春の終わりを待って  白い朝 2




「ノアと出掛けてくる」
 日曜日の午前中。家を出る前に母親に声をかける。
 スマートフォンと向き合っていた母は顔を上げて「いってらっしゃーい」と返事をしてくれる。
 常ならばそこで終わりだ。ドアを開けて出ていけば良い。けれど今日は何故か母はそのままスマートフォン片手に寄ってきた。
「今日はどこに行くの?」
 他意のない疑問だろう。たまに尋ねられるので、珍しくもない。
 だがまるで胸の内にある恥ずかしさを見透かされたようで、一瞬息が止まった。
「あー、あの宮殿みたいな公園」
 宮殿みたいな公園と言えばどこなのか母には伝わる。これまで家族で、何ならノアの家族とも一緒に遊びに行っているからだ。
 案の定母はすぐに察してくれた。
「まだ桜は咲いてないんじゃない?今は梅の時期かな」
「うん。たぶん」
 葵は春になると桜を見たがり、あちこちうろつく。今年もその季節が来たかと思っているだろう。
(まさかコンドームを買いに行くついでとは思わないよな……)
 宮殿公園に行くのはあくまでも二の次だ。メインの目的はコンドームとローションの購入だった。
 だが言えるはずもない。まして相手はノアだなんて、両家にとってどれほどの衝撃になるか。
 万が一ノアと付き合うなんて止めなさいと言われた時には、初めて両親を裏切ることになるだろう。
 そんな恐ろしい未来は考えたくもない。なので平常心を保ちつつ、それでも足早に家を後にした。
 ノアはすでに我が家の前までやって来ていた。玄関を出て数歩進んだところでその姿が見える。
 約束の時間まで十数分ほどあるのだが、双方いつも行動するのがやや早い。
 おかげで予定時間に間に合わなかったことがない。
「おはよう」
 同じ台詞を口にする。ノアはいつも通り落ち着いた様子なので、葵も気を引き締めて平素を装った。
 しかしどこかそわそわしているのか、それとも顔に何か書かれているのか。ノアは呆れた目を向けてくる。
「なんだよ」
「浮かれてるな」
「春だから!春って元気になれる季節だろ!」
「繁殖の時期でもあるな」
 あっさりと口にされたそれに絶句した。
 夜中に奇妙な鳴き声を上げる野良猫を思い出しては、自分もあんな風に見られているのだろうかと居たたまれなくなる。
「……俺って動物、みたい?」
「花が咲くんだ。似たようなものだろ」
 動物だけでなく植物も子孫を残すために花を咲かせて実を結ぶ。繁殖というならば春という季節にはしゃぐのも、そして快楽を求めたがるのも有り得る話かも知れない。
 冷静にそう告げられて、そんなものかと飲み込んでしまえば良かっただろう。
 けれど隣に居るノアは、繁殖に関わりのある性別ではないと気が付いてしまう。
「俺たちには何の意味もないのにな」
 繁殖の意志なんて、自分たちの中にあっても何も生み出さない。
 自虐的な一言に対して、ノアは追い打ちのように肯定するか、それともそんな自虐すらも馬鹿にするかと思った。
「気持ち悦いなら、それだけで意味はあるだろ」
「……そっか」
 欲情するのも、求め合うのも、無駄だとは思っていないらしい。
 素っ気ない返事は葵の言葉を拾い上げてちゃんと掌に包んでくれるようだった。
「気持ち悦いもんな」
「にやにやするな」
 自分だけでなくノアも気持ち悦いのだろうと、愛撫している最中の反応を見ていると分かるけれど。なかなか言葉にはしてくれない。
 ノアは性行為に関しては恥ずかしがり屋で照れ屋であるらしく、睦み合っている間も、終わってからも言葉数は少ない。
 だからちゃんと感想を聞くのは貴重で、つい顔面が緩んでしまう。
 ごめんごめんと言いながらも、一向に締まらない表情に舌打ちをされた。



 公園に辿り着くと休日ということもあり、家族連れやカップルの姿があちこちに見えた。
 冬場は閑散としており、静かにじっと寒さに耐えるような植物たちが物寂しげに目に映ったものだが。暖かくなると頑なさがほどけては、子どものはしゃぐ声に合わせて花びらや葉を揺らして遊んでいるようだ。
