春の終わりを待って  白い朝 3




 桜を愛でられなかったのは残念だが。先に来ていた彼女たちの邪魔をするつもりはない。大人しく引き返しながら、桜が咲く頃にまた来ようと心の中で決める。
「あの子、具合が悪そうだったね。大丈夫かな」
 他人に興味がないノアが珍しく小柄な少女を気に留めたのは、きっと顔色が悪く震えていたせいだろう。
 しかしノアはそんな葵の心配に反して「大丈夫じゃなくても関係ないだろ」と冷たく言い切る。
「そうだけど」
 登りはいつもよりやや機嫌が良さそうだったノアが、今はひんやりとしている。
 二人で桜を眺めたかったのかも知れない。
 枯れ木に近い見た目でも、桜の内側には生気が充ち満ちていることは感じ取れる。生気を血脈のように循環させて、鼓動に変える桜を体感するだけでも二人にとっては愉快に違いなかった。
(楽しみにしていたのかな)
 ノアは照れ屋なので、楽しみにしていること、期待していること、素直に喜びを顔にすることも渋る場合がある。今日もそんな気分なのかも知れない。
 綺麗に舗装された坂道に戻る頃には、風が冷たくなった。空にはどんよりとした雲がかかっては、太陽がすっぽり隠されてしまった。
 肌寒くなるだろう大気に、あのカイロが女の子の役に立つのを願うばかりだ。
「桜の下には死体が埋まってるんだって」
 春になると決まって、こんな台詞が耳に入ってくる。桜を見上げると、つい思い出してしまうほど印象的なフレーズなのだろう。
「最初に誰が言い出したんだろうね」
「明治時代の作家が言い出したらしい」
「誰?」
「梶井基次郎。檸檬の作者だ」
「……ノアって日本に詳しいよな」
 作家の名前も、本のタイトルもぴんとこなかった。十歳まで英国で暮らしていたノアの方が日本の歴史や伝説に関して知識が豊富だ。
 日本で生まれ育った葵より日本に精通している部分がある。
 もしかして自分は日本を何も知らないのでは、もしくは馬鹿なのだろうかと時々不安になるほどだ。
「……自分に関係することは詳しくもなる」
「なるほど」
 そういえばノアが妙に詳しい知識は桜や春に関わることが多い。自分自分のことなのだから、知識にも貪欲になるのかも知れない。
 そう思えば、のほほんと何も調べずこれまで通りに生きている葵の方が変なのかも知れない。
「死体か、掘り起こしたら意外とあるかも」
 軽口を叩くとじろりとノアがこちらを見た。
「日本だけでも桜は一万本はあるだろうと言われているんだぞ。どれだけの死体を埋めなきゃいけないんだ。そんなクソ面倒なこと、誰がやるんだ。それに人間の死体なんて不純物が多くてろくなもんじゃない」
「ノアとしてはNGか」
「論外だ。だがNGだとしても、桜の下で死にたがるやつは幾らでもいるけどな」
「なんでだろ?綺麗に咲くから?」
 春の象徴にもなっているように、桜が一面綺麗に咲いている光景は人の心を魅了する。それだけの美しさを宿した花の下ならば、死んでみようという気持ちにもなるのかも知れない。
「ぱっと咲いてぱっと散る。潔いんだろうさ」
「そうは言うけど、花の寿命としては特別短いわけでもないんだけどね」
 桜の花の寿命は約一週間と言われている。それは花の中では特別短いわけでない。ただ数多の花びらが風に舞って散っていく様が幻想的で、儚さを感じさせるようだ。
 だから短い、潔いなんてイメージが付いたのだろう。
「人の思い込みなんていい加減なものだろう。実際の寿命なんて頭に入れず、勝手に決め付けて。戦争では桜の印の元に数え切れないほどの人間が死んでいった」
 桜の散る様に美を見出すのは人にとっては自然だっただろう。古くは和歌を詠み、酒を飲み、宴を開いて桜を愛でて楽しんだ。
 けれどその美しさ、儚さがナショナリズムに利用されて、桜は戦地へ赴く者たちに刻み付けられた。桜のように見事に勲章を上げるために戦い、いざとなれば桜のようにぱっと散る。
 それが戦争の美のように扱われた。
「戦の象徴にされ、死の暗喩になり、時に憎悪さえもされたはずだ。なのに日本人は今でも春になると桜を鑑賞して綺麗だと笑顔を見せる」
 それは去年も一昨年も、葵が物心付いた時から春になると身近に見てきた光景だ。桜だ、綺麗と口々に言葉にしては、柔らかくなる表情をいくらでも思い出せた。
 彼ら彼女らが心底桜を愛してくれている気持ちと共に。
 それは葵の心にも浸透しては、穏やかなぬくもりになった。
「日本人にとっては、桜は特別なんだと思う」
「そう、特別なんだ。だから俺たちはこうして存在してる」
「俺たちが?」
「人間の中で広まっていく認識は、本来形を持たない者たちに輪郭を付ける。どのようなものであるのかという形を作っては力を与えて、そのように作り替える。神々の存在がその信仰によって支えられているように、俺たちのようなものがここに在るのは、人間たちの思い込み、イメージがあるからだ」
 そうだろう?とノアは同意を求めてくる。
 けれど葵はそれにゆっくりと首を傾げた。
 他人の認識がそのまま自分に影響を及ぼしているなんて言われても、葵が葵であるのは両親や周りの人々がそう教育して、自分がそうありたいと願ったからだ。
 しかしそれは普通の人間の在り方だろう。
 ノアが言っているのはきっとそれとは異なる。
