たなごころ   1




  ぱしんという軽さを超えてしまった音が、耳の奥で響いた。
 自分で生み出した音だというのに、俺はびっくりして固まってしまう。まして叩かれた雄大に至っては信じられないというような顔をしていた。
 泣き出すこともなく凍り付いたその様に、喉が締め付けられるように言葉が出なくなった。
 やって、しまった。
 そう思った。
 怒りにまかせて、我慢出来ずに手を出してしまった。
 これまで力に訴えるようなことはしないでおこうと決めていたのだ。雄大は叩かれることに敏感で、きっと酷く怖がるだろうからと。
 だがその理性を打ち砕くほど、この所の雄大は人が嫌がることばかり行うのだ。
 まるで俺をわざと怒らせようとしているようだった。
 謝ろうかと、唇が動いた。
 だが雄大がしたことは、やっちゃいけないと何度も言ったことだ。二度として欲しくない。
 だからこそきつい姿勢で言い聞かせたかった。
 謝れば、自分がこれまで叱ってきたことが無駄になってしまいそうで抵抗がある。
 雄大は大きな瞳で俺を見上げている。
「な…、なんで捨てたんだ?やったら駄目だろ?」
 俺が作った晩ご飯の中にあったニンジンを雄大は嫌がった。
 食べなさい、一個でも良いからと言うのに聞かず、最後には手で持って壁に投げつけたのだ。
 それにぷつりと俺は切れてしまった。
 食べ物を粗末にするべきではない、というのは子どもの頃から俺が教育されてきたことだ。雄大にもそれを分かって欲しかった。
 まして今日が初めてではないのだ。
 叱ると雄大が明らかにひくりと身体を強張らせた。
 恐怖に違いないその反応。そしてみるみる瞳に涙が溜まっていった。
「御飯を投げるなんて、駄目だって何度も言っただろ?」
 怒鳴りつけそうだった勢いはもはやない。叩いてしまった罪悪感に押し潰れそうになりながら俺は説教をしていた。
 出来ればごめんな、と言いながら雄大を抱き締めて泣き止んで欲しい。
 けれどそれでは雄大の将来のためにならない。
「雄大」
 何か応じて欲しいと願った俺の気持ちとは正反対に、雄大は声を上げて泣き始めた。
 弾けるような、悲鳴のような泣き声。
 いつ聞いても憂鬱になる。
 そして今日は何故かしゃがみ込んでばたばたと両手を大きく上下に動かしてだだをこねる。
 もはや自分の気持ちを表現出来ずに混乱しているかのようだ。
「落ち着け雄大」
 ぎゃあぎゃあと動物の鳴き声のようになっている泣き声、そして荒々しい呼吸と行動に心配になって手を伸ばすと、雄大はそれを避けて逃げていった。
「雄大っ」
 小さな身体はリビングの端に走っていっては、そこにあった大きなクッションにしがみついた。
 そしてそれを持ってソファと壁の間にすっぽり隠れてしまった。丁寧にクッションを自分の前で抱えて、姿が見えないようにしている。
 泣いていても、伸ばした手から逃げることはなかったのに。叩いたせいで、雄大は俺に触れられるのが怖くなってしまったのだろう。
 抱き締める事を拒絶された衝撃に、手が震えそうになった。
 だが仕方がない。
 自分がやってしまったことだから。
 声量が落ちない雄大に、これでいいのかという疑問がわき上がってくるけれど。もう撤回するにも遅い。
「泣いてないで御飯食べろ。夜遅くにおなか空いたって言ってもおやつは出さないぞ」
 ここのところ晩ご飯に一悶着あり、食事を途中で止めることがある。そうすると雄大は夜遅くになって、おなかが空いたと言い出すのだ。
 泣いて食べ物を要求るので、飢えさせるのが忍びなくて軽くおやつ程度のものを上げていたのだが。良くない習慣として改めようとしていたのだ。
 その矢先にこれだ。
「やだぁ!いやあ!!」
 部屋の隅から聞こえてくる抗議。
 何をしても、何を言っても、嫌だ嫌だの嵐だ。頭を抱えてしまう。
 正直限界だと音を上げたかった。
 どうにかしてくれと誰かに頼みたいくらいだ。けれど頼む先なんてあるはずがない。
 二親であったのなら、母親と相談するところだが。俺は父親でもないし、雄大に両親はいない。親戚も遠く、頼れるような間柄は見当たらないのだ。
 ずっと雄大と二人向き合っている。
 だからこそ逃げ場のない、追い詰められたような感覚になるのだろうか。
 手を上げたのも、その切羽詰まった心境のせいだろう。
 雄大を叩いていたと思われる麻理枝さんもこんな気持ちだったのだろうか。
「もう御飯下げるからな!後で言っても出さないからな!」
 そう宣言して、テーブルに並べてあった皿を流しに運ぶ。
 雄大はそれを責めるようにして泣き声を大きくしている。
 分かって欲しいという意志表示なのだろうか。だがそれを訴えたいのはこちらの方だ。
 少しは聞いて欲しい。今後生きていくために必要なのは俺が言っていることの方だ。雄大のためを思って、しつけているというのに。どうして聞いてくれない。
 苛立ちと、そしてあの子にまた傷を作ってしまったのではないかという不安が膨らんでいく。
 とんでもない過ちを犯してしまったのだろうか。
 だが俺が子どもの頃だってあんなの許されなかったし、一回目で殴られてた。でも雄大は叩かれ続けてきたからそれが怖くて、手を出したことは間違っていたのかも知れない、でも手を出させたのは雄大。もっと早く言うことを聞いてくれたなら。
 ぐるぐると言い訳が頭の中を巡っていく。
 がちゃがちゃとわざとらしいまでに食器がぶつかる音を立ててしまう。
 どうすればいいのだろう。
 雄大との関係が完璧に上手くいっているとは思っていない。だが間違っているとも思えない。
 それは勘違いなのだろうか。
「はあ……」
 蛇口から流れる水を睨み付ける。
 自分がヒステリーを起こす日が来るなんて、そういう衝動とは無縁だと思っていたのに、ショックだ。
 雄大は声を上げて泣くのに疲れたのか、ひくっひくっと嗚咽を零している。
 小さな子がそうして小さくなって、隠れて泣いている状況は痛ましい。
 しかしそれを作ったのは自分だ。
「泣きたいのは俺の方だよ……」
 微かな呟きは水に掻き消されていく。けれど俺の中には降り積もっていくようだった。