 まして今日は天気が良い。恵みのように溢れる陽光に生命力が大気中にたっぷり滲み出ているようだった。
(視界が、なんとなくキラキラしている)
 非常に細かなラメが空中に散布されているようだ。陽光のおかげでそれは瞬いているように輝く。
 目覚める前は感じることが出来なかった、植物たちが健気に力一杯生きている気配を全身で受け取れる。人間の声を聞き取るのとは別の器官で、植物の呼吸を聞き、肌で植物の微かな喜びを受け取る。
 何をしていなくても、特別なものを見ていなくてもそれらの喜びを感じ取れるだけで、身体の末端まで幸福感が流れていく。
(春だ)
 これが春が来たということだ。
(……こんなにも嬉しいものだなんて知らなかった)
 自分が知っていた春の喜びは曖昧模糊としてた、薄っぺらいものだった。
「識らなかった。これが春だったんだ」
 咲くにはまだまだ遠い、つぼみすらも見当たらない薔薇たちを見渡しながら、葵は思わずそう呟いていた。
 生命力をぎゅっと濃縮して身の内に溜めている薔薇の姿に、暖かさが待ち遠しくなる。
「ノアはずっとこんな感覚で生きてきたの?」
「それに近いだろうな」
「いいな。俺も感じたかった」
 何も考えず、思ったままを口にすると脇腹をしっかりめに殴られた。「うぐっ」と呻き声を上げて脇腹を押さえると、ノアに冷ややかに見下ろされる。
「俺は何度も思い出せと言った」
「あー、噴水広場だー」
 触れていけない部分だ。これ以上やぶ蛇になってはいけないと、視界の先にある噴水広場へと棒読みで意識を逸らさせる。
 ノアは葵をきつく睨み付けながらも足は止めない。咎め続けるつもりはないようだ。
 ベルサイユには遠く及ばないがそれでも西洋の宮殿を思い起こすような、一列に並んだ巨大な噴水。豪勢な水飛沫は陽光を反射してシャンデリアのように眩しい。
 複数のカップルが定期的に吹き上がる噴水を背景に写真を撮っている。じゃれるような高い声を聞きながら、澄ました顔で広場を抜けていく。
 二人にとっては毎年のように訪れている場所だ。珍しいものはなく、見慣れている。
 まして左右に広がっているのは薔薇の花壇。初夏ならば夢見心地になれるほど美しく贅沢な空間になれるが、今はまだ静かだ。
 どうせ撮るなら薔薇の盛りにしたい。
 先を進むと母が言っていた盛りを迎えている梅が密集している、梅の園がある。
 人々のお目当ては、やはり満開の花だ。他のゾーンより人が多く、ゆったりと歩きながら梅を鑑賞している。
 白と紅の様々な濃淡を愛でては顔を寄せている人もいる。梅は香りが良いと言われているだけに、気になってしまうものなのだろう。
 すっきりとした甘い香りは顔を近付けずとも、淡く漂ってくる。清々しい心地に傍らのノアを見ると目元をほころばせていた。
 梅の園を抜けて、遊具がたくさん置かれているアスレチックエリアに入る。子どもたちの楽しげな声があちこちから響いてくる。近くの休憩スペースではイベントが行われているらしい。何やら工作をしている子どもと親の仲良さそうな光景が微笑ましい。
 彼らを横目に二人は山道を目指した。
 舗装された坂道を上ると石畳の階段に変わる。石畳はごつごつとして歩きづらい。人もあまり来ないのだろう。雑草や苔などがちらちらと見え始める。
 その代わり自然のままの植物たちの姿や、静寂を纏う空気、何より濃密になっていく緑の気配に気分は高揚した。
 観光目的ならば鬱蒼とした山に続く景色に退屈を覚えて引き返すだろう。けれど今の葵にとってその変化は逆に愉快だった。
 ましてその先には桜の気配がある。
 踊るような足取りで進む。
 強くなる鼓動に、桜の季節になると自分がどうなってしまうのかという心配はあった。
「今でもこんなに楽しいなら、桜が満開になったら俺はどうなるんだろう」
「さあな。気が触れたと思われるかもな」