「分からない」
 素直な返事をすると、ノアは顔を顰めた。
「おまえは」
「だって分からないものは分からない。そんな風に考えたことも、感じたこともないから」
 そして記憶は戻らない。
「おまえは一生そのままか?」
「分かんない」
「そればっかりだな」
 嫌そうな顔をされる。けれど以前のように怒りや苛立ちはなかった。
「桜はこうだっていう日本人の考えが、俺たちを作ったの?」
「そうだろうな。桜はこうだというイメージがそのまま俺たちの特徴になる。現実にはあり得ないような能力や現象も、人間たちの間で育てられ力を得ては、意識を食い破って出てくる」
「出てくるって、化け物や魔物が出てくるような言い方だ」
 そう自分で言っておいて、自身がどのような生き物なのか、存在なのかは定義出来なかった。その心境を読んだかのようにノアは曖昧な笑みを浮かべている。
「もし、日本人が桜を忘れてしまったら?」
「俺たちは日本ではただの人間になるかも知れない」
「日本では?」
「海外でも桜は咲いている」
「イギリスとか?」
「ある。有名なのはアメリカかもな。ワシントンD.C.では桜祭りまであるらしい」
「へえ、アメリカの桜祭りか」
 どんなものだろう。やはり桜の下でご飯を食べたり、酒を飲んだりして騒ぐのだろうか。
 海を隔てた遠い国でも桜が生きて愛されているというのは耳に心地良い話だ。
「桜は世界のあちこちに植わっている。桜がどこかにある限り日本人は桜を忘れないだろう。死んでいった人間、そして新しく生まれてくる命にも結び付けられる花だ。きっと春が来る度に桜を思い出す。志望校に合格すれば桜が咲き、願いが破れれば桜は散る。人々の生活に根付いて桜は生きている。だから特別で、執着をするんだ」
 それだけ桜が愛されているという証だろうに。ノアには色濃い憂いが滲んでいた。
 葵のように、単純に母国と自分が深く繋がり合う充足感を味わえないらしい。
(どうして?)
 自分たちは同じ生き物なのに。どうして歓迎しないのだろう。
「俺は桜が好きだから、忘れられると寂しい」
「そう」
 ノアは?と尋ねられなかった。
 淡泊な返事に反して、ノアがこちらを見る瞳はあたたかいものだったからだ。ならば葵が歓迎している以上、ノアの憂いもいつかは払拭出来るだろう。
「咲いたら、また来よう。二人で」
 あの山道の途中にある桜が満開になった時には、また訪れよう。
 今度は二人きりで、静けさの中で花びらの舞う歌声に耳を澄ませたい。
 風の囁きに溶け込む花びらの声はどんな音よりも、安らぎと生きる歓びを含んでいる。
「桜が満開の時期に花見に行くと言えば、親たちが付いて来そうだけどな」
「俺は、それはそれで別にいいんだけど」
 春になると急に陽気になる子どもたちに合わせて、両家で花見をする為に出掛けるのは毎年のことだ。この宮殿のような公園にも来たことがある。
 なので二人が行くならば、と親たちは軽いフットワークで予定を組み上げては和気藹々と六人でのお花見イベントに切り替わるかも知れない。
 葵はそれも楽しめるが、ノアはどうだろうか。
 ご機嫌伺いように上目遣いをすると、ノアは苦笑した。
 ノアは葵の両親に対して、あの無機質な瞳を止めた。死んで欲しいと願いながらも生きていて欲しいとも思ってしまう。その葛藤を押し殺して、自分の口を塞ぎ続ける日々は終わったらしい。
 葵が穏やかに、心身共に不安なく満たされた状態で死ぬためには、両親もまた幸いの中でその生を終える必要がある。
 無理に排除出来ない以上、そこにいて関わりを持ち、仲良く暮らすことを甘受したようだ。
(優しくなった)
 葵に対しても、葵の大切な人に対しても。ノアは寛容に、温和になった。
 それは自分を思い出した葵を許せるようになったからかも知れない。
 怒りも苛立ちも薄めたノアは、時々穏やかな表情をする。それは息を呑むほど優麗なものだった。
 それは西洋絵画のモデルのようだ。神々の寵愛を受けた少年たちは、きっとノアのような容姿をしているに違いない。
「見惚れてて良いぞ」
「わー、すごい自信」
 優れた容姿で生まれ育ち、それを当然のものにしているノアは見られるのは慣れきっている。葵がじっと見詰めているのも、とうに気が付いていたのだ。その意図と共に。
「他の人が言ったら笑えるのに、おまえが言うと全然笑えない」
「笑いを求めてないからな」
 澄ました顔で言うノアの背中を叩き、公園の出口へと向かう。
「次はどこに行こうか。まだ帰るのは早いし。俺新しいスニーカーが欲しいな」
 ショッピングモールに行こうと誘うと、ノアは足を止めて久しぶりに軽蔑するような眼差しを向けてきた。刺さるような視線に、怖じ気づいて少し距離を取ってしまう。
「え、なに?」
「それはこっちの台詞なんだが。当初の目的を忘れるなよ。俺は別にいいけど、来週もここに来たいって言われてもさすがに嫌だからな」
 何のためにここまで来たのか。
(桜を見る、のはついでで)
 家を出る際に何が頭の中を支配していたのか。それを思い出しては顔が一気に熱くなった。
「……ドラッグストアに行きます」
「あっそ」
 



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