敬語 二人でテレビを見ていた。 俺は本を読む集中力もなく。だからといって寝るという気分でもなかったので、史浩の隣でぼーっとしていた。 たまにはこうして何もせずにいるのもいいかと思ったのだ。 目が疲れているので、あまりテレビは凝視せず、時々まぶたを閉じていた。 抗菌目薬をさすと喉の辺りに苦みが広がるのが、俺の気分を更に微妙にさせていた。 目と鼻と口が中で繋がっているというのは本当なのだなと思ってしまう。 しかし、食品の苦みとは違うからとてもまずい。 「エドはるみって、結構美人だよね」 「そうですね」 史浩が話しかけてきて、俺は無意識の内に返事をした。少し違和感があったけれど、言い直すのも面倒でそのままにしておく。 史浩も、ん?という顔をするが疑問を口にしてはこない。 「俺エドはるみが流行始めてから、ing系の言葉を聞くとどうしても顔が浮かぶんだよ」 「俺もそうですよ」 二度目はさすがに無視出来なかった。 俺はなんで敬語使ってるんだ。 相手は史浩だろうに。なんでこんな言い方を。 てか意識して口に出したわけじゃない。気を抜いたらそう言ってしまったんだ。 無視出来なかったのは史浩も同じようで、とうとう「どうしたの?」と訊かれてしまった。 「なんで敬語?」 「無意識だよ。職場の空気を吹っ切れてないらしい」 職場ではずっと敬語だから、無意識の内でも敬語を使うようになっているようだ。 乱暴な言葉遣いをするよりずっとましだけれど、家庭内でも敬語というのは奇妙だろう。 「意識の切り替えがちゃんと出来てないらしい」 「ようちゃん疲れてるね」 史浩が気の毒そうに俺を見た。 常時仕事モードなんて、そんな仕事人間みたいなことにはなりたくない。 俺は溜息をついて、全身の力を抜いた。もう帰宅したんだと頭の中に訴える。 「可哀想に。俺が肩もんであげる」 そう言って史浩は俺の背後に回る。そして肩に手を置いて、適度な力でもみほぐしてくれる。 「肩凝ってるねぇ〜」 「まあ、持病なん」 ですよ、と言いかけて俺は止まる。 それに気が付いたのか、史浩がくすくす笑った。 「俺は敬語でもいいと思うよ?なんか新鮮」 「嫌だ。公私混同は俺の主義に反する」 仕事は仕事。プライベートはプライベートできっちり分けなければ。その境界線が曖昧になると、ろくなことがない。 「それって仕事にプライベートを持ち込む人間に言われるべき台詞だと思うけど?」 ようちゃんって逆じゃない?と言われても俺は言ったことを覆さなかった。 だって家でも敬語なんて、堅苦しい。 「大体敬語を使うべきなのはおまえだろう。俺より年下なんだから。たまには俺を敬え」 「俺はいつだってようちゃんを敬ってますよ〜」 史浩はそう言いながら笑っていた。そんな軽い言い方の敬語のどこが敬っているというのか。 「人をちゃん付けしてる時点で敬ってはないだろ」 「じゃあよう様?」 「冬ソナみたいで激しく嫌だ」 少し前に流行っていた人を思い出してしまう。マフラーが非常に特徴なあの人が頭に浮かんだ。 「ようちゃんはようちゃんが一番似合ってるんだもん。いいじゃない。この呼び方でも俺はいつだってようちゃんを敬ってるし、大切にしてるよ」 大切にしてもらっていることぐらい、いくら俺でも分かっている。 「それは、もう知ってると思うけど?」 「知ってますよ」 史浩の囁きに俺は素直に答えた。 そしたらまた敬語になって、俺は頭を抱えてしまう。今日は本気で諦めたほうがいいかも知れない。 凹む俺とは反対に、史浩は楽しげに俺の首に腕を回して抱き付いてきては笑っていた。 目玉のおやじ汁 「これを見ろ」 俺は帰宅してスーツも脱がずに、鞄の中からそれを取り出した。 