春の終わりを待って  白い朝 6




 休日の朝、午前七時前に起きてきたノアに母は目を丸くした。平日でもこれほど早く起きないというのに、まして休日だ。
 何事かとサンドイッチを作る手を止めて狼狽えた。
 母は心配性で、何かあるとすぐに良くない想像をするのが困る。おおかた息子が体調を崩して、部屋から助けを求めて彷徨い出てきたとでも思ったのだろう。
 そんなことをしていたのは日本に帰ってくる前の出来事だというのに、未だに忘れていないのだ。
 葵と朝早くから出掛ける、と言うと母は即座に安心した。葵の名前は万能で、葵がいるならばたぶん大丈夫だろうと思い込んでいるのだ。
 まさか葵がいる方が異常を招きやすく、そもそもあれ自体が怪異なのだとは気付くわけもない。
「ピクニックに行くの?」
 笑顔で頭がどうかしているとしか思えない発言をした母に、思いっきり顔を顰めた。さすがに母はノアの性格を知っているので、そんな顔をしても平然としている。
「先々週行った大型公園に行くだけ」
「桜もそろそろいい頃だものね!お弁当を食べるのも気持ち良いわ!」
「いらないから」
 ピクニックじゃない。ただちょっと桜がどれほど咲いたか見たいだけだ。
 そう言う息子の台詞を聞き流し、母はせっせと弁当の中身について考え始める。冷蔵庫を開けては「あれとこれと」と独り言まで始まった。
「必要ないから」
「あの公園なら、お弁当を食べられるところが幾つもあるでしょう?大丈夫、腕によりを掛けていっぱい作るから。葵君の好きなものも入れるわね!あ、勿論ノアの好きなものもね!」
 何も大丈夫じゃない。
 しかし母に抗いきれず、結局大きなバスケットを持って現れたノアに葵は面食らっていた。
 だがこういう状況は何も初めてではない。母は料理が好きな上に、人に振る舞うのを喜びといるタイプだ。
 まして葵が美味しそうに食べては、律儀に毎回感想を伝えるため。こうしてノアは葵のために弁当を運ぶ羽目になっていた。
「何が入ってる?」
 バスケットの中を見せてやると「わあ!」と幼児のような声を上げて瞳を輝かせた。
「サンドイッチ!クロワッサンサンドもある!」
 嬉々とした声に、母がそれを聞きたがるのも分かる気がした。
 食べる前から顔に、美味しい!と書かれているようなものだ。
「スコーンもある!チョコチップ?」
「ああ。朝っぱらから作ってた」
 たまたま目が覚めたから、と母は早朝からスコーンを仕込んでいたらしい。母が作るスコーンは絶品だ、最高だとベタ褒めする葵は笑顔が弾けている。
 まるで散歩に行こうと言われた犬のようだ。
「ノアのお母さんのスコーンは特別美味しいから大好き!」
「だからって持って行きたいか?」
 これが単純に出掛けるだけの場合でも、荷物になる上に男二人でピクニック気分かよという呆れがあるのだが。深夜に送られて来たメッセージから察するに、これから異変を目撃しに行くのではないのか。
 もし気味の悪いもの、気分を害するようなものがそこにあったならば。そう考えると弁当なんて憂鬱の種になるだけではないか。
「……だからって、置いていけないだろ。今日はうちにも親がいるし」
「持って行くしかないのか……」
 小学生の遠足かよ、と毒づいたところで母に届くわけもない。
 さして重くないはずのバスケットが妙にずっしりする。
 溜息を押し殺して電車に乗り、目的地へと向かう。電車内は休日の朝ということでスーツ姿や制服姿は見当たらない。ラフな格好をした人ばかりで、同い年くらいの集団やカップルが目立つ。
 遊びに行くと訊かずとも分かるほどの浮かれっぷりだ。全体的に雰囲気が明るいと感じるのは、春になったせいだろうか。
 自分の体感自体が浮かれているかも知れない。
 車内の陽気な雰囲気に反して、隣にいる葵は常より物静かだった。無言で、目を伏せている。
(辿っているわけじゃないみたいだが)
 あの山にいる桜をこうしている間も感じ取っているのかと思ったのだが。探るような気配が葵からは感じられない。
 こうして密着して隣にいると、葵がやろうとしていること、思考の一部もほんのりと感じ取れる。風のない湖の水面のように凪いでる心境に、これから一体何を見に行くのだろうかと、こちらの方が揺らいでしまいそうになる。
