偶像の鎖   11




 パスポートがと聞こえた。
 日本語に反応してまぶたを上げると、部屋の中に二人の姿があった。
 一人は不動。もう一人は充だった。
 不動の手にはパスポートがある。真新しいそれは螢の物かも知れない。
 身体を起こすと非常に全身が怠いのだと感じさせられる。
 無理もないだろう。
 情事は全身運動。何ヶ月も部屋に閉じ込められていた人間が数時間にわたって交わっていたのだ。きしみもする。
 そのせいで、隣に寝ていただろう不動が起きて動き始めても全く気が付かなかったのだ。
 それまでなら人の気配に気が付いて一瞬でも目を覚ましたものだ。
 今日は動きたくないな、そう思って溜息をつくと充がこちらを見た。
 そして呆れたような表情を見せた。
 螢はとっさに自分の身体に触れるが服は一応纏っている。どうやらその表情は螢がみっともない格好だから、というわけではないらしい。
「…不動。最初からこういうつもりで拾ったんじゃないだろうな」
 充の呆れた眼差しは疑惑に変わり、今度は不動へと向けられた。
 螢がベッドに横たわって眠っている。というだけで充は不動と螢の間に何があったのか察してしまったらしい。
 どうしてだろう。
 体調が悪かったから不動のベッドを貸して貰っていた、等の理由は考えないのだろうか。
 首を傾げると充は螢を再び見ては首もとを指さした。
 そこに何があるのか。鏡を見なくとも昨夜の記憶を探るだけで分かる。
 首、腹、耳の近くにもそれはあるはずだ。
 ただの同居人であるなら存在するはずのない痕跡だ。
 螢は外に出られないと充はきっと知っている。螢の現状を理解しているのなら、当然の事態だからだ。
 なら、その痕跡を付けたのは一人しかいない。
「半分だ」
「半分!?犯罪っぽい!」
 不動は平然と答えた。
 初耳だった。こんなつもりがあったなんて。
 ここで暮らすようになって、不動がそんな素振りを見たことはなかった。
 そんな感情をちらつかせたこともない。
 だから螢は今までずっと不動は飢えた生き物を見て同情と哀れみで接しているのだと思っていた。抱きたいなんて考えがかけらでもあるなんて、想像もしていなかった。
「成人している。無理強いもしていない」
 充に責められ、不動は心外だというような口調だった。
 確かに螢は成人している。何歳なのかも分からないほど生きている。それに不動に抱かれる際には意志を問われた。拒みはしなかった。
 頷いて、受け入れたのだ。
 もっとも、一度快楽を得てからは自分からねだりまでしていたのだ。
「だからって付け込んだんじゃないのかよ」
 行く場所のない人間を拾って世話をし、懐き始めた頃に手を出す。
 効果的なやり方だろう。
 不動が最初からそれを狙っていたのかどうかは知らないけれど。
 無表情な男がその顔の下で着々と計画を進めていたのかと思うと面白い。
「手段だ」
 それも一つの手だろうが。と不動は当然のごとく告げた。
 一方充は顔をしかめた。
「いいの螢さん。これで」
 騙されているんじゃないのか。というような様子で充は問うてくる。
 だが螢の口元には笑みしか浮かんでこない。
 たとえ不動が出会った時から策略を巡らせて螢に手を出したとしても、嫌な気分は全くない。
 むしろ最初に不動のものを口にくわえた時に不快感以外の感覚を与えられたかも知れないと思うと救われるような気分さえあった。
 だから悪いことなんて、一つもない。
 螢の表情から気持ちを理解したのだろう、充が溜息をついた。
「子どもみたいに笑って…螢さんって言うより螢ちゃんって感じだ」
   やれやれというように充が肩をすくめた。
 螢は自分がちゃん付けで呼ばれたことに面食らう。
 そんな風に幼い子のように扱われるのは久しぶりだった。この国に来たばっかりの頃は年下に見られることが多く、軽々しく接せられたかここ何年もそんなことはなかった。
 距離を置かれ、無駄な尊敬を向けられるばかりだった。
 懐かしさを覚えて、笑みが深くなる。
 遠ざけられるより、親しくしてもらったほうがずっと嬉しい。
「お前より年上だ」
 ちゃん付けが出来るような年齢ではないと言うように不動が告げた。
「見た目で年分かんないならいいだろ」
 螢の外見は二十を少し過ぎたくらいだ。
 充ともさして差があるように見えない。なので螢ちゃんと呼ばれてもさして問題はないだろう。
「いいよ、それで」
 男にちゃん付けというのはどうなのだろうかと思う気持ちもあったのだが、充がそうしたいのなら好きにすればいい。
 他に関わりのある人間もいないことだ。外聞を気にする必要もない。
 充は、勝ったと誇るような目で不動を見た。けれど見られた方は何の感情も表さない。そんなに興味があることはではないのだろう。
「それで、いつ帰る?」
