たなごころ 4 ソファで貪り合った後、風呂場に移動した。 泣いた上に喘ぎ声を出すという重労働を続けた俺の身体はぐったりと疲れ果てていた。 それでも精神的にはぬくもりが宿ったようで、落ち着き始めていた。 よほど憂いや悩みが溜まっていたのだろう。それを寝屋に吐き出すことで多少なりとも心が凪いだのだ。 狭い湯船の中。男二人が一緒に入るにはどうかと思うスペースだが。後ろから抱きかかえられる体勢を取って貰うと、肌が密着して鼓動まで伝わってくる。 寝屋の吐息を首筋に感じながら、これはこれで悪くないなと思っていた。 「雄大と二人だと、ゆっくりも出来ないから。こうして静かなのは久しぶりだ」 「そうだろうな」 ここに来た時から雄大と二人で風呂に入るのは習慣だった。子どもがいつ頃から一人で風呂に入るのかは知らないけれど、まだ二人でがちゃがちゃしながら風呂に入るのは楽しい。 裸の付き合い、とはよく言ったものだ。 初めの頃きは雄大の身体に付いていた痣が綺麗に消える日を今か今かと待ちながら入っていたな、と思い出すと、現在は健康優良児そのものと言える雄大の姿が誇らしかった。 「身体洗うの嫌−、だなんて。ここに来た時ですら言わなかったのに」 楽しいはずの風呂も、今は少しばかり気まずさがある。 数時間前も拒否されたなと俺は肩を落としてしまう。 「反抗期か」 「そうなのかな。前はそんなこと全然なくて、素直で大人しい子だったのに。手のかからない楽な子だって思ってた」 スーパーで見かける、店内を走り回って悪戯をしているような子だったらどうしようかと心配したものだ。 「でも雄大は我慢していただけかも知れない」 大人しかった、従順だった雄大と。我が儘を言うようになった雄大。どちらが本当に雄大がそうでありたいと願っている顔なのだろう。 もしすると俺はずっと雄大が自分を抑制していることを知らずに、良い子だと褒め続けていたのではないだろうか。 それが雄大にとって、本来の自分と切り離されていくように感じたのかも知れない。 「そうかもな」 寝屋は俺の肩に顎を乗せた。 甘えるような仕草。雄大も甘えてくるけれど、それとは明らかに違う種類のものだ。 「いきなり知らない大人と一緒に暮らすなんて怖いよな。だから我が儘言い出したのも、心許した証拠かなって、初めの頃は言うこと聞いてやろうと思ってたんだ。それが、甘やかし過ぎたのかも知れない」 雄大の要求に、最初俺は容易に頷いていた。おやつ、寝る時間、欲しい物だってつい買ってあげてしまっていた。 そうやって甘やかしていたから、雄大は自分をエスカレートさせていったのだろうか。 「って言うよりあれじゃないか?どこまで許して貰えるのか。雄大は計ってんじゃないか?」 「え?」 「どこまでおまえに許して貰えるのか。どこまで悪いことをしたら、どうなるのか。捨てられるようなことはあるのか。雄大なりに見極めようとしてるんじゃないか?」 意外な着眼点だった。 「そう、なんだろうか?」 「どんなことをしても見捨てられずに愛される。そんな自信は、たぶんまだ雄大はないだろうからな」 耳元で聞こえる寝屋の話に、俺はまた涙が込み上げてくるようだった。 「切ないな……」 雄大はまだ十才にもなっていない。そんな年の子が、自分が捨てられるかも知れない可能性を真面目に考えて、周りの大人を判断しなければならないなんて、痛ましい。 何をしても捨てられたりしない。最後にはちゃんと誰かが守ってくれる。 根拠なんてなくてもそう信じていられるのが子どもだと思っていた。 少なくとも俺が子どもの頃はそうだった。どんなに悪いことをしても、親は酷く怒って叱るけれど俺を捨てたりしないと思っていた。 そっぽ向かれて、そのまま置き去りにされることなんて、俺には有り得ないことだったのだ。 けれど雄大にはそれが起こってしまった。 正しくは捨てられたわけではない。両親とも雄大を一人きりにしたかったわけではない。だが結果的にあの子は両親を失ってしまったのだ。もう彼らが雄大を抱き締めることは出来ない。 そして代わりに与えられた、他人に近い俺がどこまで自分を愛してくれるのか、あの子はまだ不安なのだ。 「そんなのしなくても、あの子がのびのび暮らせるようにしてやりたいよ……」 愛されていない、捨てられるかも知れない、そんな気持ちを考える隙間もないほどに、幸せを感じさせてやりたい。 もっと大切にしてやりたい。上手に出来なくても、俺の精一杯でもっともっと、あの子を笑わせたい。 そう思い、これからの自分に何が出来るのだろうかと思っていると泣き声が聞こえた。 雄大が泣いているのだ。 寝ていたはずなのに、目が覚めてしまったのだろう。だがどうして泣いているのか。 俺は泣き声を感じた時に反射的に立ち上がっていた。腹に回っていた寝屋の腕は外れされており、身体が濡れているのも構わず風呂場から出る。 さすがに全裸はどうかと思われるので、腰にタオルだけ巻いて脱衣所を後にすると雄大がリビングで泣いていた。 小さな身体なのによくこんな声量が出るものだ。 「どうした?」 何かあったのか、怪我でもしたか、そう思いながら俺は膝を突いて雄大を見た。 だがぱっと見ただけではおかしなところなどない。 両手を伸ばすと雄大はすぐにしがみついてきた。 風呂に入っていた俺が暖かいのは当然なのだが、雄大もそれに負けていない。熱を出してしまったのだろうか。 「雄大?