「ノアは落ち着いてるよね。いつもよりちょっと機嫌がいいくらいだ。我慢してるの?」
「少しずつ慣れてくる」
「へえ」
 そういうものなのだろうか。
 しかしまだ咲いていない、固いつぼみしか宿っていないだろう桜を観に行くのにこんなにわくわくする自分は、おそらく落ち着かない日々を過ごすだろう。
 この先の誰もいないだろう桜の下ならば、常人には理解出来ない感覚で上機嫌に踊り回っても構わないはずだ。
 そう期待していた葵を嘲笑うように、人の話し声が聞こえてきた。
「桜の下には死体が埋まってるんだって」
 女の子の声がする。物騒な内容ではあるが、多くの者が一度は耳にしたことがある俗説だ。
「元々桜は真っ白だったのに、死体の血を吸い上げてピンクに染まったんだって」
「そうなんだ。いいね……」
 二人分の声が聞こえてくる。
 一瞬このまま桜の元に行くかどうか迷った。
 ノアと目を合わせるのだが、ノアは足を止めない。ならばと石畳の階段の踊り場に辿り着くとそこから舗装されていない外れた土の道へと出る。
 するとすぐに桜が二本植わっている、小さな平地が見えた。
 さして険しくない山道だが、途中で少し休憩するには丁度良いくらいのスペースだろう。
 そこには少女が二人、桜の根元に座っていた。地面に直接腰を下ろせば汚れるだろうに、気にしないのだろうか。
 見たところ中学生くらいだ。二人はこちらを見てはぎょっとしていた。人が来るわけがない、とでも思い込んでいたのだろう。お互い様だ。
 背の高いショートカットの女の子と随分と小柄な髪の長い女の子が寄り添っている。小柄な女の子は一回り以上大きなぶかぶかのダッフルコートを着ている。厚手のコートを着るような気温ではないのだが、その下は素足にスニーカーだ。丈の短いパンツかスカートを穿いているのだろう。だから上だけ厚着をしているのかも知れない。
 友達だろう、ショートカットの女の子に手を握られている。その手首や中指には包帯が巻かれていた。
(寒いのかな)
 手がぶるぶると震えている。晴れている春の日であっても、こんな山の中、しかもじっと座っていたのならば冷えたのかも知れない。
「おい」
 ノアがくいっと腕を引っ張ってきた。
 顎をしゃくられる。帰ろうというジェスチャーに、確かに女の子たちが身を縮めてこちらを警戒しているようだった。
(大抵はノアの顔に好意的になってくれるんだけど)
 顔面が特別整っているノアを見て、女性はよく好感を持ってくれる。特に年が近い女の子ならば目を奪われて、赤面する子も珍しくないのだが。彼女たちにノアの容姿は響かないらしい。
(珍しいな)
 好みと懸け離れているのかも知れない。たまにノアのような繊細な顔立ちは苦手という人もいる。
 葵は鞄の中からカイロを取り出すと、女の子たちに近付いた。すると明らかに萎縮して、泣き出しそうにも見えた。
 まるで逃げ込んだ暗がりで野良犬に見付かってしまった仔猫みたいだ。
 そこまで怯えなくてもと苦笑しながら、カイロを女の子に渡した。
「寒そうだから。これ使って」
 渡されたカイロに、小柄な女の子は酷く驚いたようだった。呆然としている子の代わりに、ショートカットの子が「あっ」と声を出す。
「ありがと、ございます」
 ぎこちないお礼だが、余計なことをするなと怒られなくて良かったと安堵するきっかけになってくれた。
 微笑みを返しては、女の子たちに背を向ける。
「帰ろうか」
 そう告げるとノアはそのまま葵より先に歩き出すと思った。
 しかし何故か立ち止まったまま、小柄な女の子を見た。女の子はカイロを注視していてその視線には気が付いていない。
「どうしたの」
 問いかけるとノアは黙って葵の腕を掴んでは、来た道を大股で歩き出した。
 ここに来るまでは穏やかだった双眸は、葵が目覚める前のように冷ややかだった。
 



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