中華丼の味は、最初の一口目より明らかに落ちていた。というより味だの何だのという問題ではなくなっている。
 丼は空になり、腹は満たされた。だが中華丼の中身ではないもので胃が重くなった気がする。
 久幸は先に食べ終わっており、暢気に茶を飲んでいる。どうしてこんな平然としていられるのか。むしろ言ってやったという満足感すら漂っているのだが。
「……俺たちって、さ」
「うん?」
「どういう関係なんだろうな」
 自分の中ではずっと燻っていた疑問だが、とうとう抱えきれずに吐き出してしまう。一人で悩むのも限界である上に、久幸にも関係のあることだ。
 ちらりと上目遣いで向かいにいる人を窺うとくいっと茶を飲み干した。
「夫婦」
「やっぱり、そうだよな」
 灯の中ではもっぱらその認識だった。とは言っても単語がふわふわと浮かんでいるだけなのだが。久幸も同じ表現をしてくれて胸を撫で下ろす。
「嫌なのか?」
 久幸の表情が曇り、心配そうなものに変わる。だがその問いかけは今更ではないか。
「嫌なわけがない。そうじゃなくて」
 もし嫌だと思っていたのならばとうに解消しようと奔走している。大体嫌だなんて態度は欠片も出ていないはずだ。
(今日はちょっと避けたけどさ)
 気まずいだけだ。そのことを気にしているなら、少し申し訳ないなとは思うけれど。あんなことをした上でまだ自然に接しろと言われるのは無理だ。
 久幸が堂々としているのが信じられない気持ちだった。
「俺たち結婚式するわけでもなくて、しても困るけど、一緒に生きてくことが決まってて、好きだの何だのも言ったことないし。友達ですらなかったじゃん」
 そういう運命だと決めたのは灯と久幸なのだが。幼い子どもの他愛ない約束事だったのだ。人生を決定するものだなんて誰が分かるだろうか。
 アクシデントとしか言いようのないやりとりで、二人の道は一つに定められた。
 二人の意志は置いてきぼりだ。
「だからさ、気持ちとしてはどういうものなんだろうって思って」
 嫌いじゃない。どっちかというと好き。
 しかしそんな曖昧な気持ちだけで、これから伴侶として一生を共にすると言われたって困る。
 いくら灯が脳天気で物事を楽観視する性格であっても限りがある。
 久幸を嫌いになることなく、ずっと寄り添って生きていけるのかなんて分からない。不安ばかりが込み上げてきた。
 どうせ一緒に生きていくなら好きでいたい。もっと好きになりたい。嫌いになんてなりたくない。楽しく二人で色々分け合っていきたい。
 だが久幸も同じ気持ちでいてくれるのか。灯と一緒にいてもいいと思ってくれるのか。
 これからも嫌いにならず、好きになろうと努力してくれるだろうか。
 心配の種ならば数え切れなかった。
「俺はおまえのために死ねるよ」
 久幸は真剣に、何の躊躇いもなくそう断言していた。それは清々しいほど凛とした声であり、偽りなど一切含まれていないことが感じられる。
 だからこそ灯は血の気が引いた。
「止めてくれるそういう一昔前のゲームみたいなこと言うの!?」
「事実だからな」
「俺はおまえの命を貰っても嬉しくないんだけど!」
 重すぎる。
 確かに約一ヶ月前に死ぬか生きるかの瀬戸際に立ったかも知れない。けれど今は平穏無事な暮らしをしているのだ。
 それなのに死ぬだの何だの物騒なことを自分の名前と関連付けられても、重すぎてまともに受け止められるわけがない。
「命も身体も張れるって言っただろ」
「それはその場のノリっていうか!あの時は俺もおまえも必死になってた直後だからさ!雰囲気に流されたもんだと!」
 そう思っていたのだ。
 危険は去った。これから安全に暮らせる、もう苦しまなくもいいのだという安心感から来た、勢い余った表現だと思ったのだ。
 そもそも灯は雰囲気につい了承してしまったような形になっているが、深く考えずに返事をしている。
 いや、大抵のことはその場のテンションで答えているので、いつも通りとも言えるが。あの時は特にテンションがおかしかった。
 巨大な困難を乗り越えた直後というのは誰だってハイになるだろう。
「俺は流されない。俺がここにいるのはおまえのおかげなわけだから。それくらいは出来る」
「そりゃ俺はユキを助けたかも知れない!だけど助けた命を自分のために使われるっていうのはなんか違う!俺はおまえに生きて欲しくてやったんだから!」
 久幸の命が欲しくてやったわけではない。恩に着せたかったわけでもない。
 あんなに辛い思いをして欲しくなかったのだ。
 生きていて欲しかった。それだけの理由だったのだ。
 その命をこちらに差し出されても、頂くわけにはいかない。むしろ必要ないと突き放す以外の選択がない。
「俺はそういう生き方がしたいんだ」
 義理じゃない。恩返しでもない。
 それは自分の生き方なのだ。
 胸を張って告げる人に灯はぐっと顎を引いた。
 それはあまりにもどっしりと構えられた意志だった。
 深く根を張った大樹に風を幾ら送っても、そよぐのは末端の葉っぱだけで、根幹はびくともしないように。きっと久幸は灯の言葉に言い返してくる。
 話の途中で灯の言い分を飲むようなことも口にするかも知れない、けれどそれは表面だ。
(こいつは、引かない……)