史浩はきょとんとした顔を見せた。無理もないだろう。帰ってきたばっかりなのに何をするつもりなのかと思っているはずだ。 だが俺が取り出した物を見ると「おおお!」と史浩も大きく反応した。 こいつ、驚いたりするとちゃんと男の反応見せるんだよな。やっぱりオカマはキャラ作りだなと変なところを再確認してしまった。 「おやじ汁だ!俺これテレビで見た!」 「俺も見たよ」 「どしたの!?」 史浩は目玉のおやじ汁を手にとってまじまじと見ている。俺も最初はそうやって確認したものだ。 「岡山に行った人から土産で貰った」 「わざわざ?」 大体旅行に行った人の土産なんて、会社の同じ部署の人たち向けに箱入り菓子一つくらいだろう。個別に持って帰るなんて珍しい。 史浩もその辺りは気が付いたようだった。 「ホントはみんな一緒くたのお菓子だったんだけど、その人が旅行先の売店でこんなのあったって写メ見せてくれたんだよ。で、俺がすごく食い付いたから今日持って来てくれた」 あんまり物事に食い付かない方だという自覚がある。だが俺の関心をどツボに引いてくれた物には大袈裟なくらいリアクションをしてしまうのだ。 職場の人間にとってはそれが新鮮に見えるのか。 今日おやじ汁を持ってきてくれた。 「へー。すごいな。あ、ちゃんとプロダクションの承諾を得てるって書いてる」 史浩は文字を目で追っていた。 「ねずみ男汁もあったぞ」 「それは微妙だねぇ。俺は目玉おやじの方がいいかな」 それは俺も同意だ。なんとなく目玉おやじの方が清潔感がある。いつも風呂に入っているからだろうか。 「ね、これどんな味なんだろう。ゆずはちみつ味ってあるけど。普通のとはやっぱ違うのかな?」 「さあな」 「飲みたい!開けようよ!」 「……なんか勿体なくないか?俺が貧乏性なせいか?」 こういう珍しいものはなんだか飾っていたくなる。俺だけだろうか。 史浩は「中身なくなってから飾ればいいじゃないの!」とオカマになって言ってきた。 完全に面白がっている。 言っていることはもっともなことなので、俺は頷いてプルトップをあけた。 缶に口を付けて傾ける。中に液体が入ってくると、それがどんなものなのか確かめてしまう。 ゆずの香りがふわっと口内に広がり、その後は淡い蜂蜜の優しい味がした。 「……普通だ」 何の変哲もない、ゆずはちみつのドリンクだ。反応がし辛いほど平凡な味だった。 史浩に渡すと、すぐに飲んで俺と同じように「…普通だね」と非常に薄いリアクションをしてくれた。 「まずくても嫌だけどな」 「でもまずい方がまだ盛り上がったかも。ポーションみたいに」 その単語にああ、と俺は懐かしい記憶を呼び覚ます。飲み物としてあってはならない色をした、あの飲料水な。 「すごく普通よねぇ。話題にするのも微妙なくらい味が普通だわ」 史浩はしみじみと語っている。 頬に手を当ててマダム気取りまでしているから、多少気持ち悪い。 「見た目が売りだから、いいんじゃないか?」 「あ、これ目玉おやじのおわんにゆず浮かんでる」 史浩が余計なことに気が付いたらしい。俺も缶のパッケージを確認して、確かにゆずが二個入っているのが分かった。 「なんだろう、今このゆずはちみつの味が多少変化したような気がする」 もしかして目玉おやじが使っているこの湯の味か?と想像しただけで、何とも言えない気持ちになった。 「汁だしねぇ。汁。なんか汁ってそれだけで異様な感じよね。汁」 「連呼すんなよ。もう残り全部飲んでいいぞ」 なんとなくもう飲む気をそがれたので史浩に押し付ける。 もうネタ物の披露は終わったから、スーツ脱いで楽になるか。