たなごころ   2




 それでね、ぼくね。と雄大は声変わりをする前の男の子独特の高い声で楽しげに寝屋に話していた。
 ここに立っている俺のことなんてまるで忘れてしまったかのようだ。
 むしろそうしたいのかも知れない。
 喉が渇いていく錯覚。空気すら張り付いていくようだ。
「おう、ただいま」
 先に俺に声をかけたのは寝屋だった。相変わらずの無精髭に気怠そうなスーツの着方。だらしないという台詞を何度投げても一向に改まらない。
「た、だいま」
 雄大ははっとした俺を見るともごもごと口にする。
 その態度に寝屋はおやという顔をしたけれど、きっと喧嘩でもしたのだろうと思ったのだろう、すぐに苦笑した。
 その想像は正しいけれど、少し外れている。
 いつもの喧嘩とは違うからだ。
「おかえり」
 とてもではないがいつものように微笑むことは出来ず、少し素っ気ない声になってしまった。
「仕事してっか?」
 文筆業を営んでいるため、編集者は進捗具合を確認したいらしい。もっとも寝屋の場合俺の家に来るのは仕事三割、私情が七割だろうが。
「してる」
「どこまで進んだ?」
「中盤が終わったくらい」
 憂鬱で沈み込んでいても仕事はする。むしろ仕事をしている時間の方が落ち着いているので、進み具合は順調だ。
 大人たちの会話の傍らで、雄大はリビングにランドセルを置いたかと思うと冷蔵庫に直進した。
「雄大。手洗ってうがいしろ」
 帰って来たらまず手洗いうがいだ。それは雄大が風邪を引きやすいから徹底させていた。
 この前まで素直に聞いていたので、ここのところわざと無視するようになっていた。
 今も冷蔵庫の前で止まったままだ。開けるとまた叩かれるとでも思っているのか、取っ手を掴もうとしたままの姿勢だった。
「雄大」
 口調をきつくすると、途端に部屋の空気が悪くなる。
 またこのパターンだ。いつもいつもこうして雄大との距離が開いていく。
 溜息が殺せない。
「お行儀でも百点取れたら、とーっともいい子なのになぁ」
 助け船を出すつもりなのだろう。寝屋はにやにやしながらそんなことを言う。  俺は百点という言葉にぴんと来ずに、一体何のことかと思っていたのだが雄大は寝屋に言われたことに反応して、ぱたぱたと洗面所へと走っていった。
 寝屋の言うことなら聞くのか。
 俺の言うことは聞かなかったくせに。
 愕然とした。
 これまで築き上げてきたものが、喧嘩したとしても俺と雄大だけの繋がりがあるものだと思っていた。だがそれすら寝屋に負けるのか。
 一週間に一度会うかどうか分からない人に、劣るのか。
「あいつ百点取ったんだってな。九十八点ならともかく、百点ってなかなか取れないぞ?」
 嬉しそうな寝屋とは逆に俺は脳内が冷やされていく。
 雄大のことは俺が一番分かっている。そんなことを自負していたのに、寝屋の言っていることが分からない。
「何で?」
「ん?」
「……何で、取ったんだ?」
 我ながら悲壮な顔をしていることだろう。
 一人、馬鹿みたいに空回っていた事実に座り込んで自棄になりたい。だがみっともなくてそんなことも出来ずにいる。
「算数だって言ってたけど。おまえ、知らないのか?昨日のテストだって」
「……知らない」
 昨日雄大と何を話しただろうか。テレビを見て、雄大がはしゃいでいたのは覚えている。御飯の時に好き嫌いをしていたから怒ったのも、それから黙り込んで喋らなくなったのも。学校のことを聞いても、大して何も言ってくれなかった。
 どうして隠していたのか。
 いや、隠していたというより会話が激減してしまったのだ。雄大は自分のことを話したがらなくなった。この前までうるさいくらいに話してくれていたのに。
「何があった」
 寝屋は不意に真面目な様子でそう尋ねてくる。何もないと言ったところで通じるはずないということは、自分の状態からして明白だろう。
 しかし口にするには後ろめたくて、つい視線を逸らしてしまった。