 会話は切り替わり、充も真面目な口調になった。
 日本へ帰国する予定を立てるのだろう。
「明日でも構わない」
 そう言いながら不動は持っていたパスポートを螢に投げた。
 すぐさま受け取る。くすんだ赤をした小さな手帳。懐かしい模様が刻まれており、あの国を象徴するのはまだこの花なのかと感慨深くなる。
 開くと中には冴えない顔をした螢の写真があった。
 名字は笹淵になっている。
 生まれは不動の一つ下だ。きっと充が螢を見て想像した年齢なのだろう。
 いざ手にしてみても、これで帰国出来るのだという実感は薄い。
 もう何十年もあの地に戻っていないのだ。こんな小さな手帳で本当に戻れるのか。
「それは早すぎる。俺の都合もあるんだから。早くても明後日だ」
 今日パスポートを手にして明日帰国するなんて、性急過ぎる。
 だが不動にしてみればこの国にはもう用がないらしい。なのでここにいても時間が無駄に過ぎるようだった。
 螢にとってはその性急さがありがたい。
 一刻も早くこの地を離れなければ、何がきっかけでここにいることがあの子に知れるか分からない。
「向こうで急ぎの用でも出来た?早く帰ってこいって言われたか?」
 充は不動に疑問を投げるが返ってくるのは「いや」という素っ気ないものだった。
「ここには用がない」
 不動は、それだけのことだと暗に言っていた。
「螢ちゃんは?」
 この男はそういう人間だと諦めたのか、充ははいはいというやる気のない返事をして螢を見た。
「少しでも早い方がいい」
 留まっている時間が長ければ長いほど、螢の情報が漏洩する。
 そしてあの子が気付いてやってくる。
 だから早く逃げなければ。
 今ならば何も掴まれていない。螢がどこで何をしているのかなんて、きっと知られていない。
 だから知られていないまま、この国を出るのだ。
 あの子もきっと国を出てしまえば追っては来られない。
 せいぜい国内が限界だろう。
 螢が昔日本で暮らしていたことは話しているから、もしかすると日本に帰国したかも知れないと想像するかも知れないが。狭い島国であったも人口は半端ない数の国だ。
 どこにいるかも分からない螢を探し出すことなど不可能に近い。
 きっと探し求めている間に、あの子の人生は終わる。その前に諦めて欲しい。
 立ち去った者に価値はなかったのだと気が付いて欲しい。
「なら出来るだけ明後日で。準備はさっさとするけど、延長の可能性はあるから」
「早くしろ」
「無茶言うな!俺にだってやることが色々あったんだよ!」
 充の怒りはもっともだと思う。
 今日明日でさっさと帰国出来るのは数日間しか滞在しない旅行者くらいのものだろう。
 明後日くらいには日本に帰る。
 そう言われ、螢の脳裏には山々や川の流れ、一面の畑や茅葺き屋根が思い浮かぶ。
「今の日本は……どうなってる?」
 この国でも日本のことは知ることが出来た。
 だからあの頃とは大きく変わっているということは知っていた。
 けれどテレビや写真の中で感じる日本は、螢の頭の中にある国とは結びつきにくいのだ。
「色々変わってるんだろうな……」
 戦には敗れ、人々は武器を捨てた。
 誇りのために命を捨てることを美しさだと言っていた人種は、一体どうなっているのだろう。
「人は人のままだ。そうは変わらない」
 螢の思考を読みとったかのように、不動が告げる。
「そうだろうか……そうかも知れない」
 どこの国にいっても、人の精神の根本は似ているからだ。
 時代がどれほど流れても、その土地にいる限りは変わらない心があることだろう。
「螢ちゃんは昔どこに住んでたんだよ」
「もう覚えてない」
 充の問いに、螢は首を振る。
 不動にも訊かれたけれど、本当に覚えていないのだ。
 当時の日本はどこも似たようなものだった。
 戦戦で、人々からは悲痛さが漂い、物が不足して人がいなくなって。
 閑散としていた。
「ただ、夏は螢がいっぱい見られた」
 過酷な時代に、螢が舞う夜は慰めのように綺麗だった。
 儚く、美しく、夏が終われば死ぬのだと知りつつもずっと見つめていたいと願ったものだ。
 ほんの微かな安らぎだった。
「だから、名前が螢って話じゃないよな?」
 まさかなと充は軽く笑った。だがその目は確信が入っている。
 良い着眼点を持っているものだ。
 螢は曖昧に微笑んだだけで答えは言わなかった。
 不動がくれた名前は、良い名前だと思っている。だから充には呆れずにいて欲しい。
 微かでも光と同じ名を名乗れるのだ。
 人の世の闇ばかり喰って、闇ばかり抱えて、隠れ彷徨い続けているこんな生き物でも。光を口に出来るのだから。
 きっと不動がその名を呼ぶたびに、胸のきしみが薄れる。
 そんな気がしていた。







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