それにしても口の中が甘い。はちみつは甘さがいつまでも残るんだよな。 「いいのー?ま、俺は汁飲み慣れてるから」 何か含みがあるような気がしたがあえて無視しておいた。 「飲み終わった缶どうするの?飾るの?」 「おまえの部屋に飾っていいぞ」 俺の部屋にあれがどーんと鎮座しているのは嫌な感じなので、人に押し付ける。 捨てるのに抵抗があるとは素直に言いたくなかった。 「こんなインテリアお断りなんですけど!?」 「大丈夫、おまえのキャラならそれもアリだ」 ないない!と反論する史浩を放置して、俺は一端部屋のドアを閉めた。 後で隠れてあいつの部屋に飾っておいてやろう。 ホットケーキ 午前七時という、休日にしては早い時間に目が覚めた。 喉が渇いていたので水でも飲んで、また寝ようかと自室を出たら丁度玄関のドアが開いた。 史浩が帰ってきたのだ。 バイトがある日だったとしても、この時間は少し遅い。 まぁせっかく帰宅した時間に起きて、歩いていたのだから出迎えにでも行ってやるかと思って玄関を見た。 そしたら史浩は肩を落として、沈んだ表情で自分の足元を見ていた。 化粧も服装も店で落としてきているので、見た目はいつも通りの姿なのだが。その目が、落ち込んでいた。 何かあったのだろう。 「おかえり」 寝起きなのでぼんやりとした声になったが、それでも一応音にはなっていた。史浩は驚いたように顔を上げて、それからちょっとだけ笑った。 「ただいま。起こした?」 「いや」 「今日はちょっと遅くなっちゃって〜。職場の人の失恋パーティやってたのよ。盛り上がっちゃってさ。俺もなかなか帰れなくなって」 「失恋パーティって…」 なんだそのろくでもなさそうなパーティは。てか失恋でパーティなんか開くか?普通パーティは祝い事だろうが。 「だって失恋なんかしたらパーティでも開いてぱーっとはっちゃけないとやってらんないわよ。オカマの恋が実るなんて珍しくって、結構開いてんのよパーティ。みんな色々抱えてるから、その場で共感して泣き始めたりね」 「おまえも泣いてきたのか」 「あたしは泣かないわよ。泣くことなんて何もないじゃない」 そう言うくせに、史浩の笑顔は冴えなかった。 疲れている、そう感じるだけだ。 「風呂入って来いよ。朝飯食ってから寝ろ」 「……うん」 史 浩は大人しく頷いて、自室に向かっていった。荷物を置いたのだろう、それからすぐに風呂場に行った。 残された俺は二度寝をする予定を変更して、朝飯を作る準備に入る。 頭の中に浮かんだのはホットケーキだ。朝飯としてはどうなんだろうと思うのだが、疲れているあいつにはこれくらい甘い物が丁度いいだろう。 ホットケーキミックスを棚から出して、牛乳と卵を出した。 卵は白身と黄身に分けて、白身だけをあわ立てる。そうするとホットケーキがふわふわに焼けるのだ。 本当にメレンゲにした方がいいんだろうが、そこまでホットケーキに気合いは入れられない。せいぜい泡を多く吹くんだ白身というレベルで止め、牛乳に黄身を入れて掻き混ぜる。 ホットケーキミックスに牛乳とメレンゲ紛いの白身を入れて混ぜた。だまになると綺麗なホットケーキが出来ないので、ここは多少手が怠くてもしっかりとやりこなす。 フライパンを温め、そこに生地を流し込む。もちろん小さなホットケーキを何枚も作るなんて面倒なことはしない。デカイのを一枚だ。 ぽこぽこ生地が気泡を吐き出し始めたらひっくり返し、甘ったるい匂いを嗅ぎながら焼けるのを待った。狐色より少し濃いくらいの焼き加減になり、デカイ皿に盛った頃に史浩が風呂場から出てきた。 「ホットケーキ?」 「ああ。