春の終わりを待って  白い朝 8




 園内の四阿でバスケットを広げた。人通りは増えて、賑やかさも増したようだが四阿は園内のメイン通路から外れているので同席者は他にはいない。
 静けさはまだ保たれている。
 さっちゃんを無事、誰にも見咎められずに眠らせることが出来たからか、少女は黙って葵に付いて来た。そしてちょこんと二人の前に座っている。
 肩を縮めて、ここにいるだけで責められているかのように心細そうだ。白々しいほど明るい日の光を受けて、今更ながらに現実感が湧いてきたのか。
 しかし生憎ここには、あの光景を最初から現として目に映し、さしたる衝撃もなく納得している者しかいない。彼女を責めるでも、またこうなってしまった経緯を尋ねるわけでもない。
 曖昧な境界に立ったままの彼女の前に差し出されるのは、ラップに包まれたサンドイッチだ。
 泥を落としてようやく血が乾いてきた指先で、少女はそれを受け取った。震える指先はおそるおそるラップを外しては、まるで食事に慣れていないかのように口を開いて噛み付いた。
 食べることに抗うようなぎこちない咀嚼だった。
 ごくんと、喉だけでなく軽く頭ごと動いたのに嚥下したのが分かる。少女はそのまま一口目より大きく口を開けて、サンドイッチに歯を立てたところで動きを止めた。
 瞳はみるみるうちに潤んでは、大粒の涙がぽろぽろ零れた。
「う……ぅ……」
 嗚咽を零しながら、しかし少女は二口目をしっかり口の中に入れた。噛み締める度に涙は落ちて、少女の顔が歪む。
 さっちゃんを埋葬として、自分の心もそこに置き去りにしたようだったのに。目の前の少女は一口ごとに抜け殻の中身を徐々に取り戻そうとしているようだった。
 自動販売機で買い足したミルクティーを渡すと、少女はぺこりと頭を下げて、そこからはひたすらに食べ続けた。
 サンドイッチがなくなると、葵はクロワッサンサンドを渡した。トマトとベーコンとレタス。シンプルでサンドイッチより大きなそれに、大きな口を開けたかぶりついた少女に、葵は肩の力を抜いた。
 そしてようやく二人もバスケットの中身に手を伸ばす。
「……ぅ……っ」
 土で汚れた服を着た中学生くらいの少女が、泣きながらクロワッサンを食べている。その向かいに黙って座っている二人の男。
 異様な光景だろう。通りすがりがちらちらと心配そうに、時に不審そうに見てくるのは察している。けれど取り繕う気も、喋る気にすらならなかった。
 死にたいと願った人間が、今必死に生きようとしている。
 エネルギーになる食事を自ら取って、さっちゃんという大切だっただろうものを失った現実を理解しようしている。
 したくないと足掻きながらも、分かってしまう葛藤を抱いているだろう少女の妨げになるのは、少し勿体なかった。
 葵も同様だろう。少女を見守るように大人しく食べている。常よりずっと食べるスピードが遅い。
 奇妙な沈黙は、少女が涙を拭いながら呟いた一言で途切れた。
「……美味しい」
「ノアのお母さんが作ってくれたんだ。このタラモサンドも美味しいよ。ポテトとたらこのマヨネーズサラダが挟んであるんだ。ノアのお母さんのポテトサラダはほくほくで全部美味しいんだけど、俺はこれが一番好き。あとベーコンサンドも、厚切りベーコンが外側カリカリ、中央は肉感ジューシーで最高なんだよ」
「人の母親のサンドイッチをおまえが自慢するのか」
 少女が美味しいと呟いたのが相当心に響いたらしい。葵が堰を切ったように喋り始める。
 これもこれもと次々サンドイッチを勧めるのに、少女はびっくりして固まっている。
 それもそうだろう。先ほどまでの重苦しい沈黙が一瞬で霧散したのだ。のほほんとした雰囲気へと空気が変わり過ぎた。
「ノアのお母さんのサンドイッチは俺もよく食べてるから!詳しいよ!」
「さっきまでのミステリアスなイメージはどこにいった」
「何それ」
 きょとんとしている葵は人間に構って貰って尻尾を振っている子犬のようだ。十数分前は異形の気配を漂わせていたというのに。
 すっとぼけた葵の様に、少女も涙が引っ込んだらしい。瞬きをしても涙は落ちず、代わりに僅かに苦そうな笑みを浮かべた。
「お母さんが作ったサンドイッチなんて初めて食べた」
「君のお母さんはあんまり料理をしない人?」
「しない。ご飯はおばあちゃんが作ってた。だけどおばあちゃんは一昨年に死んじゃった。去年は親が離婚して、お父さんも出ていって、今はお母さんと二人で暮らしている」
「お母さんは土日が仕事なの?」 
 土日は帰らなくても誰にも分からないと言っていたことを思い出したらしい。それに少女は顔を歪めた。
