たなごころ   3




 断罪を待つ罪人のような俺の耳に、寝屋の憂鬱そうな溜息が届いてくる。
 まるで俺の溜息が伝染したみたいだ。
「ろくでなしの親なんて山ほどいるだろ。おまえはさ」
 プシュと寝屋が缶ビールを開ける音がする。
「親を美化しすぎなんだよ。おまえの親がどんな人だったか俺は知らねぇけど」
 俺を育てた親を思い出すが、すごい人かと言われると首を振る。
 普通の、平凡な家庭だった。
 父親はサラリーマンで、母親は塾の先生だった。これといって特殊な環境などなく、俺も大して特別なことのない子どもとして育った。
 大人になってから男を好きになるというとんでもないことになったのだが、それは親の影響ではないだろう。兄は女性と結婚しているし、性に関わるトラウマも何もない。
「普通の人だった……」
「あっそ。なら叩かれたことくらいあるだろ」
「あったさ。あったけど」
「でもって言うなら、おまえはこの先雄大が何をしても叩かずに全部許していくってのか?」
 今日、明日のことに苦悩している俺にとって、その先の未来はとても見えるものではない。
 だが寝屋はそれを見せようとしているのだろう。
 あの子も小学生、中学生、本格的な思春期になれば大人と衝突することもしょっちゅうだろう。これ以上の反抗期なんて考えるだけで泣きたくなるけれど、いずれ来てしまう。
 その時、俺はどうするだろう。
「許すって……でも叩かなくても」
「口で言って聞くか?この年ですでに聞いてないんだろ?俺だっておまえだって、親から口で言われただけで全部素直にはいって言えたか?」
 そう言われると、親に口答えをして全然素直にならなかった時期が確かにあった。
 ゆっくりと顔を上げて、俺は壁を眺めながら親の怒声を思い出していた。
 人並み程度だとは思うけれど、俺だって親と激しい喧嘩をしたことも、家出をしたこともある。
「口だけでって言うのは簡単だ。それで言うこと聞いてりゃ親も苦労しないだろ」
 こくりと喉を鳴らしてビールを飲んでいる男も、かつては親を泣かせたことだろう。子どもの宿命のようなものだ。親に苦労をかけるということは。
「あの子の母親はな。やり過ぎたんだ。それだけのことだろ」
 限度を超えて仕舞った。だからそれは恐怖になって、トラウマになった。そう言いたいのだろうか。だがあの子にとって、暴力のトラウマは簡単に引き出されてしまう。
 それでも、叩かなければいけない時が来るのだろうか。
「……俺、すごく、後悔したんだ。雄大を叩いた手が痛くて、あの子が泣くともっと痛くなって。もう二度と嫌だと思った」
 こんな気持ちになるなら、叩きたくなんてないと思った。雄大だって痛かっただろうが、俺だって痛かった。
 二人ともがこんな気持ちになるくらいなら、もう二度と手なんて上げたくない。
「そうだろうな。そんだけ雄大が可愛いんだろうさ。だがな、可愛いからって許してばっかりじゃ、あいつは他人に許されて、甘やかされて当然になるぞ」
 多少の我が儘は愛嬌。だがそれも度を超えれば疎まれるのは当然だろう。
 それが現実であるということも、俺は学ばせなければならない。あの子がこれからちゃんと生きていくために、人と関わりを持ち、支え合っていくために。
 ろくでなしの俺でも他人に支えられている。そしてたまには人の役にも立っているだろうかと思うことがある。
 それが大事なんだとあの子にも伝えたい。
 甘やかされるのも、優しくされるのも、当たり前だと思ってしまえば周りも当人も寂しい結末になってしまう。
「親に叩かれた経験のあるおまえは、親を恨んでるか?」
「そんなの、恨んでるわけがない」
「なんでだ?」
 どうして叩かれたのに恨んでいない。そう問い詰められ、俺は自分が自然と持っていた感情を分析する。
「それは、俺が悪かったから。それに、叩かれたけど親は俺をちゃんと育ててくれたし」
 叱られて腹が立ったことだって数多くある。けれど思い返せば自分が悪い場合が大半だ。それに腹が立ったという気持ちよりもずっと感謝の方が大きい。大切にされたと分かるからだ。
 俺のためを思って叱ってくれて、俺のためを思って優しくしてくれて。親は溢れるほどのものを俺にくれた。
