健全ではありません2 6



 風呂上がりの後輩は持ち込んだスポーツドリンクを飲みながら、髪を乾かしていた。眼鏡をかけていないと多少印象は丸くなる。
 やはりあの眼鏡はインテリ眼鏡だ。冷たく尖った雰囲気を強くさせている。
(人嫌いのあいつはそれを目的としてかけているのかも知れないけど)
 近付くなと暗に知らしめているのかも知れない。
 そんなやつを毎週部屋に泊めている習慣は、やはり奇妙だ。
「先輩はどうしても恋人とは肉体的に接触したいんですか?」
 前振りもなく唐突に話題が戻ってくる。おそらく後輩は風呂に入っている間、それについて考えていたのだろう。
 俺も似たようなものだったので、その話題に戸惑いはなかった。
「そりゃそうだろ。普通だと思うけどな、それって」
 この世にいる大勢の人がごく自然にそれを求めるだろう。俺も求めることが悪いとは全く思わない。
 一方では同じくらい求めないことも悪くないと思うけれど。今の後輩にそんなことを言えばあいつの都合の良いように解釈されるばかりなので付け加えない。
「先輩は生身のセックスがしたいと」
「そればっかり強調すんな。身体目的みたいだろうが。俺が言いたいのはスキンシップも大事ってことだ。セックスだけじゃなくて、軽い触れ合いも互いの気持ちを強めてくれる、一つのツールなんだよ」
 子どもを諭すような口調になる。思春期の子どもを持つ親はこんな風に、子どもに性について教えているのだろうか。
 親になったわけでも、付き合っているわけでもないのに、こんなことを真面目に語り続けなければいけないなんて。時間外労働ではないだろうか。残業代が欲しい。
 特別手当を請求したい俺に、後輩は使い終わったドライヤーを片付けては正座をした。改まるような姿勢に、今度はどんな爆弾発言が来るのかと身構える。
「でもスキンシップでは先輩を食べられないので」
「どうしてもそこに戻るけど、俺は食い物じゃない。おまえにとってはそうでも俺にとってはそうじゃないから。俺は俺でちゃんと恋人が欲しいしスキンシップはとりたいし、生身でのセックスだってしたい」
 もうセックスがしたいという欲は隠さなかった。
 喋り疲れてきたというより、オブラートも何もかも破られ続けているので包む気力を失った。
「彼女だって欲しいし。今は、ちょっと休憩したいけど」
「懲りてないんですか?先輩は学習能力がないんですか?心底馬鹿でどうしようもない人間ですね。救われる気がないんですか?」
「ちょっと酷い失恋したけど!彼女を作る権利を奪われる筋合いはないだろうが!いつかは彼女だって欲しいわ!優しくて思いやりのある可愛い彼女が!」
「あんな腹黒性悪女を一度でも彼女にした先輩には、女を見る目はないので諦めた方がいいですよ。人生を棒に振るだけです」
「そこまで言う?一回ミスしただけなのに?」
「一回のミス?あの女の酷さは何度も露呈していました。第三者の目からしても一発で分かるようなクソっぷりを何度も披露していたのに全部スルーして、徹底的に貶められて、罵倒されて、周囲からも孤立させられたのに。先輩は一回だなんて言うんですか。愚の骨頂です。彼女は諦めてください。二度と口にしないでください。死にますよ」
「死なないだろ!なんで死ぬんだよ!彼女を欲しがって死ぬなんて理不尽過ぎるだろ!」
 俺だって彼女を欲しがる人権がある!と主張するのに後輩は一切聞いていない。完全に無視してスポーツドリンクを飲み干す。
「先輩は抱かれる方が遙かに向いてます。才能がある」
「そんな才能いらないんだが」
「特に俺とは相性が良い。麻薬のようにくせになる」
「聞きたくないから。俺の人生を狂わせようとするな」
「後の祭りですよ。引き返せると思ってるんですか?」
「冷静に言うな。脅されるより怖い」
 怖い顔をして恐ろしい単語を並べられるよりも、さらりと事もなげに言った内容の方が恐怖を覚える。
「……先輩がどうしてもと求めるなら、スキンシップくらいなら出来るとは思います。手を握るのも、そう不愉快ではなかった」
「渋々されたいわけじゃない。片方に負担をかけていたらそれはスキンシップじゃなくてセクハラだろう」
 恋人ならば相手に触れたいという気持ちを双方が持って、スキンシップは二人にとっての好ましいものであって欲しい。片方が嫌々、渋々を受け入れているような形は嫌だ。
