春の終わりを待って  白い朝 5




 学年末テストも終えて、一年の区切りが目前になってきた頃。部活もない日にゆったりとした歩みで帰っていた。春になると二人の歩調は緩やかになる。
 街中にある植物たちが目を覚まして声を上げる。道脇のコンクリートの隙間から、アスファルトの亀裂から、逞しく慎ましい草花が芽吹く。
 春風にのって聞こえてくる産声に耳を澄ませると、この肉の器も呼応するように鼓動を弾ませた。
 まして桜がつぼみを付けると、咲くまであと何日だろうかと想像する。
 特に今年は葵が本性を思い出した。
 桜を見上げる葵の視線には純粋な楽しみだけでなく、蕩けるような歓喜が滲んでいた。
 双眸だけに宿る恍惚は、桜と同調しているからか。それとも同胞の晴れ舞台を祝福しているのか。
 どちらにしてもノアにしてみれば気分は悪くない。
(こいつは桜にだけ反応しているみたいだが)
 視界には桜より先に木蓮が盛りを迎えている。
 民家の塀から枝を伸ばしては行き過ぎる人々に春の訪れを伝えていた。
 真っ白な卵のような花は一枚ずつ花びらを脱いで、清廉さと妖艶さの境目で微笑んでいる。
 しかし葵はさしたる興味はないらしい。
 陽光に歌い、ほんのりとした燐光を帯びている花々にノアはつい視線を引き寄せられるのに。葵はひたすらに桜のつぼみの様子を毎日確認してばかりだ。
(そういうものか?)
 目覚めるまでは、あまりにも鈍感過ぎる葵に苛立ちと憤りばかりが湧いていた。けれど目覚めても、桜以外に目を向けないということは葵は桜以外の花たちは感知しない、出来ないタイプなのかも知れない。
 半身であるのに、異なる感受性か。
 それとも目覚めて間もないから、まだ桜しか聞こえないものなのか。
 葵は帰り道を外れて、公園に入っていく。
 公園には桜が十本近く植えられており、先日提灯がぶら下げられた。夜になるとライトアップされては、夜桜見物に向けての準備を整えられた。
 だが桜はまだ五分咲きほどだろう。満開にはまだ時間がかかる。
「まだだね」
「そうだな」
 見応えはまだないと凡人ならばすぐに興味を失いそうなものだが。葵は五分咲きであっても、桜のつぼみが膨らみ、ほどけようとしている様が喜ばしいとばかりに破顔している。
 公園には大きな声で泣く子どもや、あやす母親。はしゃぎ回る甲高い声に、何か良くないことをしたらしい子を怒鳴る女の声、もしくは誰かの笑い声も響いているのだが。葵の耳にそれらは一切入っていないだろう。
 桜を愛でると声をかけられても気が付かないからだ。
「あの子はちょっと変わってるの。春になると、特に」
 そう葵の母親は語っていた。
 桜が大好きで、春になると毎日桜を見に行くと言ってきかない。そして桜を見上げてはしばらくぼーっとして、動かなくなる。声をかけても届かない。
 身体に触れなければ、周りに誰がいても何を言われても葵は無反応だ。桜に魅入られてしまう。
 そしてそれは神社でも起こるようだった。神社には桜はないのに、どうしてそこでも似たような状態になるのかは分からないそうだ。
「元々神社は好きで、そこでよく時間を過ごしていたけど。春はちょっと心配になるの」
 この子は神社で一体何を見ているのか。
 そこに何の楽しみがあるのか。
 母親の目には映らないらしい。
 葵を少し気にして欲しい。様子がおかしいと感じたら必ず教えてね、とノアは母親から真剣な面持ちで頼まれていた。
 母親にとって桜の元や神社にいる葵は魂が抜け落ちているような印象だったらしいが。ノアにとっては真逆だった。
 桜から滲み出る生命力、ノアの瞳には鱗粉のように細かな光に見えるそれを引き寄せては自分の中に溶かし込んでいる。元の姿に戻ろうとするように、植物たちの息吹をほんの僅かに吸い込んでは、同じ呼吸に馴染もうとしているようだった。
 不意に葵は軽く顎を上げた。それは口付けを待つような体勢だ。双眸が妖艶に細められた。
 見ているものを誘惑しては、触れてこないのかと挑発するような表情だ。
 本人に自覚などないだろう。だがあどけない容貌に反した蠱惑的な表情は、魔的なものを匂わせる。
 そのアンバランスさが、人の興味と欲望を掻き立てる。
 この子は何だ、どうしてこんなにも。と誘蛾灯のように見ているものを招き寄せるのだろう。
 家族連れが葵の横を通る際、父親と思われる男がちらりと葵を見ては目を奪われていた。ぽかんとしているそれがかんに障っては、葵の腕を掴んでは桜から引き剥がした。
 こうしてノアが葵を急に動かすのはいつものことだ。だから葵も驚かずに、されるがまま後ろに付いてくる。
「ノア。神社に行こう」
「言うと思った」
 桜に見入っていた後は、大抵神社に行きたくなる。
「昔から、ノアだけは俺が神社に行きたがっても嫌がらなかったね。それどころか理由も訊かなかった」
「訊く必要がない。おまえは帰りたがっている。もしくは懐かしがってるだけだろ」
 桜に触れて、自分が生きていた場所がうっすらと思い出しているか。
 還りたがっているだけだ。
「ノアも同じ気持ちだった?」
「……そうかもな」
 葵が神社に行きたいと言った時。自分も似たような感覚ではあった。
 けれど神社に足を運ぶ一番の理由は、神社でかつてを思い出すように佇む葵の姿を眺めたかったからだ。
 どのような人間であっても、どんな生き方をしても、本性は残っている。ここで生きていた実感が根付いている。その証拠を目にするのは、安堵にも繋がった。
 神社に行くために公園を出ようとする二人とすれ違う人々が、桜を見上げて「まだだね」「もう少しだ」なんて嬉しそうに声を上げる。それを葵は横目で見ては、慈しむように桜を見上げた。
「誰かが桜を見て、待ち遠しいって言ってくれるのが嬉しい。待っててくれるんだと思うと、咲きたくなる。綺麗に、立派に咲くんだって気持ちになる」
「そうか」
「ノアもそんな気持ちになる?」
「俺はおまえほどじゃない。だけど人間が花見を楽しんでいるのは、気に入ってる」
 桜と同調して、綺麗に咲いてやると意気込むほどではない。だが褒められると多少気分は良く、花見をしている人々の陽気な様は、ノアにとって春の楽しみの一つではあった。
 遠い儚く幽かな記憶でも、それは悪いものではなかった。
 桜が咲くから春が来る。綺麗な花。見ていると癒やされる。わくわくする。気分が良くなる。好き。
 そんな感情がノアの中まで聞こえて来てはふわふわの羽毛に包まれて暖められているようだった。桜から流れ込んでくる心地良さは人間としての感覚とは異なる特別で、だからこそやみつきになるものだった。
「そっか。桜も同じように感じるのかな。これまで見てきた桜も今年はどうしてるのかな。もしかすると繋がれるんじゃないかな、なんて思っちゃうよ」
「繋がれるだろう。同胞なんだから」
「え?」
「俺たちと同じなんだから、繋がれるだろ」
 当たり前だろ、と言うと葵はぽかんと口を開けて呆けた。
 どうやらまだ人間しての意識が根強いらしい。
(これだけ桜と同調したのにか)
 見た目に捕らわれているのか、これまでの生き方に拘泥しているのか。
 しかしノアからしてみれば、桜がどうしているのか。どんな風に生きているのか。など問いかけてみればすんなり感じ取れるものだ。人間と違い、桜は嘘偽りもない真実だけを告げる。
「あの桜は」
 公園の出口で、先ほどまで葵が同調していた桜を指差す。日本の公園などによく植えられている有り触れた桜だ。
「俺たちだろう」
「……俺たち」
 同じ、と呆けたまま葵は呟いた。
 どう噛み砕いて飲み込んだのかは分からない。
 無言のまま、葵は神社へと歩き出した。



