10






 大学入学式までに全てのことを決め、なんとか落ち着ける状態にしておく。
 それが二人の共通した考えだった。
 なので物事は急ピッチで進んだ。部屋が決めて、必要な家具を買い求め、引っ越しは速やかに行われた。
 双方の両親が実家から荷物を運んでくれ、片付けも手伝ってくれた。
 母親同士はやはり見合いの印象が最悪だったので剣呑な雰囲気ではあったけれど、喧嘩らしい喧嘩はしなかった。
 ここまできていい年した大人が喧嘩ばかりしてはみっともないという意識はあったらしい。
 何より息子同士はわいわい仲良く作業をしているのだ。親がいがみ合うのも気まずいのだろう。
 父親たちは、狭い部屋に六人もいるなんて邪魔になる。と言って二人で出て行った。どうやら父親同士は気が合うらしい。
 殺風景な部屋にどんどん荷物が運ばれ、生活するのに充分な空間へと変わっていく。
 今日からここで暮らすのだという意識が芽生え始めた頃には、もう辺りは暗くなり始めており、明日も仕事がある父親たちのためにも親はここで帰ることになった。
 いつまでも親の世話になるわけにはいかない。今日から二人で暮らすのだから。という意味もあるのだろう。
 ごちゃっとしてまだ衣服だの本だのが全く片付いていない部屋を後に、母親は帰る仕度を始めた。
「ほな、うちは帰ります」
 本日も招木の母は着物である。引っ越しの手伝いという動き回る仕事なのに着物なのかと会った時は思ったのだが。普段からこれで生活している人だけあって、たすき掛けしただけで洋服の人と大差なくきびきび働いていた。
「これから二人きりになるけど、ちゃんと頑張るのよ」
 灯の母もいざ帰るという段階になると表情が引き締まった。
 これまで毎日顔を合わせ、息子が何をしているのか考えずとも分かっていたのに。手元から離してしまった。そんな心配が伝わってくるようだ。
 当たり前だった暮らしが、今日から出来なくなるのだ。
 そう思うと脳天気な灯も少し気持ちが揺らぐ。
「久幸。貴方はしっかりしてるけど、若さに負けて羽目を外さんようにね。遊びもほどほどにしなさいよ」
「分かってるよ」
 招木の母は久幸をとても信頼しているのだろう。しっかりしている、など灯は一度たりとも言われたことがない。
「生活リズムはこれまでと変わりないようにね。バイク通学やけど事故には気ぃ付けるんよ。自分がどれだけ注意してても向こうさんが突っ込んで来ることもあるさかい」
「分かってる」
「お金は大事にしぃよ。まぁそれくらいやね」
 招木の母に不安の色はない。きっと久幸なら一人で任せても大丈夫と思っているのだろう。
 これから一人で立って歩いて行けるだろう。そう招木の母は胸を張っているようにも見える。
 それを理想的な親子関係だなと思いつつ灯は眼前にいる母親の顔がまともに見られなかった。
「灯。いい、ちゃんと聞きなさい」
 横を向いていると頬を包まれて無理矢理前を向かされる。
「ご飯は毎日食べるのよ?お菓子はご飯じゃないんだからね。だからってお菓子とご飯両方いっぱい食べてエンゲル係数上げちゃ駄目よ?エンゲル係数って分かる?」
「分かってるよ……」
 心配で心配で仕方がない。この子を親元から離して万が一のことがあればどうしよう、という不安がそこには色濃く滲んでいる。
 母親からの信頼など0だ。
 それはもう灯が憤ることすら馬鹿らしいほどに、母は灯のことを気にしてくる。
「毎日洗濯して、久幸君と一緒に暮らすんだから部屋も散らかさない。家事は分担だって聞いたから自分の番になったらめんどくさがらずに台所に立ちなさい。簡単な料理なら出来るでしょ。冷蔵庫は空っぽにしないのよ。あとバイトするのはいいけどちゃんと母さんに事前に相談しなさい。あんまり夜遅いのは駄目よ。もちろん成人するまでお酒を飲むのも駄目。コンパとか行って勧められてもちゃんと断りなさい」
「分かってるって」
「変な勧誘が来てもちゃんといりませんって言うように。新聞も別に取らなくていいわ。一週間に一度はうちに連絡すること。もしなんかあったらすぐに、すぐに連絡しなさい。お金がなくなった時は頼ってきてもいいけど。ちゃんと生活出来るだけの金額は仕送りしてるから。そこで出来るだけやりくりするのよ」
「分かってる。つか長いよ。どこまで続くんだよこれ」
 隣から凄い視線を向けられているぞ。と灯が言っても母は止まらない。
