春の終わりを待って  白い朝 7




 少女の嗚咽に共感するように、葵も泣き出しそうな目でこちらを見てくる。
元々隣にいたのに、更にぴったりとくっついてくる。
 支えを求めるような仕草に、軽く背中を叩いてやる。
 自分で望んでここまで来たのだ。思っていたよりずっと深刻で厳しい結果だったのかも知れないが、今更逃げ出すわけにはいかない。
 葵はぎゅっと目を閉じた。そして意を決したのだろう、少女の前に膝を折った。
 ちなみにノアの手首を掴んで、道連れにするのも忘れなかった。おかげで近付きたくもない彼女たちを目の前にする羽目になる。
「君はさっちゃんの家族?友達?」
「……同い年の、従姉妹、です。だから、さっちゃんが、どんな風に生きてきたのか、知ってます」
 しゃくり上げながらも、少女はちゃんと答えてくれる。
 それは従姉妹が自死したと知りながらも、現実逃避をするでもなく、しっかり死を見詰めているようだった。
「だから驚かないの?」
 葵も同じことを感じたのだろう。
 この子かせ悲痛さは伝わってくるけれど、さっちゃんの選択に対する「何故」という疑問は含まれていないようだった。
「驚いた、驚いたけど、いつか、こうなっちゃう気も、してました」
 ああ、やっぱり。
 そんな落胆が少女に襲いかかったのだろうか。
「どうしてさっちゃんをここを埋めるの?」
「……さっちゃんは、自分が死んだら桜の下に埋めて欲しいって、そう言ってたから。春になったら色んな人に綺麗だ、綺麗だって言って貰えるから……そして綺麗なまま散って、もう少し見たかったって、みんなに思って貰えるから」
 春になると与えられる賛美は、さっちゃんの耳にはよほど甘美に響いたのだろう。
「汚い身体から抜け出して、桜になりたいって言ってました……ここに埋めたからって、桜になれるかどうかは分からないけど」
 分からないが、そうせずにはいられなかったのだろう。
 この身体から抜け出して桜になりたいという願望は、笑い飛ばせる妄言として聞き流すには、僅かに引っかかった。
 ましてさっちゃんの姿を前にすると、皮肉も出てこない。
「桜になれるかどうかは分からないけど。桜の下で死にたいって気持ちは叶えられるね」
「でも太い根っこがたくさんあって、深くは掘れないんです。浅いと見付かっちゃうかも知れないのに」
 少女が掘った穴は浅くはないが、人を埋めるとなると確かに深さが足りないだろう。相当深く埋めなければ野良猫などが掘り起こすかも知れない。雨が降れば土も削れ、もし軽く土砂が流れてしまえば、それはいとも簡単に現れてしまいそうだ。
 太い桜の根は少女の願いを妨げては立派に地中を這っている。避けようにも範囲は広く、切るには太すぎる根だ。
「……黙っていられる?」
「何を?」
「さっちゃんがここで亡くなったこと。そして桜の下で眠ること。誰にも言わず、ずっと黙っていられる?」
 葵は立ち上がり、少女を見下ろした。
 声音は労るような響きを含んだままだが、眼差しには哀れみが消えていた。
 感情が窺い知れない。一見無機質にすら見えるけれど、瞳の奥に怖気立つような何かが凝固している。
 おそらく人間にとっては得体の知れない力の固まりだ。
 本能が危機感を覚えたのか、少女は身体を縮めるように硬直した。気圧されて視線を外したくとも外せない様子だ。
「これから誰かがさっちゃんを探すだろう。行方不明になったら、警察だって捜索するかも知れない。きっと君も事情を訊かれる。それでも黙っていられる?いられるなら、力を貸してもいい」
 恐怖に縛り付けられている少女に、葵は問いかけ続けた。
 ちゃんと聞いているだろうかと疑いたくなるほど、少女は微動だにしなかった。
 だが葵が口を閉ざしてしばらくすると、深呼吸をした。吐息が震えて、喉がしゃくり上げる。
 それでも瞬きをした後の少女は、毅然とした態度を取った。