 しんと静まりかえった深夜。部屋の中には植物たちが眠っている、ほんの僅かな呼吸だけが揺蕩っている。
 自分以外の淡い気配は、それでも冬に比べると濃くなったものだ。真冬は眠りがあまりに深く、真昼でも大人しかった。生きているのか死んでいるのか疑いたくなるほど黙り込んでいたものだが。今はまどろんでいる夜中でも、生きている色濃く気配が感じられる。
 そんな植物たちの気配を淡い光のように受け取りながら、まどろみに沈もうとした時だった。
 葵からメッセージが届いた。
 スマートフォンはすでにナイトモードにしているので、音は鳴らず震えもしない。何の通知の反応もなかったのだが、葵に呼ばれた気がした。
 スマートフォンの画面には『あの桜が見たい』とあった。
 どの桜であるのか思案を始める前に『何かあった』と続けられる。
(おまえの方が、強く感じられるようになったか)
 あの桜とはおそらく十数日前に見に行った、宮殿のような公園の、しかも山に咲いていた桜だろう。ぱっと連想されたのがそれだ。
 何かあった。と書かれたメッセージを見ては、葵は元々そういうものなのだろうと思った。
 自分よりも桜に近く、本性が強い。だから感じ取りたいと思えば離れた場所にいる桜の意識を追うことが出来る。そして追いかけた結果、その桜に異変があったのだろう。
 誰があそこに植えたのかは知らないけれど、あの桜は山桜ではなくソメイヨシノだった。まだつぼみは固く閉ざされていたけれど、今は花びらをほころばせているはずだ。
 そして引きずられるようにあの日、桜の下にいた少女たちを思い出した。
 彼女たちに関わりがあるだろうか。
 あの桜を探ったところで、かろうじて存在しているだろうという酷く薄い手応えがあるだけだ。異変も何も、ノアには察せられない。
(でもあいつがおかしいと感じて、しかもメッセージまで送ったってことは。はっきりと大きな何かがあったんだ)
 この目にしなければならない、そんな衝動を掻き立てる何か。
 不穏な予感に、自然は眉を寄せてしまう。
『明日の朝だ』
 それだけを返した。
 確認したいと切望したところで、この時間では電車も動いていなければ、夜中に家を抜け出すわけにもいかない。いくら葵と一緒だったからといって、朝起きた時には部屋はもぬけの殻で、息子たちがどこにいるのか分からないとなれば大騒動になる。
 その辺りは葵も理解してくれたらしい。分かったと返信が来て、そこからメッセージは途切れた。
(何があった?焼かれた?切られた?)
 もし生死に関わるような異変ならばさすがに存在に揺らぎも出る。だがノアが辿っても存在自体はちゃんと確かめられた。
 ならばそこまでの問題ではないのだろう。
(だがあいつが無視出来ない、何か)
 真っ暗な中、スマートフォンのブルーライトを浴びながらバラバラと散らばってはまとまらない思考に瞼を閉じた。
 数時間後、この瞼の裏に何を写すのか。
 



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