 だから叩かれたくらいのことは、笑い飛ばせるような他愛ない過去だ。
「それだ、そこだろ。結局さ、叩かれる理由が分かって、叩かれても怯えないだけの愛情があったからだろ」
「愛情……」
「おまえを叩いた手は、おまえの頭を撫でたんじゃねぇの?」
 母親の手は、俺の頭を叩いた。頬をはたかれたこともある。だがそれとは比較にならないほど頭を撫でられた。抱き締められた。だっこされて歩いた買い物の帰り道も朧気に覚えている。
 やっぱり俺を叩いた父親の手だって、俺をおんぶしてくれた。俺を二の腕に捕まらせてそのまま宙ぶらりにさせたこと、俺を高く持ち上げて歓声を上げさせてくれたこともあった。
 あったかい、手だった。
「撫でたよ、いっぱい、色んなもんをくれたよ」
 じわりと涙が滲んできた。愛されてきたとは思っていたけれど、改めて振り返ると何も返せずにあの二人は逝ってしまったのだ。
 親不孝なまま、情けない限りだ。
「おまえの手だって同じだよ。その手は雄大を叩いた手。怖い手かも知れない。だがいいことをすれば撫でてくれる。褒めてくれる手でもある。愛情のある、優しい手でもあるだろ。それを教えてやれよ」
 寝屋は真剣にそう語ってくれている。俺と雄大のことを含んでいる考えてくれている。それだって特別なことで、当たり前ではないのだ。
 支えてくれることは当然じゃなく、大切なこと。
 それが染み込んできては俺は唇を噛み締めた。そうしなければもう泣きだしてしまいそうだった。
「叩いた何倍も、何十倍も抱き締めたらいいじゃないか。積み重ねていけよ」
「そしたら、伝わるかな……?」
「いつかは、きっとな」
 それは希望だ。だがやる前から諦めてしまうにはあまりにも輝かしい期待だった。
 泣きそうになっているのが見て分かるのだろう、寝屋は俺の頬を手の甲でそっと撫でた。
 慰められているその仕草に、ちょっとだけ口元が緩んだ。
「俺の親はな物心ついた時から片方しかいなかった。父親は失踪してたんだ。母親は男にだらしなくてな、しょっちゅう男を家に連れ込んで俺のこと邪険にする時もあった」
 淡々と喋っている寝屋はまるで自分ではない人の話であるかのようだった。
「とんでもねぇ親だよ。恨んだ時もあった。早く死んでくれないかって願ったことだってあったよ」
 寝屋は自分の親についてはあまり話したがらなかった。母親しかいないことは知っていて、満たされた子ども時代でなかったことはなんとなく感じていたけれど、予想していたより厳しいものだったようだ。
「それでも今は、有り難かったなって、苦労かけたなって思うこともある。ろくでもない親なりに、大事にしてくれたことが分かるからな」
 子どもだった頃には見えなかったことが、年を取ると分かることがある。低い目線では見えなかったものが、大人になって背が伸びて、いつの間にか視界に入ってくるように。いつだって後になってから気が付くのだ。
「何度も叩かれたが、俺だって母親にだっこをねだってたさ。それを叶えてくれたことも覚えてる。ぐれた俺を見捨てなかったことも」
 俺ってガキの頃は不良だったんだぜ、なんてけらけら笑って言っていたのだが。嘘ではなかったらしい。口から出任せを言うのが珍しくない男だってので真に受けていなかった。
「昔はさ、親が絶対で、正しいことばっかりだと思ってた。自分のために何でもしてくれる。そうであって欲しいって。だがな、そうじゃねぇって大人になると分かるだろ」
「まあ、な」
「お互いただの人間だ。完璧なところなんて何もない、ただの小さい人間だよ」
 俺の親が兄を産んだ年を、俺はもう過ぎていた。
 彼らの覚悟はどれほどのものだろうか、きっとすごく心構えをしていたのだろうなと思った。色々悩んで二人で考えて、試行錯誤したのだろう。
 だが二人は真っ当な人だったから、真面目な人だったから、俺とは違ってもっと上手くやっていたはずだ。そう思い込んでいた。
 見ていたはずもないのに。
 もしかすると俺よりずっと大変で、手間がかかって、悩み疲れていたかも知れないなんて欠片も考えていなかった。
「正しさなんて本当は分からん。それでも人間を育てようってんだ。間違いだってあるし、迷うだろ」
 おまえのように、と寝屋は柔らかな音で付け足す。