(変なところで俺より先に行く)
 本性が強い葵は、これまでノアが十六年をかけて磨き、コントロールした本性を僅か三ヶ月ほどで身に着けようとしていた。
 それは本来ならば待ち望んでいたことだ。思い出せと迫り続けた願いが実ったに近い。
 けれどあまりに鋭敏で、肉の器から乖離していくのではないかという一抹の不安が消えない。
 人の身体を持ち、人の中で生きるのならば、鋭敏になりすぎるその性質はいつか葵の重荷になるのではないか。
「なに?」
 視線に気が付いたのか、それともノアの揺らぎを感じ取ったのか。
 問いかけに素直に不安を伝えるのは憚られた。口にすれば事実になってしまいそうだった。
「あそこに何があるんだ」
「……何だろうね」
 本来の疑問からずれた、けれど今二人が動いている目的を尋ねる。
 すると葵は苦そうに呟いた。良くない気配がするのか、それともノアが答えをずらしたのに気が付いたのか。
 どちらにせよ、葵はまた黙りこんでしまう。
 結局電車が下りるべき駅にホームに辿り着くまで、それっきり二人は口を閉ざして座っていた。のどかな春の朝には少し似合わない雰囲気だった。
 公園に辿り着くと葵は迷わず敷地の奥、山へとずんずんと突き進む。公園の内部はご高齢の方が散歩をしている姿がよく見られた。以前来た時には家族連れやカップルが多かったけれど、彼らが訪れるには朝早すぎるらしい。
 坂を上り、石畳の階段の先へと、二人は無言で歩き続けた。
 そしてあの桜が見える場所へと足を踏み入れて、そこにある光景に我が目を疑った。
 あの日、捨てられた仔猫のように寄り添い合っていた少女がいた。
 一人はスコップを構え、土まみれになって唖然としている。誰かが来るなんて思っていなかった、とあの時と全く同じことを思っているのだろう。
 朝はまだ肌寒く厚い上着を羽織っていたくなる気温だというのに、彼女は薄着で腕まくりをし、額からは汗が流れている。
 無理もない。彼女の隣には土の山があった。力任せに地面を掘ったのだろう。彼女の前には一メートルほどの穴が空いている。深さもそこそこあるらしい、少し離れた二人の位置からでは、覗き込まれなければ穴の底が見えない。
 そこに何を埋めようとしているのか。
 それは彼女の頭上を仰ぎ見れば明らかだった。
 満開にはまだ遠い、固いつぼみがちらほら見える桜の枝に人の形をしたものがぶら下がっている。折れてしまいそうなほどに細い手足はだらりと垂れ下がり、完全に力を失っていた。こちらからは長い髪に隠れた後ろ姿で見えないけれど、首には縄が食い込んでいることだろう。
(吊っている)
 これがもし夜中であったのならば、そして桜が満開であったなら、この異様な光景は見るものに恐ろしさを抱かせただろう。
 夜桜に吊された少女の死体。これまで散々人々の口で語られてきたおどろおどろしい物語そのものだ。
 人によってはそこに不気味に歪んだ美のようなものも見出したかも知れない。オカルト話にするにはうってつけな状況だ。
 しかし今眼前にあるのは、すでに登り切った朝日に照らされて、怪しさが全て払拭されたただの死体だ。
 薄闇に覆われて異様な雰囲気を醸し出すことも出来ない。何もかも清々しい陽光に晒し出される。
 おどろおどろしさより物悲しいほどの滑稽さが漂っていた。
(葵はこれを感じ取ったか)
 死の気配だ。
 感じ取りたくもないものを頭上に、葵は痛ましげに凍り付いたままの少女を見詰めていた。
 少女の瞳は零れ落ちそうなほどに見開かれている。唇がわなないては、驚愕と恐怖に襲われているらしい。
 これほど衝撃を受けている姿を前にすると、こちらは逆により一層冷静になってしまう。
(しかしギャンブラーだな)
 現在は午前九時、これから人は増えていくばかりだろう。
 ご老人たちはこんな山道まで上がってこない上に、石畳の階段から脇道に逸れたような桜の元までは、相当な物好きでない限り来ないだろう。
 けれど今後は分からない。
 敷地内にいる人間が増えてくれば昇りづらい足下であっても、何かの気まぐれを起こす者が出てきてもおかしくはない。少なくとも二人はそうして、最初は気まぐれでここまで来たのだ。