 片方の犠牲によって成り立つのは、スキンシップではなく嫌がらせに近い。
「そもそも慣れていないんです。練習は必要でしょう。それとも俺は練習すらも許されませんか。こんな年齢になってみっともない、恥ずかしいと指を差されますか」
「そんなことないけど」
 淡々と喋っているけれど、人に触れたくない後輩にとってはスキンシップなんて未知のものなのかも知れない。
 学ぼうとしている後輩を馬鹿にするのは、人として間違っているだろう。それにみっともない、恥ずかしいなんて後輩の口から、仮の話でもあっても出てきたことにちょっとびっくりした。
(そんな感覚は捨ててるものだと思っていた)
 鋼鉄の神経にはそんなものは無縁だと、勝手に決め付けていた。
 後輩は俺の手を取った。俺と大差ないサイズの手は風呂上がりなのにもうひんやりとしていた。体温が低いのだろう。
「他人の手を自分からこうしてしっかり握るなんて何年ぶりか分かりません」
「マジで人に触るの好きじゃないんだな」
 何年ぶりか分からないということは、思い出せもしないほど昔なのだろう。握手だの何だのと人の手を掴む機会など日々の中に幾つも転がっていそうなものだが。こいつはそれを全部綺麗に避けてきたのだろう。
 長い指は俺の手の感触を調べるかのように握ったり、離したりを繰り返しては指を絡ませてくる。
「……思春期を迎えると人間は性欲を持ちます。まして分別がまだ付かない内はその性欲を持て余し気味になる。それは男子によくあることと思われがちですが、女子にもあります。同年代の俺にとってそれは好都合でした。ご飯がたくさん溢れているようなものです」
「まあ……中学高校のガキなんて、性欲の塊みたいなところがあるからな」
 未熟な身体に膨らんでいくばかりの性欲と自尊心。コントロール出来ない精神と、子ども扱いをしてくる周囲の扱いとの間で葛藤する時期でもあるだろう。
 かつての俺だって、それはそれは背伸びをしたクソガキだった。格好を付けることばかりに偏って、今思うと馬鹿馬鹿しいことも数え切れないほどやっている。
 当然、エロに対する好奇心も旺盛で、親にバレバレなのにあれこれ隠し持ったものだ。
 それをこいつはご飯が溢れていると言うわけだが。
「女子は性欲の発散の仕方を、男子よりも冷静に把握している。そのための手段も、彼女たちは理解していた。おかげで俺は油断して女子に押し倒されたことがあります。女性に力任せに支配されそうになったことも」
 ぎょっとして後輩を見る。後輩は無に近い表情のままだ。
 けれどその内容は不穏さを色濃く滲ませている。スキンシップが、人付き合いが苦手だという後輩の理由がそこに垣間見えたような気がした。
「そういう野蛮さが俺は好きじゃない。セックスはそういうものじゃない」
 セックスを語る際、他の人たちはそれを猥談と扱ってきた。男同士だと大体が下ネタだ。俺もそういう風に喋ってきた。それに疑問も抱かなかった。
 けれど後輩が語るそれは、他の人が話す印象とは異なる。冗談が入り込まない雰囲気を持っていた。
 それが今は顕著だった。後輩はセックスに対して真剣で、そして大切に扱っている。
 こいつが夢魔という存在だからだろう。だがその姿勢は決して嫌なものではなかった。
「俺も、そう思う」
 きっと後輩は夢の中でもそうして、セックスを大切なものとして行っているのだろう。
 セックスの相手をどう扱っているのかも、想像が付く。
「現実は色々面倒で、厄介です。だから俺は夢を選びます。その方が確実で効率的で、美味しい」
「おまえの主張は分かるような気がするけど、でもなんで俺なんだ。他にも色々おまえの好みに合って、おまえならいいって人がいるはずだ」
「俺は先輩がいいんです。一目見た時からこんなに美味しそうな人はいなかった。実際の味も俺好みです。他の誰も目に入らない」
 強烈な口説き文句だろう。
 それが人間にとっての食欲から来ている台詞でなければ、ぐらりと来ても何らおかしくなかった。だが熱の籠もった眼差しに、俺はときめきよりも危機感を覚える。
「待て、よくない目つきをしている」
 指摘する後輩はぎらついた瞳を微かに細めた。こいつが笑う時は大抵が良くないことが起こる予兆だ。
「先輩。身体に異変はありませんか?金曜日の夜、俺と寝てないんです。下半身が重くなってるんじゃありませんか?」
