四章   7




 伝言鳥を飛ばしてから一日で、ラルは帰還した。
 いつも通りジェダを従えて部屋に入ってきてはからりと微笑んで「ただいま」と言う。
 クオンは血が飛んでしまったテーブルクロスを綺麗に洗い、広すぎる庭に干していた時だった。
 降り注ぐ陽光の下で、ラルの髪は一層鮮やかに見えた。
 まるで一切の陰りを退けるようだ。
 しかしその明るさは、今のクオンには痛い。
 自然と視線を逸らしてしまった。
「お早いお帰りですね」
「会議自体はほとんど終わっていたようなものだからね。連絡を貰ってすぐ帰って来た。途中で馬を何頭か乗り継いでね」
 走れなくなれば現地で馬を調達して、一刻も早く帰って来たというところだろう。
 自分が奥に秘めている場所が襲撃されたのだ。のほほんとしているのもおかしなことだろう。
「誰の謀略であるのかはすでに突き止めてある。この後処分を下してくるよ」
 ラルはまだ帰って来たばかりだというのに、すでに誰の手であるのか知っているらしい。
 恐らく昨日ネフィが寝ずに動いたのだろう。
 アクマリィズの周囲の者もきっと力を貸したはずだ。自分の姫君が良い道具として弄ばれたのだ。黙っているはずがない。
「死ぬより辛い目に遭わせてやろう」
「それは」
「マリには十分な警護を付けるようにしておくよ。侍女たちの調査もさせて、いっそごく一部の者を覗いて一新させるのもいいだろう」
 今回の件を謀った者には、死ぬより辛い目を。と告げるラルを止めようとした。
 クオンがいる限り心乱される者はいるだろう。それはこの国に生きている者全てに通じる気持ちなのだ。
 原因になってしまっているクオンがここで安穏と暮らしてしまっているのに、心乱された者だけが過酷な仕打ちを受けるのは哀れである気がした。
 彼らだけが悪いのではない。クオンがいることだって罪の種なのだ。
 しかしラルは耳を傾けない。
 顔を上げてクオンが口を開くのに、笑顔でそれを押し返すのだ。
 取り付く島を与えない。
「あの親子の周囲には警戒をさせる。その他が人質になっていた場合は気にせず切り捨てろと言ってあるから」
 ラルはアクマリィズの兄弟、母以外には気を配るつもりはないらしい。
 命を捨てても何も感じないのだろう。
 そしてラルがこう決断を下した以上、ネフィは素直に従うことだろう。
 ならば自分の目が届かない場所で、自分のせいで死ぬかも知れない人間がいるかも知れないのだ。
 その事実がクオンの目の前を暗く塗り潰していくようだった。
 分からない内に、また死体を作るのか。
 ネフィが、自分と同じ国に生きる民を殺しているのか。
(それは禁じるべきことではないのか)
 敵国だった国核のために自国の民が殺し合いをしているになんて。忌避すべきことではないのか。
「君の安全が優先されるからね」
 ラルはクオンの気持ちとは懸け離れたことを口にしている。
 日の光を浴びて、それが正しいことなのだと信じているようだ。
「私は国核です。人には殺されません」
 そんなことはお互いよく分かっているではないか。
 戦場でいくつもの戦いを重ねてきたはずだというのに、二人は向き合うまでほとんど無傷だった。
 ただの人間には傷付けられることはなかった。
 だからこそ国核は国核同士で殺し合うのだ。
 ラルも国核だからこそ人とは比べものにならない自分の力を知っているはずだ。
「人よりよほど丈夫であることは知っているよ。傷の治りも、国核だからこそ、これほど早かった」
 二人の傷は。人であるのならばまだベッドで寝ていなければならないものだった。
 もしかすると神経に損傷が残って、以前のように生活を営めないかも知れないほどだった。
 けれどすでに国核は以前の力を取り戻している。
 人間であるのならば有り得ない早さだ。
「ただの人間に命を落とされることはない」
 ラルは相貌を柔らかなものに変えた。
 安堵に見えるそれにクオンはラルの過去を思い出す。
(この人は母親を殺されているのだ)
 もしかするとクオンが襲撃されたと聞いて、自分の母親が死んだ時のことを思い出したかも知れない。
 まだ幼かったであろうラルにとって母親が人に殺されたという事実は重く、苦しいものであっただろう。
(恐れ、なんだろうか)
 近しい者が殺される。そんな単純な、誰もが抱くだろうその恐れをラルは強く持っているのだろうか。
 当たり前であろう恐怖をラルにもあると言われると、何故か鮮烈な感じられる。
 この男が常に自分とは異なる感覚で生きていると思ってるせいだろうか。
「君が国核で良かった」
 ぐさりと、声が刺さる。
 クオンが襲撃者の首に深々と刺したナイフのように、それは鋭く埋め込まれる。
 一拍おいて、鮮血が飛び散るように痛みが吹き出してくる。
「貴方は……」
 人に殺されないから。
 だから国核で良かっただなんて。
 痛みと共に激情が渦を巻く。