「親だってさ、答えなんか持ってねぇよ。それでも出来ることなんてさ、子どものために一番いい道を探して、一緒に歩いてやることくらいだろ」
「一緒に……」
「結局愛することくらいしか出来ない。正しさを信じて、愛することだけ」
 寝屋はこれまでに見たことがないほど穏やかな瞳をしていた。
 ちゃらんぽらんな様ばかり似合っていた男にはやや違和感がある。それでも寝屋の本心なのだろうと思えた。
「この先あの子が受け取った愛情を持って、一人でも生きていけるように、出来れば誰かと一緒に歩いて行けるように。愛情をいっぱい詰め込んでやれ」
 親はいつまでも子どもと共にいられるわけでない。順当に行けば、年の差の分だけ親は早く離れなければならなくなる。
 その時ひとりぼっちで子どもが泣かないように、両手に、身体に持ちきれないほどの愛情を宿していく。
「いつか分かる時が来るだろ。自分の中にある愛情がどれだけ大切なもんかは。一番辛い時に痛感すんだよ」
 寝屋はそんな時があったのだろうか。
 もうに死にたいと思うくらい辛い時があった時、これまで生きてきた自分を振り返った時。抱き締めてくれた親のぬくもりに涙を流したことがあっただろうか。
 少なくとも俺の目からは、止めどなく涙が零れ落ちていた。
 両手で拭っても拭っても、止まらない。
 頭を抱き寄せてくれた親の手が蘇ってくる。
「おまえはちっぽけな人間だよ。でも雄大を愛してやることは出来るだろ」
 親ではなく、寝屋が俺の頭を片手で自分の胸元に引き寄せてくれた。
 それに従いながら俺は何度も頷く。
「おまえが怖がってたら、あいつだって怖いだろ。おまえの方が大人なんだから、先に手を伸ばして抱き締めてやれよ」
 情けないではないか。
 怖いのはお互い様なのに、小さな子が歩み寄ってくるのを待っているだなんて。
 だが俺は恐怖と無駄な後ろめたさで動けなくなっていたのだ。
 何のために雄大の何倍もの人生を生きてきたのか。
 寝屋はしゃくり上げて泣く俺の額の髪を掻き上げて、口付けを落とす。
「俺はな、いきなりやって来たガキを可愛がって育てようとしてるおまえはすげぇと思うよ。俺なら無理だね」
 寝屋は、子どもは好きじゃないと雄大が来る前はよく言っていた。うるさいから嫌なのだと。
 だからきっといきなり子どもを預かっても無理、という寝屋の言い分は分かる。俺だって子どもが好きだったわけじゃない。
 だが大きなあの瞳で、おまえしかいないと言うように見つめられて頼られると、いてもたってもいられなくなるのだ。
 ましてあんな小さな身体で一人きりにさせるわけにはいかない。
「ゆ…だいは……いい子」
 両親がいないのにちゃんと生きていこうとしている。俺なんかと一緒に暮らしていても、ここのところは我が儘を言うけれど、以前は聞き分けの良い大人しい子だった。
 駄目なことは駄目だとちゃんと理解してくれた。
 俺が風邪を引いた時なんて心配してくれて、不安になって泣きだして、宥めるのが大変だった。それくらい思いやりのある子だ。
 本当は、あの子はとてもいい子なのだ。それが変わってしまったのならばきっと俺のせい。
「あーそうかい。そうだろうとも」
 寝屋は分かり切っていること、と言うように軽く流している。そして俺の腰に手を回してぐいっと身体を密着させた。
「それで、俺のいい子は慰めたお返しをくれたりしないのか?」
 キスをする一歩手前の至近距離。すっかりその気になってしまっている寝屋の顔に、俺は涙が引っ込んでいくのが分かった。代わりに呆れてしまう。
 人が泣いているのに、何盛っているのかこの男は。
 だがここのところ会っていなかったし、会ったとしても寝屋は仕事の関係で泊まることもなく。雄大がいるので前みたいに真昼から二人でベッドに転がるわけにもいかなかった。
 ご無沙汰、と言いたいのだろう。
「人が泣いてんのに、盛んなよ」
 ぐずぐずと鼻声でそう文句を言うと、寝屋は目を細めた。
「俺おまえが泣いてんの見るの嫌いじゃないんだよな。ま、俺のことで泣いてんの見るのは勘弁だけど」
 悪趣味、と言った唇はすぐに塞がれた。



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