 雄大が冷蔵庫からプリンを出しているのが見える。近所のケーキ屋にあるプリンはたっぷり卵と生クリームでとても甘い。だが雄大はそれが大好きだった。
 だからつい、喜ぶかと思って買っていた。機嫌取りのつもりだったのかも知れない。
「俺もプリン食いたい」
 深刻な空気になったところで、雄大がいる今喋るはずもないと察したのだろう。寝屋はおちゃらけた口調でそんなことを言い出した。
「ねぇよ」
「えぇ!?」
「おまえ甘いの好きじゃないだろ」
 寝屋は酒飲みの辛党だ。そのせいか甘い物はあまり好まないようだった。だから寝屋が来たとしても、俺は甘いデザートなんて出すわけがない。
 当然プリンだって雄大の分しかない。
「たまには食いたくなるんだよ。なぁ雄大一口くれよ〜」
 寝屋はプリンを丁度スプーンですくっていた雄大のところに口を開けて近寄っていく。
 しかし雄大は「だめぇ!」と全力で拒否していた。
 ほのぼのとした光景だと、数日前なら笑えたというのに。直視するのが痛くて知らぬ振りをした。



 ぎくしゃくしていた家の雰囲気は寝屋が入ったことで表面上は円滑に回っていた。
 だが俺は腹の中で不安や苛立ち、何より鬱屈したものを持っていたし、雄大も雄大で俺に対して怯えのような気遣いのような、複雑そうな目を向けてきていた。
 それにどう応じるべきなのか見当が付かない。
 解決策を見出せないまま、結局夜になって雄大は寝たようだった。
 静かになったリビングで酒を出して、ビールの缶がお互い二本以上になった頃に寝屋はしびれを斬らしたように「どうした」と尋ねてきた。
 俺はたぶんそれを待っていたのだろう。
 訊かれて少し安堵している部分があった。
「…この前から、雄大が俺の言うこと聞かなくてな」
「最近そうだって言ってなかったか?」
 以前にもちらりと寝屋には愚痴っていた。だがそれはわざと笑い話のような言い方をしたのだ。本当は深く悩み始めていたなんて、知られてしまえば寝屋が心配すると思った。
 他人に心配されるほど自分は親としての役割が出来ていないのだと痛感するのが嫌だった。
「そうなんだけど。その時、三日前なんだけどな。特に酷くて、つい……叩いたんだ」
 懺悔のようだった。
 両手を組んで、溜息と共に告げる。
 もし寝屋が神父、もしくは牧師であったのならば何と言ってくれるのだろうか。許しをくれるのだろうか。
 だがそれは逃げにしかならないのだ。
「……それは、身体が吹っ飛ぶくらい?」
「そんなわけないだろ!」
 あの子の身体が吹っ飛ぶ力なんて、そんな強さで叩けばどうなってしまうことか。
 しかし叩いた時、あの子は少し揺れたような気がする。それを思い出すと、寝屋が言ったことはそうとんでもないことではなかったのかも知れない。
「ただ、冗談じゃないぞってことが分かるレベルではあった……」
「冗談じゃなかったんだろ?」
「うん……」
 本気だった。説教をしている時はいつだって俺は本気で、誠心誠意伝えている。
 だが伝わらない。
「だったら仕方ないんじゃないか?口で言っても聞かなかったんだろ?」
「でもあの子は人に叩かれることをすごく怖がってる。あれからすごくぎくしゃくしてるんだ」
 雰囲気がおかしいことは寝屋だって入って来てすぐ気が付いたはずだ。
「もう、修繕出来ないかも知れない」
 時間が流してくれると、甘い考えを持っていた。だがそれは日に日に打ち消されては自分がしてしてまったことの重大さを思い知らせる。
「たった一回で?」
「一回でも、あの子はこれまで叩かれて来ただろうから。怖さが違うんだろう」
 麻理枝さんが亡くなった時、雄大は警察の人に虐待を疑われていた。
 多くの痣はそのまま雄大の苦痛であり、恐怖を表していることだろう。あの身体を思い出すたびに俺は引き裂かれそうな気持ちになった。
 そんな思いを雄大にさせるものかと誓っていたのに。
「雄大は、母親について何て言ってたんだ?」
 寝屋はビールの缶をもう一つ空にして、自分で冷蔵庫に取りに行った。