「国核だからこそこんなことになっているのに」
 自分が国核でなければ。そう願ったことは数え切れない。
 口には出さないで思いながらもそれはいつだって心の中にあったのだ。
 そしてクオンを縛り付けていた。
 自分が国核であることは生まれた時から決まっていたようなもので、周囲もそれを良しとしている。それで安堵している。だからこれが正しいのだと。
 そう言い聞かせて生きてきて。そのままの気持ちを保つべきだった。
 けれどいつだって揺れていた。ここに来てからは国核でいることが罪悪以外の何でもないと痛感していた。
 安堵されていた以上の不安を周囲の人たちに感じさせているのだ。
 なのにラルはそれが良いと言うのか。
「ここにケイガの国核などがいるから人々は惑わされて、こんな過ちを犯すのでしょう!」
 クオンがいなければ、いっそ死んでいれば誰もが道を探し始めていた。
 迷いながらも新しい方向を見付けようとしただろう。
 少なくともエルベリルの民はクオンに向かって剣を握ることなんてなかったはずだ。
 憎悪に掻き立てられることなんてなかった。
「こんなことを引き起こしたのは私です!私という存在です!」
 クオンがどんな生き方をし、どんなことを考えているかなんてエルベリルの民たちには関係がない。
 戦争をした相手が、自分たちと同じ民を殺した相手がそこに生きている。
 それだけが現実としてあるのだ。
 殺してやりたいと思う気持ちをクオンは止めようとは思えない。それは自然に沸くものだろう。
 大切なものを奪われた者が、奪った相手に復讐を願うのは人としてのサガに近い。
「私がいる限り今回のようなことは消えない」
 次から次に復讐がしたいと願い者は出るだろう。
 ラルがどれだけ警戒したとしても、どうにかその目をかいくぐろうとする。
 そしてもしそれを抜けてクオンの前まで来たとするならば。
(私はまた殺さなければならない)
 もしクオンが死ねばラルがケイガの民を皆殺しにするからだ。
 クオンは自分を守るためではなく、遠く離れてしまった自分の民を守るためにエルベリルの民を殺すのだ。
 戦でそうしたように。
「私はここにいるべきではない」
 存在するだけで殺意を掻き立てる者など。あるべきではないのだ。
 それをラルだけは理解しようとしていない。
 認めない。
「君はここにいるべきだよ」
 殺された者がいるというのに、ラルは笑みを浮かべたままそう口にする。
 あまりにも迷いのない様にクオンの痛みがまた強くなった。
「貴方は自分の民が殺されていくのをただ見ていると言うのですか!」
 民を守るべき国核ではないのか。
 国を支えて、その腕に包み抱くのが国核ではないのか。
 何故ラルはそれを放棄するようなことを言うのだ。国核として国を背負っているのに何故国核としての役割から目をそらすのだ。
 民は自分の血、身体の一部。そうは教えられなかったか。そうは感じられないか。
 おざなりにして良いはずがないと思えないのか。
 ラルの態度はクオンにとって傲慢で、稚拙にしか見えない。
「戦をする時から分かっていた」
 クオンの怒りを真っ向から受け止めながら、それでもラルは表情すら変えない。
「こうなるだろうことは、ずっと前から分かっていたよ」
 すでに分かり切っていたことであり、わざわざ言うようなことではない。
 ラルはそんな言い方だった。
 ぞっとするような台詞に、クオンは拳を握った。
(この人は全て、全て分かっているんだ)
 本人が言う通り、理解した上でクオンを置いているのだ。
 民を煽ることになる、死人も出続ける。憎しみの連鎖も止まることはない。
 それでもクオンを離すつもりはない。頭の中で想像した予想通りの流れであるから衝撃もない。
 たった一人だけ、悠然としている。
「貴方はそれでも国核か……!」
 怒りと悔しさ、そして蔑みを込めてクオンき吐き捨てた。
 誰より国と民のことを考えて、己の欲など捨てて暮らすべきであろう国核が。自分の願いのためだけに民を犠牲にするのか。
 多くの命を無造作に踏みにじるのか。
 ジャスパーという男がクオンに罵声浴びせ、自分の喪失感と憤怒を表しただろうに。あんなにも痛烈に見せつけたはずなのに。ラルは何とも思わないのか。
 憐憫の情はないのか。
「国核だよ」
 ラルは叱責するクオンに平然と答えた。
 そしてその笑みに僅かな苦みをふわりと混ぜる。
「でなければ僕はとっくにここからいなくなっている」
 国核でなければ、ここにはいない。ラルがそう嗤う。
「とうに君のものになっている」
 どくりと鳴ったクオンの心臓は、まるでそれに同意しているようだった。
 怒りも痛みも根こそぎ奪われてしまい、今自分の中に一体何が残ったのかすら分からない。
 そうやって欠片も残らずラルが喰らい尽くすのだろうと、空っぽになった身体が無音で呟いた。







TOP