「さっちゃんは、探されない。警察だって、動かない。だって捜索届を出さないと、警察は動かないでしょう?誰もそんなの出さない。きっと、誰も」
 求められていない。
 それが事実であるのかどうか、ノアには判断が出来ない。
 けれど少なくとも少女にそう言わせている背景があるのだろう。そう思わずに居られない場所に、さっちゃんは立っていた。
(だから)
 どんな顔立ちをしていたのかも、今となっては分からない華奢な女の子は、亡骸になるかしなかったのか。
「誰にも言わないから。黙っているから。だからさっちゃんを桜の下で眠らせて」
 もう十分じゃないか、十分この子は苦しんだ。
 そう悲痛な訴えを聞いているようだった。
「うん。分かった」
 葵は軽く聞き入れると桜の幹へと手を置いた。
 何をするつもりなのかと、少女が怪訝そうな目をするけれど、ノアには葵の中に桜の気が入っていくのが分かる。
 桜と同調しているのだ。
 体内に、意識の中に流れ込んでくる分、桜の中へと自分の気を流し込んでいる。混ざり合っていくそれに、葵の気配も変化していく。
 人間の形を超えて、もっと大きく広い捉えどころのない異形へとマーブル模様のように混在しながら変わっていく。
 葵はノアを手招きした。
 栗色の瞳が赤みを増しているのを見ては、ふらふらと桜へと近寄っていた。そして幹に手を置くと、吸い込むつもりもないのに桜の気が体内に入ってきてはノアの中へ吹き荒れる。
 意識が一瞬飛びそうだった。だがすぐに現実へと引き戻される。葵の顔が間近にあったからだ。
 視界にその瞳が映ると、何より意識は葵に向けられる。
 桜を通して、自分という生き物の輪郭がぼやけていく。意識だけが抜き取られて、桜と葵に溶け込んでいく。
(この身体は邪魔だ)
 そう思う。だが葵が空いている片手でノアの手を握るから、肉の器が捨てられない。
(あっ……)
 葵は不意に目を閉じた。瞳が見えなくなったのを惜しんでいると、地面が揺れた。
 地震かと思った。しかしそうではない。地面の下にある桜の根が意志を持って動き出したのだ。
 平たい土を割って、ずるりと頭をもたげるように茶褐色の根が気怠そうに少女が掘った穴から出現する。蛇か、もしくは触手のようなそれは、一本ではない。次々に起き上がる。
 太さはバラバラだが、全て穴の下から、穴の深さ広さを拡張するように現れてきたことは共通していた。
「何これ……貴方、何者なんですか……?」
 愕然としながら、少女は尋ねる。
「答えない。もし答えが知りたいと言うなら、俺はもうこれ以上何もしない。根もこのまま。一人でさっちゃんを埋められる?」
 土台無理なことを言う。
 埋めるだけならばともかく、桜の根も持ち上がったままで放置すれば、異様な光景に騒ぎになる。掘り起こされた跡も誰かが見咎めては、何が埋められたのかと関心を示すはずだ。
 そこから起こり得る最悪の想像を少女もしたはずだ。
「……何も聞きません。死ぬまで黙っています」
「それがいいと思う」
 葵は桜の幹から手を離しては、さっちゃんの前に膝を突いた。そしてさっちゃんを抱き上げては、根によって更に深くなった穴へと身体を下ろす。
 桜の根はさっちゃんを受け取るように動いては、そっと棺桶のような穴へと寝かせた。従者のように動く桜の根に少女は圧倒されている。
 けれど葵に言われた通り、何の疑問も口にしない。きゅっと口を結んでいる。
「さっちゃんは太い根の下に入れる。人間では掘り起こせないように、見付からない場所に眠らせるよ。それでいい?」
 もう二度と誰の目にも触れられない場所に、さっちゃんは逝く。
 少女は問いかけられて、両手で顔を覆った。泥だらけの手はよく見ると爪が欠け、指先から血が滲んでいる。
 手の隙間から零れる呼吸は震え、乱れ始めた。
