付き合い方 8



「一回だけ」
「駄目!」
「んじゃ、ちょっとでいいから」
「ちょっとって何だよ!」
「外にだ」
「黙れ馬鹿テン!」
「…今…ボディに…拳がめり込…」
「それくらいしなきゃ、止まらないだろうが」


「……はぁ…」
 思い出しただけでも、呆れる。
 一時間前まで、僕はフェレットの姿をしたテンを心配していたっていうのに。
 人間に戻った途端、押し倒されて迫られるなんて。
「なんか…疲れた…」
 シャワーを浴びながらぽつりと呟く。
 疲労感は確かにあるが、でも安心した分気持ちは楽だった。
「それにしても…」
 僕は首筋に手を当てた。テンの唇が触れた部分だ。
 痕が残っているかも知れない。シャツで隠れる部分だから大丈夫だとは思うけど。
 好き。
 繰り返し囁く声が蘇ってくる。
 大切そうに、嬉しそうに言ってくれるテンの顔も、はっきり思い出せる。
 卑怯じゃないかって言いたくなるくらい優しい表情をしてて、たち悪い。
「反省してるって…本当なのか?」
 こんなのじゃ駄目だって落ち込んだように言っていたのに、数分後には人の上にのしかかっているんだから。
 深く反省してるとは思えないんだけどなぁ。
「はぁ…」
 やっぱり明日から叱りつける日々が続きそうだ。
 静かすぎる部屋よりいいんだけど。
「もうちょっと、大人しくならないもんかな…」
 脱力しながらシャワーを止める。
 ぽたりぽたりと髪の先から水滴が落ちていく。
 軽く頭を振って水を飛ばし、湯船に足を入れた。
 一人で暮らしている時には、ユニットバスで浴槽に湯をはることなんてなかったんだけど、テンがお風呂に浸かるのが好きだから最近は毎日湯を溜めている。
 極楽というように深い息を吐いて、肩までお湯に包まれる。
 疲れたなぁ。という実感をふわふわと感じる。
 ちょっとぬるめの温度だけど、熱いお湯だとすぐにのぼせるから丁度いい。
「一緒に入っていい?」
 磨りガラスの向こうからテンの声がする。
 長身が立っているのがぼんやり透けて見えた。
「駄目。ろくなことしないから。狭いし」
「大丈夫だって!何もしないから」
「その台詞を信じる根拠がない」
「冷たい…フェレットの時ならすぐに入れてくれたのに」
「フェレットの時はちっちゃいし面白いだけだから」
「結局遊ばれるだけか、俺は」
「なんか誤解を招くような言い方してるな」
 僕の声だけが風呂場にぼやんと響く。
 フェレットのテンと一緒に入った時は、洗面器にお湯を入れて遊んだけど。
 今のテンは到底そんなことだけで終わりそうもなかった。
 大体、テンは身長が高いんだから、二人で風呂場にいたら身動きが取りにくい。
 湯船は一人しか入れないし。
(風呂くらいゆっくり入らせてくれよ…)
 はぁ…と浴槽の端に腕を組んで置き、そこに頬を付けて顔を横たえる。
「なー、亮平」
「名前呼んでも駄目」
 亮平〜、とそれでもまだ言うテンに思い出した。
「そういえば、テンの本名まだ聞いてなかった」
 テンって名前で呼んで欲しい。その願いは聞いたけど、肝心の本名をまだ聞いてなかった。
 そのまま唇を塞がれたからだ。
「あー、俺の名前ね。伊達」
「だて?伊達政宗の?」
「そうそう。あれ」
 僕は頭の中で漢字を思い浮かべて、ぷっと吹き出してしまった。
「それ本名!?ギャグじゃないよね?」
「は?うん、ギャグじゃないけど…」
 ドアの向こうでテンが戸惑ったようだった。
 あ、笑わないってことは本当にこういう名前なんだ。
 でも、すごいなぁ。
「テンって本当にいたちだな!」
 伊達をそのまま素直に読んだら、いたち、だ。
 ギャグみたいなんだけど、こんなぴったりな名字が付いてるって面白い。
 笑っていると、テンが渋そうな声で「あー…」と呟いた。
「なんで、そういうことだけ気付くかなぁ…。俺の名前が野生動物と一緒ってことには全然気が付かなかったくせに。普通伊達の読み方より先にテンだろ。そんなにいたちが好きなのかよ、俺はいたちじゃねぇっての」