「彼氏のところに行って帰ってこない。だからお父さんに捨てられたの。お父さんは私も、誰の子どもか分からないからいらないって」
 言われた時を思い出したのか、忌々しそうに吐き捨てる。
 仲の良い夫婦に育てられた葵には想像もしていなかった答えなのだろう、サンドイッチを食べる手が完全に止まっている。
「でも平気。お母さんはあんまり家に帰ってこないけど、お金は置いて行ってくれるから。ちゃんとご飯が買える。家には誰にもいないから、殴られることもない。でもさっちゃんは、そうじゃなかった」
 そこで少女は黙った。
(そうじゃなかった)
 少女の家庭環境ですら二人にとってはかなり非情だ。けれどさっちゃんはそれを上回ると告げられ、葵は明らかに動じていた。
 大好きなタラモサンドの味も分からないらしい。気まずそうにもそもそと咀嚼している。いつもならばバスケットの中身はすぐ空になるのに、少女が一人増えたというのになかなか食べ終わらなかった。
 ミルクティーを飲み干すと一息ついたらしい。少女はぽつりぽつりとさっちゃんについて語り始めた。
 さっちゃんの母親は早くに亡くなり父親と二人暮らしをしていたらしい。父親はろくに仕事をせず、祖父母から送られている金で酒を飲んで暴れるのだという。おそらくアルコール中毒なのだ、素面の時は目がうつろで手が震えるらしい。
 ずっと家にいて、ふらりと出掛けたと思えばギャンブルをし、負けると娘に暴力を振るったそうだ。
 いつも家に金はなく、中学生になると父親はさっちゃんに金を稼いでこいと言うようになった。金を持って帰らなければ父親はさっちゃんを殴るらしい。けれど中学生に出来るバイトなんてそうある訳がない。
「だからさっちゃんは、身体を売ったんです」
 少女の瞳は虚ろに戻っていた。
「パパ活なんてものじゃないです。売春だって言われて、補導されました。警察官もさっちゃんに説教をしたそうです。だけど、誰も助けてくれなかった。そうしなきゃ生きていけないのに、責められるんです」
 どうしてですか?
 少女は両手で握っていた空になったミルクティーのペットボトルを凝視していた。そこには何もないはずなのに、さっちゃんを苦しめた光景が映っているかのようだ。
「そんなさっちゃんにも好きな人が出来たんです。今年同じクラスになった人らしいです」
 それからさっちゃんは少し元気になったという。
 教室でその人を見ている時だけは、その人が好きだと思っている間だけは普通の女の子でいられる。
 そう教えてくれた。
「だけど好きな人に、街中で年上の男の人と歩いているのを見られたらしいんです。さっちゃんはその人に見られてるのに気が付いて、すごくびっくりして、逃げ出しちゃったそうです」
 そしてその動揺こそが、その男の子に真実を勘付かせてしまったらしい。
 父親と歩いているだけならば逃げる必要なんてない。せいぜい照れくさいだけだろう。
 異様な反応をしてしまったことは、きっとさっちゃん自身も気が付いてしまったはずだ。
「さっちゃんはもう二度とこんなことはしたくないとお父さんに言ったそうです。これまで何度も、何度も言ったことでした」
 そしてそれはいつも暴力でねじ伏せられた。
 今回も例外ではなく、いつも通り、いやいつも以上の理不尽さでさっちゃんを殴打した。
「電話がかかってきて、もう死ぬんだって。こんな世界、嫌だって。なんで私だけ、いつも私だけって。生まれてくるんじゃなかったって……」
 喋りながら、少女は再び瞳を潤ませた。
「桜になりたかったって言って……電話が、切れたんです。そしてもう繋がらなかった。まさかと思って」
 あの桜の元へ辿り着いたら、さっちゃんはもう二度と喋らなくなっていたのだろう。
(どうして私だけ)
 何故、どうして、自分だけ。
 ノアはその不条理さに憤怒と恨みを込めていた。
 それはきっと葵がいたからだ。葵という救いが傍らにあったから。だからいっそう苛々しながらも折れることなく生き続けていた。
 それにいざとなれば全部壊してやるという、怨嗟を秘めた力もあった。
 救いがなければ、力がなければ、ノアという人間がまだこの世にあったかどうかは分からない。
「なんで、さっちゃんだけ」
 失った人と同じ疑問を抱き、少女は頬を濡らした。
 答えはどこにもない。
 憐憫を少女に向ける葵も、そんなものは持っていない。
(最後の願いが叶えられたことが救いか?)
 そう思い、だがすぐにそんなものは何の救いでもないと冷めた頭で理解していた。
 



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