きつねツキ   2




 狐が出る夢というのはもはや馴染みの深いものに近くなっており、出てきても何も思わなくなっていた。
 けれどその中に狐の面が混ざるようになったのだ。
 伏見稲荷の土産屋で買ってしまった、あの可愛くも格好良くもない、何故これを選んだのか自分でもよく分からないあのストラップだ。
 あのストラップを買ったことが自分の中でよほど腑に落ちない。もしくは後悔していることなのだろうか。だからこうして夢に見てしまうのか。
 そんなことを思っていたのだが。それは次第に人間の形を取っていった。
 白い狩衣を纏っている小柄な、というか子どものような人間が狐の面を着けている。
 黒髪は長く、一つにくくられているようだった。根本には飾り紐があり、それは深紅だった。
 宮司か何かに思えるけれど、十二歳ほどに見える年頃の子が宮司というのも奇妙だ。
 それを言うのならば夢なのだから何でもありではある。
 大体赤やら白やらの狐が出てくる夢を見ている時点で現実味はない。
 気味が悪い。
 そう嫌がる夢であるはずなのに、不思議と不快感はなかった。
 神社から何か持って来てしまっただろうか。憑き物というものがこの世にあると信じている人種は一定数いるらしく、自分はそれを信仰しているつもりはないのだが、あってもおかしくないかも知れない、という朧気な感覚はある。
 なのでこの夢に対して自分は何か背負ってしまったかも知れないという、漠然とした認識を持っていた。
 かと言って怖がるつもりもなかった。
 起きている間に何かとんでもない事故、事件に巻き込まれて困ったというのならばともかく。尚基の日常は平凡に過ぎているばかりだ。
 近頃あった一番の不幸は寝起きに牛乳パックを倒してしまって三割ほど床に零してしまったくらいだろうか。
 こんな些細なことを祟られていると騒ぐほど切迫していない。
 さてこれはいつまで続くのか。
 暢気にそんなことを思っていると、日数が過ぎるにつれて狐面の人間が喋り始めた。
 最初に何と言ったのかは分からない。あまりにも不鮮明だったからだ。
 小さすぎる音は尚基には聞こえなかった。
 だがその人間が現れると、白い影も視界に過ぎるようになった。
 何だろうと思っていると、それは時折ひょいと手前で立ち止まるようになった。
 真っ白な狐だ。
 小型犬ほどのそれが幾つも目の前を過ぎる。
 野を駆け回る狐。秋の野原、豊作の田んぼ、稲の波を泳いでいる。
 そんな印象を受けた。それまで自分がどこにいるのかも分からなかったというのに。稲を頭に浮かべると、一面は山の麓に変わっていた。
 しかも秋の夕暮れだ。
 見たこともない田んぼ。どこまでも続く稲。人が通るであろう細い道もなく、あるのは水の流れる川、そこから水を引いてるのだろう、細い流れの筋。近くには落ち葉の色に染まりつつある大きな山。
 地上も空も何もかも金色だ。
 目の前にいる人間が来ている狩衣も、金色に染まっている。
 一匹の狐がその人間の足下に座った。まるで忠犬のようである。
(白いから、あれが犬ならシロだな)
 そんな安直なことを考えていると、視界でトンボが飛んでいった。そしてもう一匹のトンボがそれに寄り添っては田んぼへと下りていく。
「名前」
「え……」
 きっちりと、それは単語として聞こえてきた。
 夢の中に出てくる者が尚基に対して理解出来ることを発したのは、これが初めてのことだった。
「名前、欲しいな」
 子どもであるとも、大人であるとも思えるような声。性別はまだ分からず、もしかすると声変わりなども済んでいない少年のものかも知れない。
 けれど人間の声であることは感じられた。
 それが名前が欲しいと言っているのだ。
「名前って……」
 何故そんなものを欲しがるのかと思っていると、狐面の人間は尚基に近寄ってきた。
 田んぼを踏み分けているのに、足音も水が跳ねる音も聞こえない。稲たちはその人間が歩くのを妨げることがないように自ら動いているかのように、左右へと稲穂を傾けている。
「僕も名前、欲しいな」
 その人間は尚基の真ん前までやって来ては顔をすり寄せた。狐面の目に当たる部分には穴が開いており、そこから人間の瞳が見えた。
 ストラップにある狐面と同じお面なのに、やはり人間が着けるためであろう。のぞき穴があるなんて。
 尚基はその奥にある双眸を見て、言葉を失った。
 視線が絡んだ時、その虹彩は赤だった。
 血の色。そうとっさに思ったのだが。次の瞬間にはそれが金色へと変わる。
 黄色ではない。明るさを帯びてはその光そのものを宿す輝きとしての金。
 生き物として有り得ない色彩だ。
 だがそれも色を混ぜて変革をもたらせるようにして、黒へと塗り替えられる。光が闇を含み己を受け渡したようだった。
 訳が分からない。
 けれどその異様な瞳の色を、美しいと感じた。
 畏敬と共に魅了される。
 硬直していると狐面はこくりと首を傾げた。
「あのね。名前ないと、悲しい」
 蠱惑的ですらある瞳を突き付けているというのに、口調は拙い。その違いに尚基はようやくはっと我に返った。
「名前……って」