 ぶつぶつとテンが文句を言っている。
 でもいたちに似てるのは間違いないし、いたちの名前であるのも事実だ。
「下の名前は?」
「大きい貴族、で大貴」
「貴族?うっわ、似合わない…しかも大きい貴族ってなんか微妙な…」
 黙っていれば、貴族って単語が不釣り合いだとは思わないんだけど。
 口を開いたらもら別次元の単語だった。
「分かりやすいだろ!?貴族なんか似合わないってのは俺が一番よく分かってるよ!それとも大きい貴金属って言ったほうが分かりやすかったか」
「それもどうかと思うけどね。大貴か。伊達大貴」
 テンに出逢ってそろそろ二ヶ月になるけど、ようやく知った本名。
 噛み締めるみたいに口にすると、ガチャとドアが開いた。
「いたちたいき、でもいいけど?どーしてもその方がいいってなら、そう思っててもいいし。でも呼ぶのは無しだから。外でもここでもテンって呼んでくれないとキスするから。誰がいても、亮平の同僚がいても関係なくやるから、覚えといて」
 リラックスしていた僕は顔を上げてテンを見上げた。
 とんでもない提案だ。
「は!?なんだよそれ!テンの本名知ってる人がいたら、変に思われるだろ?」
「いいよ別に。そしたら、俺ペットだからー、ご主人様が付けてくれた名前があんだよ。とか言っとくし」
「おかしいって!」
「いいじゃん。元々おかしいんだからさ。今更名前くらいで俺のこと変に思う奴なんかいないって。あ、でもたまには呼んでいいよ?キスしたいし」
「僕はしたくない。呼ばない」
 絶対呼ばない。そう断言するとテンは不満そうに「えー」とぶーぶー言った。
 何が悲しくてわざわざキスされないといけないんだ。
 部屋の中でも勘弁して欲しいってのに、外でなんか死んでもごめんだ。
「いいじゃん、キスくらい。しよーよ。俺欲求不満で死にそうなんだけど。別に減るもんじゃないし、軽い気持ちでやってもいいじゃん。俺上手いから」
「上手い下手の問題じゃないだろうが!もー、いいからドア閉めろよ」
「んじゃ一緒に入っていい?」
「人の話聞いてるのか、その耳は」
 睨み付けるとテンは残念そうに、ゆっくりとドアを閉めていく。
 物言いだけな視線を受けながら、僕は隠れて溜息をついた。


「いってくるから!」
 玄関から声をかけると、奥の部屋から「ちょっと待って」と止められた。
 さっきまで起こしてもだらだらと寝続けたテンが、ようやく目覚める気になったらしい。
 ぼーっとしながら、リビングに出てくる。
「俺さ、今日モデルの方入っているからいつ帰って来るか分かんない」
「了解。御飯食べておくから」
 テンはうん。と頷きながら玄関へと歩いてくる。
 一歩進むたびに、目がしっかり開いてふらふらしていた足取りがしっかりしてくる。
「それじゃ、いってきます」
 ドアを開けてそう言うと、テンがにこりと笑った。
(あ…)
 昨日まで、そこにいたのは寂しげなフェレットの瞳だった。
 だけど、今は微笑んでくれる人がいる。
 先週までは当たり前に感じていたけど、それがすごく嬉しいことだということに気付かされる。
(なんだ、僕もテンに甘えてた部分があるんだ)
 笑顔で送り出してくれる人がいるありがたさを感じながら、仕事に出掛けようとすると。
「亮平」
 声を掛けられて振り返ると、間近にキャラメル色の髪と甘い顔をしたテンがいた。
 何、と言いかけた唇が何かに塞がれる。
「……!」
 キスされた。そう分かった時にはすでに唇が離されご機嫌のテンが手を振っていた。
「いってらっしゃーい」
「……っんの!朝っぱらから何してんだ!!」
「明実とチエちゃんの真似」
「誰の真似って?」
 背後からかけられた冷静な声に、驚いて肩が跳ねた。
 玄関のドアを開けっ放しだったので、廊下に筒抜けだったんだろう。
 お隣に住んでいる明実さんが呆れ顔で僕の後ろに立っていた。