出来たからすぐ食えるぞ」 俺はリビングのテーブルにホットケーキを置いて、オレンジジュースをグラスに入れた。それを二つ、ホットケーキを挟んで並べた。 史浩は「ありがと」と言って手を合わせて、フォークを握る。 「……今日ね」 「ああ」 俺もフォークをホットケーキに突き刺す。 すでにマーガリンと蜂蜜がこれでもかというくらい塗られているホットケーキは、表面がしっとりしていた。口に入れると甘い香りと蜂蜜の匂いが広がった。朝から結構ヘヴィだな。 「失恋パーティしたって言ったじゃない。あれね、うちの店の子が付き合ってた彼氏に振られたのよ。やっぱり、本当の女の子がいいって」 ありきたりな流れだと思った。 俺はホットケーキを噛みながら、やっぱりってなんだろうと考えてていた。オカマか、ただの女の子か、どっちがいいか分からずに付き合っていたのかと。想像も出来なかったのかと、そう思ってしまう。 「その子がさ、お客さんが少なくなった頃にそれをぶちまけて。あたしだって女になりたいわよ。本当の女になりたいわよ。でもあたしは男なんだもの。身体は男として生まれちゃったんだもの。そんなのあたしのせいじゃないわよって」 身体と心の性別が違うなんて。俺にはどんなことなのは分からない。ただ、生まれた時からその人は、周囲の人間にことごとく自分の感覚を否定されたのだろうと思うと、それだけであまりに辛いことだということは察せられた。 「女に勝てるはずないわよ。女じゃないんですもの。分かってるわよ。勝ち目がないことなんて。まっとうなことじゃないって周りから責められるのも。でも、あたしは好きなんだものって。そう叫んでね」 史浩は苦笑いを浮かべていた。 すらすらと言葉が出てくるところを見ると、オカマの口からそういう類の台詞が出てくることは珍しくないのかも知れないと思った。 きっと史浩はそういうことを何度も聞いているのだろう。 「好きなんだから、どうしようもないじゃないって。そう言ったら残ってたお客さんも大声で同意しちゃって。そっから失恋パーティよ」 ノリと勢いだけは人一倍ある集団らしいので、それはそれで大いに盛り上がったのだろう。 「それで、お店が終わってからちょっと考えたわけよ。ようちゃんはどうなんだろうって」 「どうって?」 「いつか、女の子がいいって言うんじゃないかって」 俺はホットケーキを食べる手も止めずに、それを聞いていた。 「やっぱり男とずっと付き合っていく自信なんてない。女の方がいいって。そう言われるんじゃないかって」 だってその方が、世間として当たり前じゃない? そう言われて俺はまあなと答えた。 当たり前。この世の多くは異性で付き合っているだろうし、それが当然であるかのような流れだ。 「怖くなったのか」 「…なったよ。そりゃなるよ。だってどれだけ好きだって言っても俺たちは、周囲からしたらおかしいだろうし。俺はオカマなんてしてて、でも心は女じゃなくて。でも男であるようちゃんが好きで。そんなの、おかしいでしょ?」 「おかしくはない。ただ、普通ではないがな」 「普通じゃないって、世間様ではおかしいって言うんだよ。きっと」 苦そうに言う史浩に、俺は同意しなかった。 「だが俺たちをおかしいと言う世間様は、俺たちを守ってくれない。何もしちゃくれない。そんな物を気にするのか」 世間様は俺たちを評価しようとする。並べて、比べて、優劣を付けようとしてくる。 しかしどんな評価を付けられたところで、守ってくれるわけじゃない。保護してくれるわけじゃない。 むしろ傷付けられることのほうがずっと多い。 「人間は集団で暮らす生き物だから。