「アンタが心配なの!ちゃんとやっていけるの?久幸君の言うことちゃんと聞いて、迷惑かけないのよ?」
「俺より久幸を信頼するんだな」
「人柄って意味分かる?」
「可哀想な子を見る目は止めて!?俺息子!一応血の繋がってる息子!」
 何故実母に他人の子どもの方が信頼出来ると断言されなければいけないのか。そんなに育ち方が悪かったのか。
 ちょっと落ち込んでしまったが、母は「あのね」と深刻そうに言葉を続ける。
「アンタはいい子よ。でもちょっと抜けてるのよね。人がいいって言うか。間抜けって言うか」
「褒めてんの、けなしてんの」
 もしかして今日は招木の母ではなく息子に喧嘩を売るつもりなのかと思っていると、母はふと表情を複雑そうなものにした。一瞬泣きそうに見えてどきりとした。
「褒めてんのよ。あんまり人を信じすぎたら駄目よ。世の中いい人ばっかりじゃなくて、悪い人だっているんだから。昔から人の言うこと丸呑みして信じちゃうんだから」
 困った子ね。と言う母の声は寂しげで、まるでもう会えないかのような響きに聞こえて胸が締め付けられた。
「今日がお別れやあるまいし。そうしんみりすることないやないですか。おめでたい門出ですやろ」
 沈みそうになっていた空気を変えたのは、招木の母の言葉だった。
 深刻そうな寿家にやや呆れているようでもあった。
 母は大人しく「そうですね」と言っては苦そうに笑った。窘められたのが決まり悪そうだ。
「久幸君。うちの子を宜しくね。もし困ったことがあったら遠慮なく言って。私からも言い聞かせるから」
「分かりました」
 久幸は母に任せて欲しいと言うように頷いている。
 まるで自分が頼りなく久幸の負担に思われているようで面白くない。
 ふて腐れていると意外にも招木の母から声を掛けられる。
「灯君。うちの子はしっかりしてるけど、昔病弱やった名残か。季節の変わり目によう体調を崩すんよ。でも平気やって顔して隠したがるから。ちょっとだけ気ぃ付けて見てやってくれへんやろか」
 昔病弱だったという話は聞いていたが、今はその名残はなくなっていると思っていた。
 そう簡単に改善出来るものではないようだ。
「そうなんですか。分かりました」
 隠したがるというのは問題だ。それは同居している人間が注意深く見なければ分からないものだろう。
 しかし体調が悪いなら休めばいいのに。頑張り屋なのだろう。
「宜しくね」
「はい」
 招木の母に頼られたのが嬉しくて、灯は力一杯返事をする。自分の母に駄目出しをされ続けた後なので余計に気合いが入った。
「じゃあもう帰るけど。ちゃんと真面目に生活するのよ」
「二人仲良うね」
 後ろ髪を引かれるような顔で、二人は帰っていった。
 前まではその背中について自分たちも帰っていった。だが今日からは見送る側なのだ。
 そして隣にいる人の帰りを待ったり、送り出したり、また逆の立場になったりするのだろう。
 ちらりと横を見ると久幸もまた新しい感覚を味わっているのか。それともようやく静かになったとでも思っているのか。深く息を吐いた。
「やっと帰ったな」
 完全に後者の気持ちだったらしい。
 どうやら久幸にとって二人は騒がしかったようだ。主に灯と灯の母のせいだろうが。
「そーだな」
 二人して玄関に立ったまま、静寂を漂わせながら目を合わせた。
 すると久幸は口角を上げて手を差し出して来た。
「これからよろしくな嫁さん」
「こちらこそよろしくな奥さん」
 ぎゅっと握手をしながら、二人とも自分の発言を撤回しない。
 数秒その笑みのままで固まったのだが、先に限界を迎えたのは灯だった。
「だからなんで両方嫁なんだよ!旦那はいないのかここには!むしろ両方旦那だろうが!」
 握手をふりほどきながらそう叫ぶと久幸は愉快でたまらないというように笑い声を上げた。
「楽しそうなだなおまえ!おまえが嫁呼びを止めない限り俺はおまえを奥さん呼びするからな!」
「オッケーオッケー」
「何も良くない!」
 嫁も奥さんも他人からしてみれば異様なだけだ。
 いい加減止めろと何度目になるか分からないことを言っていると、久幸はパンパンと手を叩いた。
「さて何から手を付けますかね」
 笑いを収めながら久幸は雑然とする部屋を振り返る。
「そりゃ寝るところの確保じゃないか?」
「そうだな。布団敷くところ作らないとな」
 一日では到底片付かないだろうという荷物の山を前に、二人は新しい空気を吸い込んだ。






TOP