 金に近い茶色の長い髪が肩から胸にかけて綺麗に巻かれている。
 緩やかな形にかかれた眉がきりと上がっていた。
 怒ってるみたいだ。仁王立ちに近い姿勢でこっちを見ていた。
 僕の方が身長は高いけど、なんだか威圧感に押されてしまう。
「朝から飯塚さん怒らしてんじゃないわよ。あんたみたいなろくでなしを飼ってくれてる有り難い人なんだから」
「亮平は怒ってねぇの。照れてるだけ」
「勝手な解釈だな!」
 どこをどう取って「照れてる」ってことになるのか、本当にテンの思考回路を見てやりたい。
「あんたいつか捨てられるね、それじゃ」
「うっさいな。明実こそなんでこんな朝早くから起きてんだよ。夜行性のくせに、昨日仕事休みだったとか?それにしてはきっつい顔してるけど」
「キツイ顔って何?そのよく喋る口縫いつけるわよ」
 明実さんが唇の端を上げた。目が細められて、どうやらご立腹らしい。
 真っ向から喧嘩売るテンの度胸に、僕は思わず二人からすり抜けるようにして移動した。
 間に挟まれたくない。
「おはようございます」
 すると隣の部屋からチエちゃんが出てきた。
 学校に行く時より一回り小さな可愛い鞄を持っている。
 どうやらお出かけみたいだ。
「おはようございます。お出かけ?」
「そうなんです。今からあっちゃんと」
 ふんわりとチエちゃんが微笑む。
 ほわほわしたチエちゃんと、テンと口喧嘩している明実さんとはタイプが正反対に見えるけど、今から二人でお出かけなんだろう。
 これくらいタイプが違う方が仲良く出来るのかな。
「仲いいね」
 素直に思ったことを言うと、チエちゃんがくすくす笑った。
「飯塚さんだってテンちゃんと仲良しじゃないですか」
「…さっき怒鳴ってたの聞こえなかった?」
 明実さんはしっかり聞いてたみたいだけど。チエちゃんの耳には届かなかったんだろうか。
「聞こえましたよ?でも今の飯塚さん楽しそうです。テンちゃんと一緒にいる時が一番よく笑ってます」
 私が見ている限りですけど。
 チエちゃんの台詞に、僕は鏡が見たくなった。
 そんなに嬉しそうな顔してるのかな。
 でも、怒鳴る回数もダントツで多いはずだ。
「そうなのかな」
「そうですよ」
 にこにこしているチエちゃんと二人で、テンと明実さんの文句の言い合いを眺めながら、僕はつい口元が緩むのを抑えられなかった。
 やっぱり、そうかも知れない。
「テン」
 僕が付けた、たった一つの名前。直感で付けた、ちょっとどうかと思うような単語。
 だけど、こっちを見た人は「ん?」って小さく笑いかけてくれた。
 それが嬉しそうで、僕は苦笑してしまう。
 同じような顔してるって言われたら、どうしようかって思うくらい緩んでるから。
「もう仕事行くから」
「じゃあ、下までお見送りしよっか。たまにはいいっしょ」
「大袈裟だなぁ。いいよ」
 僕は止めたのに、テンは靴を履いて玄関から出てきた。
「俺が行きたいの。行かないでー、なんて言い出さないからさ。連れてってとも言わないし」
「言われてもはたくけど」
「酷っ。亮平ナチュラルに酷い時あるよな。いつも優しいのに時々鬼みたいに思える時がある」
「んじゃ構ってー、って来るの抑えれば?」
「あ、無理。それ不可能。だって俺だもん」
 開き直るテンに、僕だけじゃなくて明実さんもチエちゃんも呆れたような顔を見せる。
 でもまぁ、僕からしたら「あーはいはい。テンだもんな」で終わるようなことなんだけど。
 慣れって言うか、懐を大きくしたって言うか。
 自分でもテンに対して寛容過ぎるって分かってる。直さないとなぁ。
「なんて理由なんだか。ホント、テンと付き合うのって大変過ぎる」
「でも楽しいだろ?」
「調子に乗るなよ。馬鹿テン」
 たしなめたけど否定してなかったのが分かったのか、テンの目が細められた。




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