周りに責められたら、嫌になるかも知れないじゃない。楽な方に生きたいって思うかも知れない」 楽な方が、女と生きるって選択肢だと捕らえているのだろう。だが楽だからって理由で選ばれる女に失礼だろう。 「……あのな。そんなもん気にしてたらきりがない。女と付き合っていたとしても、周囲から責められる可能性は多分にある。誰からも祝福されることを考えていたら自分の気に入った奴となんぞ生きられないと思うが」 「分からないよ?」 「でもそれはどんな確立だ?俺はそんな天文学的な数字を目指して生きなければならないのか?俺は博打好きじゃない」 でも、と史浩はまだ続けようとした。その手は止まっている。 俺は史浩の顔を見て、とりつかれてるなと思った。 見えない明日の、不安に。この先続いていると思われる未来の可能性に。 俺だってそれが怖くないとは言わない。 だがその怖さに目をつぶることは嫌だった。 「おまえは今の俺が不満か?どっか他の女を見ていると思うか?」 「思わない…」 そりゃそうだ。仕事場と家の往復で。あんまり他人に干渉しない人間だ。 女の影も男の影も、全くない。綺麗なものだった。 「ならそこまで不安に思うなよ。明日のことを考えるなとは言わない。お前の怖さっていうのもたまには必要なんだろう。人間を堕落せしめるのは惰性と怠慢だ。だからたまにはそういうことも考えてみるのも悪くはないんだろう」 朝であんまり頭が働かないから、実に説教じみた台詞になっている。夜だったらもうちょっと遠回しに、冗談めいたことも挟めるんだが。今はそこまで思い付かなかった。 「だが、そんな怖さばかり見ていると目が曇るぞ。今の俺が見えなくなる。それは、嫌だろう?俺は嫌だ」 目の前にいるのに、明日の俺のことばっかり見ていたら腹も立つだろう。 「女がいいんじゃないのか。自分のことが好きじゃなくなったんじゃないのか。そんなこと思う時があったら俺に訊け。そんなに落ち込む前に。俺はその質問に関してだけは素直に答える。嘘はつかない」 それは約束だった。 他のことはさらりと真顔で嘘を言ったりする。主に他愛のない嘘だけれど。 だがその問いにだけは、真摯に答えよう。 誓約なんて言葉を用いてもいい。 「…じゃあ…ようちゃん、俺のこと好き?」 「好きだよ」 そんなのいつもなら素直に答えない。 でも今は何の恥ずかしげもなく告げた。 だって事実だ。 間髪入れずにそう返す俺に、史浩は頷いた。何度も頷いた。 そして俯いた。 なんだか泣き笑いの表情に見えた。 「俺はね。大好き」 「そんなこと、おまえ自身よりよく分かってる」 どれだけ大切にされているかとか、思ってもらっているとか、そんなのおまえを見ていればはっきり分かる。伝わってくる。 いつもだだ漏れで、直接的で、あからさま過ぎてもう俺が恥ずかしいくらいで。 だからいつだって俺はおまえが愛おしいと思うよ。 「甘いもん食って満足して、寝てしまえ。おまえ疲れてんだよ」 「うん」 「ただこれの半分は食えよ。残されても困る」 「残したりしないよ。食い終わったら添い寝して、俺が寝付くまででいいから」 「阿呆」 日常 がちゃりとドアが開かれた音を背中で聞いた。 テレビの横にある時計を見ると、史浩が寝付いてから六時間が経過していた。 もう昼下がりだ。 史浩はそのまま冷蔵庫に向かい、水を飲んだ。 そして俺の背後に立つ。 俺はソファに座って本を読んでいた。 「おはよ」 声をかけられ、俺は「はよ」と短い返事をする。 挨拶として交わすにはあまりにも遅い時間なのだが、まともに寝たのが午前八時なんて時間なのだから仕方がない。 こいつはいつも週末は時間が不規則だ。 