三章 8 気怠い身体を起こし、目を擦った。 短い睡眠時間は視界を微かに歪ませている。 だが瞬きを繰り返すと鮮明に朝日が差し込んでくる。 何も纏わない裸体でいるのが落ち着かず、ベッドの端に落ちている服を手に取った。 それだけの動作を億劫に感じる。 まだ身体の節々がきしんでいるような錯覚を覚えるほどだ。 クオンよりも先にラルはすでに起きており、脱ぎ散らかしたままだった服を着込んでいるとろこだった。 白い布は目に眩しい。 金糸で模様が描かれており、鮮やかなその様はラルの整った容姿によく似合っている。 華美なくらいが丁度良いのだ。 クオンとは違う。 ぼんやりと着替えを眺めていると、下ろしたままだった金色の長い髪を結いながら「面倒」とラルが呟いた。 これからまた会議があることだろう。 まだケイガはここに留まっており、条約の煮詰めがあるはずだ。 (いつまであの子はここにいるのだろう) そう思ったがラルに尋ねるような愚行はしない。 訊いたところでどうなるものでもない。もう一度会わせてくれるような情けは、きっとラルは持ち合わせていない。 それに繰り返し会えば会うほど、クオンは苦しくなる。 (切ないばかりだ) きっとセキエもそう感じる。ならばもう願わない方が良い。 クオンはゆったりとした動きで服を纏った。 すでに着替えを終えたラルが振り返ってはクオンに手を伸ばしてきた。 ボタンを留めようとしていたクオンより早く、それを成していく。 まるで子どもの扱いだ。 (国核がそんなことをするべきじゃない……) 人の世話を焼くなんて国核のすることではない。 だがそう言ったところ、別に国核でいたいわけではないからいいんだとラルは言っていた。 人が国核という地位にどれほど焦がれ、喉から手が出るほど欲しているのかなんてラルには関係がないのだ。きっと興味もない。 自分はそうである。他人はそうではない。 たぶんその程度の認識だ。 「……子どもではありません」 一人で何でも出来るようにと幼い頃から躾られていたクオンは、そんなラルの態度に居心地が悪くなる。 決して甘えるわけにはいかない相手であり、状況だ。 それでもラルは際限なくクオンに情を注ごうとしてくる。 今も不服そうに告げたのに、ラルは微かに笑った。 こんな光景をどこかで見たことがある。遠い昔、どこかで。 (ああ……父上とセキエだ) まだセキエが小さい頃、上手くボタンをはめられぬ様を見て父が手伝ったのだ。 一人で出来ると言ったセキエは膨れっ面で、でもその顔が愛おしいのだと言うように父は微笑んでいた。 (全然似ていないというのに) ラルと父は全く似ていない。 父は優しい人だったが喋ることは少なく、いつも大きな掌からそのぬくもりを貰っているような気持ちになった。 大きな樹木のような、クオンにとっては見上げるばかりの存在だ。 それ以前に、自分を抱いている相手に父を重ねるなんて異様な感覚だ。 (どこまで私はおかしくなっているのか) ラルを見ていられなくて、視線を手元に落とす。 だが込み上げる懐かしさはそう簡単に消えない。昨日セキエと離れた後もそうだった。 自分が抜け殻になってしまったような思いだった。 「ラル」 ふと思い出したことがあり、クオンは名を呼んだ。 あまり呼ぶことのない名前であるせいか、ラルはそう口にすると微笑みながら自分を見てくる。 「何?」 柔和な声。 昨夜の甘さがそのまま漂ってくるようで気まずい。 「一つ、頼みたいことがあるのですが」 「うん」 ボタンを留め終わったラルがクオンの髪を撫でる。 クオンの方が年上であるというのにこの扱いは何だろうか。 「本を一冊渡して欲しいのです」 落ちた視線を上げてラルを見ると不思議そうな眼差しが見えた。 「本?」 「はい。絵本なのですが」 すでに大きくなった妹に絵本を渡すなんて変に思うだろう。 だが今クオンがセキエにしてやれることなどこれくらいしかない。 昨日絵本を読んだ後セキエは嬉しそうにクオンを見てきた。 ぐっと大人びたその表情に、妹はもう大人になっていたのだと当たり前のことを実感した。 あの笑みをどうか忘れて欲しくない。 「ああ、あの本か」 ラルは絵本と言われてどれのことか分かったらしい。 