 そして再びソファに座った時にそう言った。ソファは片側にしかなく、俺は隣から聞こえてきた質問に記憶を探る。
 虐待されていたかも知れないというのに、雄大は母親について嫌いだとも、責める言葉一つも言わないのだ。
「雄大は、優しかったって言ったんじゃないか?」
 そうだ、あの子は泣きながらもそう言っていた。
 警察の人は悪い人だと言うけれど、ママは優しかったとはっきり告げていた。それが雄大の母に対する愛情なんだとあの時は苦しいくらいに感じた。
「体中痣だらけでも、愛されていたことがあったから。それをちゃんと雄大は覚えていた。だから警察に悪く言われた母親をかばった」
 そしてもう生きていない母親の側から離れるのを嫌がったのだ。
 側にいられないことを受け入れられないようだった。それだけ好きだった。
「おまえだって雄大を大事にしてるだろ」
「でも!俺と雄大が過ごした時間は麻理枝さんと過ごした時間とは比べものにならないくらい短いし、俺は親じゃない」
 どれだけ努力したところで、俺は雄大の父でも母でもない。それまで会ったことのない人間だったのだ。
「可愛くないか?」
「そういうことじゃない!」
 寝屋の問いに俺は怒鳴るように否定した。雄大が可愛いか可愛くないかと訊かれれば答えは決まっている。
 泣きながらも俺しか頼る術のない子が、必死になってなんとかここで暮らそうとしている様を見て来たのだ。
 守りたいという気持ちは自然に沸き上がった。
 可愛い、だからこそ俺は悩んでいるのだ。
「でも俺でいいのか分からないんだ。俺は結婚したことも、子どもを持ったこともない。それどころかそういうのは無理だって諦めて来た」
 理由は簡単であり、寝屋もよく知っているものだ。
 好きになって、恋人として付き合っている相手が男だからだ。結婚も出来なければ子どもも作れない。だから俺はすでにそれらを諦めていた。
 元々結婚に憧れも何もなかったので、そうダメージはなかったのだ。両親はもう亡くなっている上に、兄には雄大がいて、我が家の血筋も続いていくから、と他人事のように思っていた。
「だから、何も分からないんだ。覚悟もなかったし……それなのにちゃんと育てられるかどうか、自信なんてないよ」
 雄大は他に行く場がない。だから俺が引き取って育てるしかない。
 それは人道的な理由であり、すでに決定されていることでもあった。俺は承諾するしかなかったのだ。
 いきなり激変した生活。まだまだ手のかかる子どもにどう接して良いのかも最初は迷いばかりだった。それでもなんとか馴染もうと、育てようと努力してきた。
 だがどこかで無理があったのも自覚している。
 それでも負担だなんて、無理かも知れないなんて言ってはいけないと思った。それを雄大が感じればきっと傷付くと思ったからだ。居場所がなくなるように思ってしまうと思った。少なくとも自分だったらそう悩む。
 だが追い詰められれば、抱え込んでいる無理を吐き出せなければ本当に、逃げてしまいそうだった。雄大にも分かる形で不安が露呈してしまいそうだった。
「自信がある奴なんていねぇよ」
 寝屋は俺の弱音を吹き飛ばそうとしているかのように、力強く返してくれる。
 それが有り難くもあり、突き刺さるようでもあった。
「でも俺は……誰かを一人前に育てられるような人間じゃないよ。適当に生きてきた、ろくでなしだ」
 俺の中に何があるのか。
 自分でも分からない。次の世代に伝えられることなんて、大切なものを教えられるほどの価値があるなんて、俺は自分に対しては思えない。
 ただ自分が好きなように、思う通りにだけ生きてきた。周りと衝突し、衝突が面倒になれば退散し、ただ楽に楽に生きようとしてきた。
 そんな生き方はろくでもない。もっと真面目に生きなければいけない。雄大には俺のようにはなって欲しくない。
 それなのに俺は、ちゃんとした生き方を知らないくせに、それを教えられるのか。
 俯いて顔を覆い、自分の何もかもを呪いたくなった。



NEXT 





TOP