 悲しいと言う人の声は沈みきっており、泣き出しそうにも思えた。ここで泣かれるとさすがに夢見が悪い。
 だが名前と言ってもとっさに何を着けろと言うのか。
(そんな、他人の名付けなんていきなり出来ないだろ。名前なんて……そんなの)
 まさか白い着物を纏っている上に、足下には白い狐が寄り添っているからシロなんて言うわけにはいかない。
「シロとか、ペットの名前かよって話だよな」
 人に向ける名前ではないだろう。
 そう思うのだが、どうやら口から出てしまっていたらしく。目の前にいた人は「シロ」と尚基が思っていた単語を告げていた。
「それが吾が名」
 笑った。
 それまで暗かった声は一気に弾むように明るいものになり、足下にいた狐はいきなり飛び上がったかと思うとひょいひょいと田んぼを跳ねる。
 他の狐たちも皆踊るように田んぼの中で高く跳び回っている。
「繋がった」
 そう言うとその子どものような人間は狐面に手を着けた。そしてゆっくりとそれを外す。
 面を着けている者というのは、大半がその下は人に見られてはならないものであるらしい。醜悪であったり、自分を隠さなければならなかっり。秘められるものだ。
 なので直視しても良いものかと思ったが、尚基の意志など関係なく面は外された。
 柳のような緩く弧を描く眉が見え、あの色を次々に変えた瞳が見える、というところで夢は切断された。



 変な夢だった。どうしてあんな夢を見るのか。
 目覚めるとそんな感想を抱いて、だがすぐにまぁいいか、と呆気なく考えるのを放棄して一日を開始する。
 それが尚基の朝だ。
 だが今日はそれが少し、いやかなり違っていた。激変と言っても良いだろう。
 張り付くようなまぶたを上げると目の前に人の顔があったのだ。
 少女のようにあどけない、可愛らしい顔。大きな瞳は金色で、尚基が起きるのを見た途端に柔らかく細められた。
 微笑んだのだということは小さな唇が作った形からも分かった。
 驚愕が過ぎると声も出なくなる。
 寝起きだというのに全身に冷水を浴びせられたような衝撃を受けた尚基は、しばらくその顔と見つめ合う羽目になった。
(……夢、か?)
 そうでなければおかしいだろう。
 ここは学生がよく入るアパートの一室。ぼろく脆いとは言えちゃんと鍵も付いており、昨夜もきちんと施錠をした。チェーンもかけたし窓も閉めていた。
 もうじき窓を開けて寝なければ暑いだろうと思うのだが、開けたところでここは三階、目の前は人様の拓けた庭だ。家自体はこぢんまりとしているのに庭はやたらデカイというちょっと変わった家である。壁をよじ登ったとすればかなり目立って警察に通報されるだろう。
 それ以前にその人の見た目を見て、壁を伝って上がってくるのが無理だと分かる。
 細く小柄な身体はどう見ても成人しているはずもない年齢であり。着ている服は白い着物。狩衣だ。
 裾も長く、袴に至っては足の形が分からないどころか動くのにも支障が出るのではないかと思うほど膨らんでいる衣装だ。
 尚基もこんな近くで狩衣を見るのは初である。
 しかも真っ白。
 とっさに死に装束を連想させるほど澄み切った白である。汚れ一つない服で外から不法侵入など出来はしない。
 では何だというのか。
 それにこれはさっきまで夢の中にあった人、そのものではないのか。まさか夢の中から這い出てきたというわけではあるまい。
(貞子的な何かでもないだろ!?)
 テレビではなく夢の中から出ました、と展開だというのか。冗談ではない。
「な……に…?」
 ようやく出てきた、呟きのような声。
 遠退きそうになる意識で絞り出した問いかけに、その人は笑みを深くした。
 ようやく喋ったと喜ぶような表情だ。
「ずっと夢で会っていた」
「夢……」
 やはりあの夢なのか。あそこにあった人物であると主張するのか。
 自分の頬を叩けば、新しい目覚めが訪れるまではないかと思うのだが。残念ながらどくりどくりと緊急事態に驚いたままの鼓動が鮮明に感じ取れる。
 寝ぼけているというわけでもないらしい。
「そう、夢の中にいた狐」
 その人、いやきっと人ではないだろう者はそんなことを言った。
 まるで自分は狐であると言うように。
「狐って……」
 どう見ても人間ではないか。ただし瞳の色はおかしいが。
「狐の姿の方がいい?それも成れる」
「いや、待て、その」
 俺から現実を奪わないでくれ。と理性が懇願するのも聞かずにそれは立ち上がった。
 やはり立っても小さい。確実に子どもだ。
「見せた方が早いよ」
 そう宣言するとその者は高く跳ねた。それは夢の中にいた狐が田んぼの中で跳ねていたことを彷彿とさせる動きだった。
 意外なことにそれは器用に宙返りをする。そして再び畳の上に降り立ったのは、別の生き物だった。
「狐………」
 子どもであったはずだ。なのに何故、それが降り立つと狐になるのか。どこで変わったのか。
 尚基の目には何も理解出来なかった。
 ただあるのは真っ白で豊かな毛並みを持つ狐がそこにいるという事実だけだ。
 唖然とする尚基の顔が面白いと言うように、狐はこちらを見たかと思うと潤んでいるかのように見える金色の瞳を細めた。
 それは数分前にあの子どもが見せた笑顔と酷似していた。