若いから出来ることだろう。 「目が覚めたらようちゃんがいなかった」 不満そうに言いながら史浩は俺の首に腕を回して抱き付いてくる。 「当たり前だろうが」 むしろ寝付くまでちゃんと添い寝したことを感謝して欲しい。 赤子でもあるまいし、誰かの添い寝が必要な年ではないはずだ。それでも俺はしっかり史浩が寝るまで側にいた。 普段なら決してしないことだが、その時はまあいいかと思ったのだ。 雰囲気の飲まれたとも言える。 「一緒に寝てくれたかと思ったのに」 「そんなに寝たら脳細胞が腐る」 史浩が帰ってくるまで俺は寝ていたのだ。確かに人より睡眠欲は強いほうだと自覚しているが、それでも限度がある。 ちえーと史浩はさして残念でもなさそうに言った。 「買い出しに行こうか」 思い付いたようにそう言っては、史浩は腕を放そうとした。 「いや、もう行った」 「行ったの?」 「何か欲しいものでもあったのか?」 それなら悪いことをしたかも知れない。だが買い出しに連れて行くには、史浩は疲れているように思えたのだ。だから今日はゆっくりして欲しいと思ったのだが。 「ううん。それは大丈夫。でもごめんね一人で行かせて」 「気にするな。時間があっただけだ」 一人で家にいてもあまりすることがないなんて、そんな無趣味丸出しの発言はしない。 「そっかー。いい天気だしね」 史浩は離そうとしたはずの手で、また俺の背中を抱き締める。 甘えてきているな、そう思ったけど止めなかった。 別に甘えてはいけないなんて思ってないし。ただ恥ずかしいことを言わなければ、この体勢だって嫌じゃない。 「出掛けたくなるくらいだね」 俺はそう言われてちらりとベランダの方を見た。 窓は開け放して、風を受け入れている。 ほっかりとした光を浴びて、部屋の中は明るい。実に平穏な光景だった。 「おデート日和って感じ」 「デートにおを付けるな。今から出るならどっか歩いて晩飯でも食いに行くか?」 今から用意をして、どこかをぶらりと歩いたら晩飯の時間くらいにはなるだろう。目的地なんてないけれど、それもいい。 「でも晩飯の材料買ってるんでしょ?」 「買ってるが、日持ちがしないものじゃない」 「でもいいよ。ようちゃんと家でご飯食べるの好きなんだよね。人目もはばからずにいちゃいちゃ出来るし」 「俺の目をはばかれよ」 確かに外にいれば色々と気を使うことがある。 うちと外で全く同じ態度などとれないだろう。それならば自宅にいた方が楽ではある。 だからといって恥ずかしげもなく俺に抱き付いてきたり、セクハラまがいの台詞は止めて欲しい。 甘ったるい言葉なんてましてだ。 「ホントに、いい天気だね。布団干せば良かった」 「俺は干してる」 「あ、ホントだ」 史浩を寝付かせた後に、テレビで今日はずっと晴れていると知ったのだ。だから布団を干した。 「なら今日はふかふかの布団で眠れるのか」 「俺がな」 史浩の台詞に、俺は律儀に継ぎ足した。 まるで自分もその布団で寝るのが当然であるかのように、さらりと言うのは止めて欲しいものだ。 その訂正の意図がちゃんと伝わったのかどうか、史浩は小さく笑った。どうせどれだけ言っても、今日は潜り込んでくるつもりだろう。 「ね、ようちゃん」 優しい声が俺を呼ぶ。ん?と返事をしても何も言わないから、俺は振り返った。 そこには目を細めて、微笑んでいる人がいた。 なんて顔してるんだか、と言いたくなるほど嬉しそうな表情だ。 ただでさえ近かった距離を更に縮めてくる史浩に、俺は目を閉じた。 あったかくて柔らかな唇の感触が伝わってくる。 特別なことなんて何一つない、平凡な日曜日の光をまぶたごしに感じた。 |