「……私も、私も入れて下さい!私も死んじゃいたい!さっちゃんの横で桜になりたい!独りになりたくない!私を独りにしないでさっちゃん!」
 張り裂けそうな喉で懇願する少女に、葵は表情一つ変えなかった。
「どうして?君は死んでいないのに」
 他意はないだろう。
 だが純粋な問いかけが少女の言葉を塞いでは、残酷なまでにシンプルな現実で彼女を突き刺したのは分かった。
「生きている人間は埋められない」
 意識がはっきりしている状態で桜を動かしたのはこれが初めてであり、人間を埋めた記憶は葵にはない。
 人を害するのに抵抗があるのは当然だろう。まして自分が危害を加えられたわけでもない相手、望まれたところで命を刈り取るのは嫌がるに決まっている。
「……生きて、生きてる……でも」
「生きている。それが君の現実だ。そしてさっちゃんにとっての現実も、迫ってきてる」
「さっちゃんの、現実……?」
「いつ人が上がってくるか分からない。下は、人が増えてきているよ」
 山の下、園内は賑やかになってきている。
 桜の盛りに気まぐれを起こして、いつ誰がここまで上がってきてもおかしくない。
 だらだらと喋っているけれど、薄氷の上に立っているのは間違いない。
「だから、さよならをしよう」
 葵は土の棺桶に横たわる凄惨な子を、二度と会えない人へと視線を送る。無感情だった双眸に、温度が戻ってくる。
 憐憫の色が伝わったかのように、少女も顔を覆っていた手を外した。涙でぐしゃぐしゃになった顔で、ひたむきにさっちゃんを見下ろす。
「……さっ、さっちゃん……」
 呼び声は暗がりの中へと吸い込まれていった。
 涙が落ちても、何の反応もない。
 無情な死だけが揺蕩っている。
 葵はそれ以上、別離を待たなかった。
 桜の根は勝手は分かっていると言わんばかりにさっちゃんの身体に根を絡めては、その上に土を被せていく。
 ノアにしてみればこうして死体を隠す様を見るのは過去に数度あったのだが、葵にとっては初めてだろう。少女と共に食い入るように見詰めている。
 太い根にさっちゃんの顔が被さると、少女はその場に両手を突いては、土に爪を立てる。傷口が深くなり、血が溢れる。歯を食いしばっているのは、指の痛みではないだろう。
(二度と、見付からない)
 この太い根の下にある死体が、つい最近埋められたものであるわけがない。何十年も昔、この桜が植えられる前か、植えられて間もない頃でなければおかしい。
 それではさっちゃんが行方不明になった時期と計算が合わない。
 仮にさっちゃんの身体が発見されても、真相など誰にも分からない。そして誰もここからさっちゃんを引き抜くことは出来ない。
 桜の根はさっちゃんを埋めると、地面の中に大人しく戻っていく。掘り起こされて荒れた地面の表面は、いつかのように細くしなやかな根が出てきては、滑らかに整えていく。
 少女は多少色が変わった地面の、だが何がその下にあるのかなど、ここにいない者には分かるわけもない場所の傍らで虚脱しているようだった。
 涙も止まり、表情が虚ろだった。
 しばらくして、こほと軽く咳をしては溜息のように大きく息を吐く。そして無意識だろうか、喉に手をやった。
 少女の唇は乾燥して、割れている。血が滲んでいる部位もあった。
「喉が渇いた?」
 葵が尋ねると、思い出したかのように、力なく頷く。
「まさか何も食べずに、ずっと穴を掘ってたの?」
「……はい」
 見たところ飲み物らしきものも持っていない。ここに来た時少女が汗だくだったことを思うと、喉が渇いているのも無理はない。
 葵はノアが持っている物をちらりと見やった。
「ご飯、食べようか」
 まさかの提案に少女はぽかんとする。それは初めて少女が何の陰りもない表情を露わにした瞬間だった。
 



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