 それから雄大とはぎくしゃくした関係になった。
 子どもは叱られても、次の日になればけろりとしているものだと、これまで思ってきたし雄大は数時間経てば何事もなかったかのように俺に話しかけてきた。
 だからこの時も明日になればきっと大丈夫だろうと思っていた。
 そう思いたかったというのもあるだろう。
 けれど現実はそんな理想を壊し、雄大はあの日から俺の挙動を窺うようになった。
 まるでいつ叩かれるのだろうと怯えているようだった。
 そんなに辛かったのかと、俺も反省したのだが。雄大はこちらを気にするくせに俺の言うことは相変わらず聞かないままなのだ。
 嫌だ、を繰り返す。
 叩かれたくないのに、どうして素直にはいと言わないのか。俺には理解出来ない。
 意地になっているかのようだ。
 俺だっていつも怒っているわけではない。むしろ怒りたくないのだ。だが雄大が反抗してばかりなら、俺だって叱らなきゃいけなくなる。
 さすがに手を出すことはないけれど。随分きつい口調も出てしまう。
 雄大の我が儘を何でも頷いて、思い通りにさせてやることは出来ないのだ。あの子も小学生で、学校でも同じように振る舞えるわけではない。家庭から我慢というものを学ばせなければいけない。
 だから何度も、噛み砕くように何故悪いのかということも説明して、雄大に教えてきた。
 それでも通用しないのだ。俺はどうすればいい。
「はあ……」
 そのところ溜息ばかりついている。
 その溜息にすら責められていると感じるのか、雄大は居心地が悪そうな顔をする。この関係が気まずいということを、幼くともしっかり感じ取っているのだ。
「なんでだよ」
 この状態が良くないと分かりながらも雄大が我を通すのはどうしてだろうか。何も自分の利にならないと分かっているはずなのに。どんな感情がそうさせているのか。
 理性的に考えても分かるはずがない。そもそも大人の感覚で計れるものなのだろうか。
 子どもの頃の自分がどうだったかなんて、とうに忘れ去ってしまっていて。雄大との距離が酷く遠い。
「間違ってんのかな……俺」
 自信なんて初めからなかった。だから一つ躓くと、全部が駄目になってしまいそうで怖い。
 そんな恐怖を抱えて、すでに三日も過ぎている。
 そろそろ精神的にも参ってしまいそうなのだが、生憎誰にも話すことが出来ずにいた。
 周囲には結婚した友人はいても子持ちは少なく。唯一の子持ちはまだ二歳児だ。
 雄大はもう八歳。同列に並べるにはかなりの無理があるだろう。
 ネットで色々調べてもそれが雄大に当てはまるかどうか、特殊な育ちをしてしまったあの子に役立つか、判断しかねた。
 あの子のトラウマが分かるのは、あの子だけ。
 他人はただ想い描いて同情することくらいしか出来ない。
「……ようやく身構えなくなってきたと思ったのに」
 俺の存在も認めてくれて、屈託もなく喋ってくれる。スキンシップを求めてくれる。懐いてくれてきているかなと希望を持ち始めた矢先だ。
 また振り出しに戻ってしまったのだろうか。
 いや、もしくは出逢った時より悪い位置にいるのかも知れない。
「やっぱり俺にはハードル高すぎるんだよ」
 自分のことだってまともにやっていけているかどうかも分からないのに、子育てなんて満足に出来るわけがないのだ。
『甘ったれ』
 そう笑って言った寝屋の顔が思い浮かぶ。
 何もかも投げ出して泣きついてしまいたいくらいだ。
 だがその先にあるのはただの悲惨な現実だろう。
 テレビを付けると流れてくる虐待の一つにはならない。雄大に対してだけでなく、子どもに対して、いや大人に対してだってあんな風に残酷にはなれない。だが雄大を叩いた手は無意識に近かった。
 ニュースの中で名前が呼ばれた親たちも、無意識の動きから始まったとすれば。もしかして、なんていう恐ろしさが生まれてくる。
「どうすりゃいいんだよ」
 接し方がもう、分からない。
 頭を抱えていると、鍵ががちゃがちゃと開けられる音がした。
 雄大はまだ小さいので鍵を持たせていない。俺が家にいることが圧倒に多いせいもある。鍵がなくともインターフォンを鳴らすなりドアを叩くなりすれば俺がすぐに開けるからだ。
 なので鍵を勝手に開けられるならば、それは一人しかいない。
「……寝屋に、話してみるか」
 子育てについてはきっと知識も経験もないので解決策を持っているとは思えないけれど。自分の気持ちが落ち着くかも知れない。
 なので少しほっとしながら玄関に向かうと、そこにあったのは満面の笑みで寝屋に話しかけている雄大の姿だった。
 久しぶりに見る、あんな嬉しそうな表情。何の抵抗もなく見つめている瞳。
 それは少し前まで俺にも向けられていたものであるはずなのに。失われてしまったかのように、とても鮮やかに見えた。
 まるで殴りつけられたような痛みが、一斉に襲いかかってきて言葉もなかった。



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