ネフィから、クオンとセキエの会話を聞いているのだろう。 ここで何をしているのか、ラルはネフィを通して把握している。 それは捕らわれているクオンが甘んじている状況だった。 秘めていられることなど何一つないのだ。 「渡したいの?」 ラルの目が眇められる。 昨夜のような不機嫌さがまた頭をもたげたようだった。 クオンがケイガに対して何かしようとすること自体が気に入らないのだろう。 きっとそう感じるという覚悟はしていたので、ラルの表情に怖じ気づくことはない。通るか通らないか、きっと確立は半分だと計っていた。 「問題になるような物ではないと思うのですが」 エルベリルから出ていったところで今後支障が出るような本ではないはずだ。 もちろんケイガに渡ったところで何か大きな問題に発展するとも思えない。 ただ単純にラルがそれを許すかどうかだけのことだ。 自分に対する異常なまでの執着を知っているだけに、クオンは強く出るわけにはいかない。 この後会うであろう妹たちに八つ当たりをされても嫌だ。 「……まあ、いいか」 ラルはしばらく悩んだ後、そう判断を下した。 気にくわないようだったが頑なに拒絶するほどのことでもないと思ったのだろう。 「渡すのはいいけど。向こうから何か受け取るということは駄目だ。それは認められない」 ラルはクオンに言い聞かせるように言った。 それはとうに見当が付いていることだった。 この部屋にはケイガにまつわる物は一つもない。 セキエも手紙を送ったと言っていたが一通も届かない。それはラルがクオンの元に来る前に処分しているからだ。 ケイガから遮断しようとしているのだろう。 クオン自身がケイガそのものだというのに。 (この人はどう足掻いてもそれが叶わないということは分かっているのだろうか) クオンからケイガを離そうと思うのなら殺すしかないのだと、理解しているだろうか。 「それで、あの絵本はケイガではどんな結末なんだい?」 ラルは不機嫌さを納め、クオンにそう問いかけてきた。 無邪気とも聞こえる言葉にケイガは随分鮮明にネフィから情報を得ているものだと変な感心をしてしまった。 「お姫様は泡になって消えてしまうんです。そこで終わります」 恋い慕った王子様と結ばれるわけでもなく。自分の願いを貫いた結果がそれだった。 子どもながらに上手くいかないものだと思ったものだ。 物語だというのに奇妙なまでに現実の儚さが現れている。 妹もあの本を読むと納得いかないとばかりに文句を言ってきた。それでも何度も読んでくれというのだから、不可思議なものだった。 「それはまた、悲劇だね」 違う結末で育ってきたであろうラルは、その結末に興味深そうに言った。 悲劇。確かにそうなのだろう。 (ひたすらに誰かを思うことは、悲しいものだとかつては思った) 好きになるということは、悲しい終わりを覚悟しなければならないものなのだと、幼い心は思っていた。 ただ素直に人を好きになることは素晴らしいなんて、思えなかった。 その頃にはもうクオンの中には金色が刻まれていたからかも知れない。 「健気すぎて気味が悪い」 さらりと、だが絵本の中にお姫様の愚かさを嘲るようにしてラルは告げる。 何の揺るぎもない、強さを保持している人間の傲慢さがそこには如実に滲んでいた。 「貴方にとってはそうでしょうね」 ラルの言葉に神経が逆撫でされるのを感じながら、クオンは突き放すように言った。 強い人には分からない。迷わない人には分からないのだ。 ただ思いを抱き続けるだけでも構わないと願う、弱い心が。 「男一人くらい、自分のところに引きずり込めばいいだろ」 ラルはお姫様の苦悩自体馬鹿馬鹿しいと言うように肩をすくめた。 どうして自分が王子の元に行かなければならないのか。まずそこからしてラルは浅はかだと言わんばかりだ。 相手の元に行くのではない、相手を自分の所に持ってくる。 そう平然と言うラルはまるでそれを成した者のようだった。 「さあ、食事にしよう」 そう軽く言ってラルはクオンに口付けた。 部屋を明るく照らす日の光があるというのに、海の底があるかのような錯覚に捕らわれ、クオンは深く息を吐いた。 |