しんどいのか?」 風邪を引いて辛いのかと思ったのだが、雄大は俺の胸に顔を押しつけると「や、だ……」と言った。 「やだ、やだぁ」 切なそうに懇願するように雄大は繰り返している。 だが何が嫌なのか、俺にはさっぱり分からない。 ここのところ、よく嫌だ嫌だとは言っていたけれど。雄大は寝ていただけだ。俺が何かさせようとしたわけでもないし、何かしようとしているところでもないだろう。 「雄大、何が嫌なんだ?どうした?」 混乱しているらしい子の頭を撫でながら、俺はゆっくり問いかける。 いっぱいいっぱいになっている子に答えを貰うのは、なかなか苦労する。 「い、いない、いかないで……いかないで」 行かないで。そう言いたいのだろうか。 だが俺はどこかに行くなんて話を雄大にした覚えはない。そもそも俺は引きこもりに近い生活であり、出掛ける用事なんてないのだ。 何を勘違いしてしまったのだろう。 「おいて、かなで。いい子に、る、いい子にする、からぁ」 どこにも行かないで。 言葉から滲み出ている気持ちは、一人になってしまうかも知れない恐れだ。 それは捨てられるという恐怖に通じている。 なんでこんなことを思うのだろう。どうして心配するのだろう。 「行かないよ。行くわけないだろ」 杞憂だ。そんな日が来るはずもないのに。何故この子は泣いているのか。 この子が安心して、ここにいても良いのだと、一人きりにはならないのだという確信を持てるだけの愛情をまだあげられていないせいだ。 「どうしたんだよいきなり。怖い夢でも見たのか?」 寝屋の言う通りだったのだ。この子は自分の居場所を探して、確かなものが欲しくて藻掻いていた。俺に必死に救助して欲しいとサインを送っていたのかも知れない。 それが、反抗するという形になっていたのだ。 「どっか行くわけないだろ。雄大がいるのに。どこ行くんだよ」 どこにも行くはずがない。 この気持ちを分かって欲しくて、俺はぎゅっと雄大を抱き締める。壊してしまわないように、だが離してしまう時なんて永遠に来ないのだと感じて欲しくて、強く強く、抱え込んだ。 「い、いかない?」 「行かないよ。大丈夫」 ここにいるから。 そう囁いても雄大は泣いていた。 それは積み重ねてしまった寂しさや、悲しさを訴えるようだった。 こんな幼さでこの子は自分の何もかもを失ってしまうほどの出来事に遭ってしまった。信じられるものを全て亡くしてしまった。 悲鳴が、俺の胸まで破いてしまいそうだ。 「不安が募ったんだろ」 背後で寝屋がそう喋った。ちらりと見えた足はスエットをはいている。俺と違って寝屋はすでに服を着ているのだろう。 「きっと怖くなったんだろ。おまえとぎくしゃくして」 嫌われて、いらない子だと捨てられるとでも思ったのだろうか。 馬鹿な考えだ。だがそれを馬鹿だなんて言えるはずもない。その不安を生み出せたのは俺なのだから。 俺が不安なら、この子はもっと不安なのだ。それを見てあげなければいけない。大人なのだから、俺はこの子と暮らすのだと決めたのだから。 「どこにも行ったりしないよ」 雄大が俺の力を必要としなくなるまで、一人でもちゃんと笑顔で歩いて行けると信じた時まで。側にいたい。 雄大が泣き止むまでそうしていると、嗚咽が途切れ途切れになった頃に寝屋が「ほら」としゃがんで雄大に声を掛けた。 「これでも飲め。特別甘いのにしてやったから」 雄大用の少し小さなマグカップに入っているのはホットミルクだ。 身体が温まる上に甘い物は精神を落ち着かせる。 しかし時刻を考えて俺は眉を寄せてしまった。 「こんな夜中に……」 「今日だけな」 寝る前におやつは駄目だと言っているのに、日付が変わった後の時間に甘い物なんて。とつい渋りたくなる。 だが俺からゆっくりと剥がれた雄大が、真っ赤な瞳でそれを見ながら頷いたのを見るとそれ以上何も言えなくなる。 両手でマグカップを持って、頑張ってふーふーしている様は可愛らしいものだ。 「おまえは服着て来い。風邪引くぞ」 「そうだな」 雄大を眺めていたいのだがタオルを腰に巻いただけ、というのは冷えてくる。実際俺は鳥肌が立ちっぱなしだ。 もう一度湯船に浸かって温まった方がいいかも知れない。 「二人で、いっしょにおふろ?」 雄大はホットミルクを一口二口飲んで甘さにほっとしたのかも知れない。 まだひくっと言葉の語尾が震えているがそんな素朴な疑問を投げかけてきた。 大人二人はそれを聞いて硬直し、互いに視線で「おまえが何か言え」と責任を押しつけ合った。 こんな時間に、大人が二人で一緒に風呂に入る理由なんて。仲良くするためだろう。 しかもかなりの密度の親しさがなければ出来ないことだ。 俺たちの場合はソファで一戦交えていたので、風呂場であれこれしたわけではないのだが。それでも一緒に入った理由なんて到底言えない。 「……たまには、な」 親であるおまえが誤魔化せ、という寝屋の無言の圧力に負けて俺はぼそぼそと答えた。 雄大がまだまだ子どもで良かった。もう少し育っていたら、勘付かれるかも知れない。 この年の子に、事実を教える勇気はまだない。 「今度雄大も俺と一緒に入るか?」 「入る!」 寝屋がそう話題を逸らすと、雄大は喜々として乗ってきた。 俺が雄大と風呂に入るように、たまに寝屋と入っているのだ。子どもはその程度の認識なのだろう。 それにほっとしつつ、俺は罪悪感を抱きながら風呂に戻った。 |