(まして今日は日曜日。桜も満開に近くなってきた。公園を訪れる人間は増加して、ここがバレる確率は上がる一方だ)
 なのにこんなところで死体を埋める穴をせっせと掘っていたのか。
「警察には?」
 葵の質問に、少女は青ざめては、ぎこちなく首を振った。
 警察に届けているならば、死体を埋める穴など掘ってはいないだろう。
「いつから、掘ってるの?」
「夜から……」
「彼女はその頃には、もう?」
「……はい」
 彼女の足下にはスコップだけでなくカンテラのような物も置かれている。この辺りには照明になりそうな物は一つも立っていない。夜は当然真っ暗だったのだろう。
 その中で一人、死体の下で穴を掘る。
 あまり愉快ではない光景だ。
「ということは君は昨日から家に帰っていない?」
「土日は家に誰もいないから。私が帰らなくても分からないんです」
「この子は?」
 葵が死体を見上げると、それまで表情も乏しく力なく答えていた少女の顔が歪んだ。
「さっちゃんが帰らなくてもあいつは心配なんかしない!」
 死体の名前はさっちゃんと言うらしい。
 悲鳴のように叫んだ少女に、葵は驚くでもなく「そう」と淡々と返事をした。
 以前ならば突然の大きな反発に驚いたか、もしくは叫ばずにはいられなかった少女に同情でもしただろう。
 けれど今は静かなままだ。
「ねえ、下ろしてあげないの?このままだとさっちゃんは寒いよ」
「……あ」
 寒いと言われて、少女はのっそりと顔を上げる。
 制服姿のさっちゃんはコートもカーディガンも何も着ていない。膝丈のスカートから伸びた細い足は白いというより青くなっている。
 生きている人間の姿をそこに見たのだろう。少女は酷く狼狽しては、少女の足にふらふらと近付いて行く。
「さっちゃん……」
「何か縄を切る物があればいいんだけど」
 葵がこちらを振り返るけれど、生憎持っているのはバスケットと水筒とスマートフォンくらいだ。首を振ると、少女がさっちゃんのスカートのポケットに手を入れた。
 そしてカッターナイフを取り出す。
 そこにカッターナイフが入っているのを知っている動きだった。
 葵は少女からカッターナイフを受け取ると、周囲を見渡した。小柄な少女が首を吊るならばあるだろうと思っていたが、案の定それは近くに転がっていた。
 葵の腰ほどの高さがある簡易な脚立だ。倒されたそれを蹴って、彼女はここにぶら下がったのだろう。
 あまりにも容易に、そして呆気なく想像出来てしまう。
 葵は脚立に上がってはさっちゃんを吊していた縄を切った。さっちゃんはどさりと重力に従って地面に落ちた。
 力なく落下した様はまるでただの『物』だった。
 命が通っていない人間の肉体は落ちるという動作一つとっても、これほどまでに無機質になるのかと、意外だった。それほど生きている間、人間は身体の隅々にまで神経を通わせて、無意識にでも命を守ろうと自身をコントロールして動かしているのだろう。
 しかしノアの目には『物』に映ったさっちゃんの身体を、少女はおそるおそる手を伸ばしては優しく仰向けにした。
「うっ……」
 うわ、と声を上げそうになったのだろう。葵がとっさに口元を覆って声を殺す。それはノアも似たようなものだった。
「酷い……」
 首を吊ったことによって顔に何かしらの変化が起こっているかも知れない、あまり綺麗とは言えない状況も覚悟した。
 けれど実際は二人の思っていたものとは異なる。それよりもずっと、痛ましいものだった。
 顔の右半分が土色に変色して腫れ上がっている。目元が特に酷く、瞼が膨れて右目は開かないだろう。唇は切れ、乾いた血がこびりついていた。
 元々の顔立ちが分からないほどに変わり果てている。
 どう見ても激しい暴力に晒された後だ。
「さっちゃん、寒かったね、ごめんね」
 ごめんね、と言いながら少女はさっちゃんの頭を撫でていた。直視に堪えない光景に葵へ視線を送ると、泣き出しそうな瞳がそこにあった。
 



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