(だからおまえは遅いんだよ)
 後輩から連絡から入る直前にしていたことを思い出しては、心の中だけで文句を言う。
 そんな見抜いてるぞ、みたいな顔をしたところで。俺の性欲は発散された後だ。
「俺も腹が減ってます」
「カレーが残ってるぞ」
「これはカレーじゃ満たされません。先輩だって気持ち悦いことは好きでしょう」
「待て、夜は始まったばかりだ」
 完全に俺を寝かせる気になっている。しかしまだ二十二時を回ったところだ。日付が変わるまでは寝ない俺にとっては、まだ活動時間だ。
「その分、ゆっくりじっくり出来ます」
「その言い方はリアルじゃない、夢の話だって分かってても怖いな!絶対眠れない!」
「安心してください。俺は寝かしつけのプロです。先輩だって知っているでしょう。不眠症を短時間で解決させた実績があります」
「寝かしつけのプロか。保育士さんが泣いて喜びそうだな」
「性欲を持たない相手には効きません。そして俺が美味しそうだと思わなければ、やる気にはなりません」
 それはやる気なのか、それともヤる気なのか。両方だとでも言うのか。
 ぐいぐいと迫ってきては、この部屋の外では決して見せることがない笑みを浮かべる。
 常日頃の冷静さとは懸け離れた、獰猛さを感じる笑みに硬直してしまう。蛇に睨まれたカエルとはきっとこんな気分だったはずだ。



 曜日がバグりそうだ。
 昨日に引き続き、今日も朝起きて違和感を抱いた。
 日曜日なのに、感覚は完全に土曜日。後輩が泊まっていく曜日は金曜日だという刷り込みが出来てしまっている。
「朝からカレーは少し重いかと思って、無難にトーストにしました」
 後輩も穏やかな雰囲気で台所に立っている。誰かが朝飯を作って目覚めるのを待ってくれている、というのはかなり恵まれたシチュエーションなのだが。最近素直に喜べないのは俺の生活が後輩に侵食されているからだろう。
 あとやはり身体にふわふわとした甘ったるい怠さのようなものが残っているせいだ。夢の中で色々された証拠を実感する、この居たたまれなさはいつまで経っても慣れない。慣れたくもない。
 俺の部屋にはなかったはずの食パンがこんがりトーストとなってテーブルに並ぶ。コンビニで買って来たというサラダと、カリカリのベーコン。
 ご丁寧にジャムまであるのだが。これも俺の部屋にはなかった。ブルーベリーなのは眼精疲労に効くのかどうかという話を三日前くらいにしたからだろうか。
(こいつは人の話を聞いてないようでちゃんと覚えているからな)
 仕事の話だけでなく、俺が忘れてしまいそうな些細な世間話も記憶していて、たまに思わぬタイミングで話題に出したり、こうして形として出てくる。
「ところで先輩」
 手を合わせてトーストに齧り付いた時だった。後輩は泊まった翌朝だけに見せる柔和な眼差しで俺を見る。
「俺がいるのにどうしてアダルト動画で抜いたんですか?溜まってるならちゃんと呼んで下さい」
「ごぶっ」
「そんなに肉体の刺激が必要ですか?眠っている間に俺がきっちり性欲そのものを絞り取っているので、自慰行為は不要のはずですが。やっぱり金曜日は俺を泊めて、夢の中で俺に抱かれた方がいいですよ。習慣になってる。そうしなかったから無駄に性欲が溜まって、自慰なんてしたんです」
 トーストが喉に詰まりそうになって、慌ててコーヒーで流し込もうと藻掻いている俺の前で、後輩は好き勝手に喋り続けている。
「っ、なんで、なんでおまえが、俺が抜いたこと知ってんだよ!」
「夢の中で聞きました。アダルト動画の中身も教えてくれました。あんなプレイが好きなんですね」
「どんなプレイ!?いや、いい!聞きたくない!」
「ご自身が一番よく知ってますからね」
「だから俺の精神をボコボコにすんなって言ってるだろ!」
「先輩の意識は抱かれる側になりつつあります。もう抱いていた側には戻ろうと思っても難しいので、開き直って女性側の目線で見た方が楽しめると思いますよ」
「いらねえアドバイス!一番聞きたくなかったアドバイスだ!」
「そう考えれば万が一先輩に彼女が出来ても、セックスで満足は出来なくなってますね。安心しました」
「何一つ安心じゃない!」
 



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