。 「……家守は、大丈夫か?」 熱したフライパンにベーコンを入れ、叔父はぽつりと尋ねてくる。ベーコンの焼ける音に紛れそうだったその声は、きっと一番知りたいことなのだろうという必死さがあった。 家守が気に入らないと言えば岡井はここにはいられない。 それを叔父が最も気にしている。 「昨日出てきて、岡井さんが来たことは良いことだって言ってた」 「そうか」 叔父の声は一気に明るくなった。珍しく弾んだような声音は、よほど拒否されることが怖かったのだろう。 ベーコンをカリカリに焼き上げて、皿に盛る叔父の表情は柔らかくなっている。 家守は岡井がここに来たことを喜んですらいた。叔父がこうして明るい顔になることを、期待していたのかも知れない。 「どうして家守が岡井さんを受け入れたのか知りたい?」 浮かれているとも言える叔父を前に、悠里はふと情事の合間に聞いた家守の台詞を思い出した。 叔父は悠里にコーヒーを入れようとした手を止めて、興味深そうな視線を送ってきた。 「何故だ?」 「あいつは夏樹のためなら死ねるから、だって」 家守は淡々とそう言っていた。 悠里はそれを聞いてさすがに驚いた。 岡井は大らかで人の良い男だと思っていた。叔父の表情の些細な変化に気付くところから人の感情に敏感だと思っていたけれど。激情家であるという印象はなかった。 しかし家守が言うのだから、岡井の中にはそういう激しく狂気にも似たような情があるのだろう。 「……あいつは、そんなやつじゃないだろう」 叔父は目を丸くした。 けれどすぐに口元をほころばせては、あっさりと否定する。 そしてドリップバッグをセットしていた悠里のマグカップに、ケトルのお湯を注ごうとした。 「家守も大袈裟だな。死ねるだなんて。大体、誰かのために死ねる人間がこの世にどれだけいると思ってるんだ。まして俺のためだぞ、あり得ない」 叔父の声と表情は冷静そのものだった。 だがケトルから流れ出すお湯は大きく揺れており、マグカップの口から時折外れていた。バシャバシャとテーブルの上にお湯が零れては、マグカップが半分も満たされない内に、叔父は深く俯いてはとうとうケトルをテーブルに置いた。 そして片手で顔を覆っては、その場にしゃがみ込む。その顔がどうなっているのかは分からないけれど、無言で動揺しているのは間違いないだろう。 動きが停止した叔父を眺めながら、悠里は布巾でテーブルを拭いては、自らコーヒーを入れ直した。賑やかになるのは永里だけではないらしい。 了 |