 あの女に呪い殺されそうになっても、灯を庇った時の瞳がそこにある。本気で命を懸けている人間の強さだ。
 簡単に太刀打ち出来るレベルのものではない。
(それがここで出て来るとか、どうかしてる)
 久幸はもっと自分やこの世に有益になることに対して、情熱をそそぐべきだろうに。どうして灯に対してなのだ。
「……俺は納得しない」
「じゃあ言い方を変えよう。俺はおまえのために生きていきたい」
「それも、なんかさぁ」
 死ぬを生きるに切り替えただけで。言っている中身は全然変化していないのではないだろうか。
 表現に引っかかっているわけではないのだがと渋っていると、久幸が少しばかり身体を前に傾けた。距離が縮まって、つい身構えてしまう。
「俺はおまえの側で役に立ちたい。あの時、俺はそう思ったんだ。灯は自分が穢れるのも構わずに俺を救ってくれた」
「ユキだって、自分がヤバイってのに俺を庇ってくれてただろ。俺たちはまだ出逢ってそんなに経ってなくて、自分は死にそうになってるのに」
 招木の母に立ちはだかって、自分の身体より灯の身を案じてくれた。
 久幸の中にあった呪いを吸い上げたからこそ分かる。
 あの時の久幸は激痛を抱えて、きっと何であっても縋り付いて助けを求めたかったはずなのだ。それでも灯を危険な目に遭わせまいとしてくれた。
「俺の言祝ぎを守ろうとしてくれた」
 とても嬉しかった。
 灯の言祝ぎにすがってくる者はいくらでも居る。気休めだと言いながら祝福を欲しがって灯に頭を下げてくる。
 けれど言祝ぎを守ろうと、灯を助けようとしてくれる人なんて家族以外にはいなかった。まして出逢って数ヶ月の男が身を挺してくれるなんて、久幸を知るまで信じられなかっただろう。
「そんなのおまえくらいだよ。自分の命と引き替えにしてまで守ってくれる他人なんて」
「俺は、もう他人とは思えなかった」
 真っ正面から言われて、灯は視線を落とした。
 目を伏せては夫婦と言った久幸の声が蘇ってくるのを聞いていた。
「俺は、そういうの、まだ分からない」
「そうだろうな。俺だって、どんな関係ですかって誰かから改めて訊かれたら、まともに答えるのはちょっと迷う」
 きっと日本国内では夫婦と答えることに抵抗がある。言ったところで相手は間違いなく聞き返して来るに決まっているのだ。
 耳を疑われて、質問を繰り返されて、それでもまだ夫婦と言い切れるだけの度胸がまだない。
「でもこの先キスするのはおまえだけだし、その先もおまえだけ。それはもう身体がそうなってる」
 身体がなっているというのはどういうことなのか。
 やたらと熱の籠もった眼差しを向けられているような気がして、肌がぴりぴりする。きっと顔を上げたら思い詰めたような瞳があるのだろう。
 欲情の対象にされている、ということなのだろうか。
(身体がそうってなんなんだ!?エロ本やAVの代わりが俺に務まるのか!?)
 嘘だろうと言いたい。だが言ったところで返ってくる言葉が怖い。
「だから、対象がおまえに限定されるのは自然なことだと思うし。そういうところも夫婦だから仕方ないって諦めろ」
「無理じゃない!?そんなこと言われたら俺、すげぇ寝づらいんですけど!」
 貴方が欲望の対象です。と言われて誰がのんびり布団を仲良く横に並べて安眠出来るだろうか。まだ久幸との行為に許可を出したわけではない。
 むしろ一端遠ざけて冷静さを取り戻したいとすら思っていたのに。追い打ちを掛けるような発言は止めて貰いたい。
「それはお互い様だから。部屋を分けようにも他にないしな」
 この部屋は台所はリビングしかないような簡素な間取りである。リビングが広いので窮屈さはそうでもないのだが、他に部屋はないので。どう足掻いても同じ空間で寝食を共にすることになる。
 寝息を無視して眠ることは不可能なのだ。
「あれだ。祟りの名残を消すための手段として、抜くのは医療行為みたいなもんだと思い込め」
「もうあんま聞こえなくなってきてるって言っただろうが」
 というか人の手で性器を愛撫されることを医療行為みたいなものと言った久幸の感性が恐ろしい。
 どうひっくり返しても医療とはほど遠い、欲に塗れた煩悩の行為としか思えないのだが。
「でもこれからまた聞こえるかも知れないだろ。だから先手打ってコンスタントに抜いたらどうだ」
「そんな対処法嫌だし!第一おまえはそういうの、気持ち悪いとか全然思わないんだな!?」
「全く思わない」
 俺も思いませんでしたけどね、と喉元まで迫り上がってきて、不毛だと気が付き黙った。
 これがただの友達関係なら、そんな世間に顔向けも出来ない後ろめたいことは止めようと言う。いつか後悔になるかも知れないぞ、と脅しもしただろう。
 けれど自分たちは親公認の夫婦であり、世間どころか身体の下に流れている血だの、目に見えないさだめだのがこの関係を許しているのだ。
 駄目だという者はきっとどこにもいない。
 だからこそ、始めてしまえば転がり落ちるのはすぐだと分かる。
「片栗粉よりいい仕事するぞ」
 久幸は右手を軽く挙げて、真顔でそう主張した。
 自信があるらしいその表情に、片栗粉でシモネタを振った十数分前の自分を全力で殴りたくなった。
 





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