春の終わりを待って  白い朝 10




 桜も盛りを少しばかり過ぎて儚くも麗しい散り際になった。風が吹くとはらはらと踊り子のように舞う花びらは何とも優美な終焉だ。
 毎年目にしているのに、花の終わりには心奪われる。
 週末になると桜の演舞を見るためにあちこち出掛けているけれど、今週は母が快諾出来ないことを口にした。
「お母さんもあの宮殿公園に行きたい」
「俺たちは先週も行った」
「お母さんたちは行ってないもの。葵君のお母さんと昨日会ったけど、あちらのご両親もまだ行ってらっしゃらないそうよ」
「あいつは行ってる」
「お母さんたちは行ってない」
 母は強行するつもりらしい。ならぱ息子たちは別行動にしよう、と言うのが当然の流れだったはずだ。
 けれど葵からもすぐに電話がかかってきては「うちの親が、みんなで一緒に行こうって」と弱ったように言われた。
 何故親子揃って行かなければならないのか。
 憂鬱さと怠さを隠しもせずにいると、背後から「焼き肉」という単語が聞こえて来た。
「帰りは焼き肉に行きましょう」
 あらかじめそれは両家のキーワードとして決められていたらしい。渋るノアと葵は、それでぴたりと口を閉ざした。
 男子高校生にとってみれば、焼き肉はあまりに蠱惑的な食べ物だった。
 食欲に負けて足を運んだ公園は、随分賑やかだった。
 暖かさも増して、桜だけでなく春の花々が咲き始めているからだろう。濃厚な緑と、甘く優しい花の香りを鼻孔一杯に吸い込むと、やや重たかった足も軽くなる。
 駆け回る子どもの声に混ざる満開に咲いた花の囁きも、ノアの機嫌を上昇させてくれる。
 特に入り口から公園の中央にある、噴水が一列にずらりと並ぶ噴水庭園に続く道は、花壇がずっと続いている。色取り取りの花の、自慢げな様子は微笑ましいものだ。どこを見渡しても陽気な音が溢れている。
 二人の両親は目的通り桜の園へ進み、満開の桜を見上げては笑顔を披露してくれる。
 毎年、幾度も綺麗だと賞賛している。その姿に常日頃の苛立ちやもどかしさ、人の中で生きる違和感や憂鬱が和らいでいく。
 決して言わない、自分が何であるのかも永遠に彼らに教えることはない。それが彼らのためであり、愛されてきたことに対する恩義だ。
 傍らにいる葵も親たちを眺めては、微笑んでいた。それは去年までのように彼らに交じって、純粋に桜の美を褒めるものではない。
 桜を愛でている人々を、穏やかに見守るような眼差しだった。
 同じ場所に立ったのだ。
 ノアの心は穏やかに凪いでいく。
「山に登ってくる」
 両親たちを堪能した後、葵はそう言った。
 そしてノアを誘うわけでもなくふらりと歩き出す。ノアが付いて来ないわけがないと確信しているからだ。
 無言で人の流れを外れては、山道を目指した。人気の少ない場所へと歩み、坂を上る。石畳を踏みしめている間に、あの桜が満開であることは察せられた。
 たった二本しかない桜であるため、存在感は鮮明に感じ取れる。
 そして予想通りの堂々とした満開の桜の下には、あの少女が座っていた。
 いつかのように桜の木の根元に、汚れるのも厭わず地面に直に腰を下ろしている。
 近付くと少女はこちらに気が付いて慌てて立ち上がった。
(昏い目をしている)
 さっちゃんが亡くなった時よりも昏い瞳だった。あれからまた少女が絶望するようなことが起こったのだろう。
 けれど死にたいと願った時に見せた脆さは消えていた。
 血が噴き出した傷口は塞がり、かさぶたが出来たのだろう。そしてそのかさぶたは取れることなく少女の心を強く、固く守っているようだった。
 誰にも傷付けられないように、他人を拒絶して自分に触れさせないという構えと共に。
「やっと会えた」
「やっと?」
「五日間通い詰めていたんです。二人がここに来るかどうか分からないし、来たとしても何時にやってくるのも知らない。連絡なんて取れないから、ずっとここで待ってました」
 連絡先も知らない、どこから来ているのかも分からない二人を、ずっと待ち続けるのは不安だっただろう。来るかどうかも分からないと言っているが、実際のところ来ない確率の方が高かった。
 ここで会えたのは幸運だとしか言い様がない。
「どうして俺たちを待ってたの?」
 葵は律儀に問いかけている。
「これを、埋めて欲しくて」
 少女は地面に置いていたリュックの中から黒い筒を取り出した。見覚えがある。二人はそれを去年、貰っている。
「卒業証書?」
「はい」
「中学を卒業したんだ」
 一つ違いだとは思っていなかった。葵もびっくりしているようだが、改めて見ると今の少女ならば納得出来る部分がある。
 たった一週間ほどで、この子はぐんと大人に近付いた。
「さっちゃんがいなくて騒ぎになったんじゃない?卒業式もあっただろうし」
「……さっちゃんが学校に来ないのはたまにあることだから。さすがに卒業式の前には担任が家に電話を入れたらしいです。父親が出て、さっちゃんは行きたくないって言ってる。なんて言ってたそうです。もう死んでるのにね」
 皮肉を口にして、痛そうに眉を寄せる。
「さっちゃんのお父さんは、さっちゃんがいなくなったことに気が付いてるはずだよね?」
「さっちゃんは家出をしたことが何度かあるから、今回もそう思ってるのかも知れない。それかもうさっちゃんを捨てたのか。どっちでもありそうなやつなんです」
 憎々しげに吐き捨てて少女は地面を睨み付けた。
 ここにその父親がいたならば、筒を握っている手を振りかざしたことだろう。
「……せめてさっちゃんに、この卒業証書をあげたいんです」
 深呼吸をすると、少女は顔を上げて葵にお願いをした。あの日のように、懇願すれば葵は叶えてくれると信じ切っている表情だ。
 けれど葵は首を振った。
「それは出来ない」
「どうして!」
「もし万が一さっちゃんが捜索されることになって、この場所が割り出されたら。この卒業証書が出てくるのはまずい。もしここが掘り起こされることがあっても、この卒業証書が出てこなければ、桜の根の下に隠されているさっちゃんは見付からないかも知れないけど。これが出てきたならきっと執拗にこの辺りを深く荒らされる」
 そして桜の根の下に秘められている、異様な状態の遺体が発見されてしまうかも知れない。もしそうなれば大騒ぎになるだろう。
「何十年もこの地に根付いている桜の根の下に、どうして真新しい遺体が埋められているのか。人の理解の範疇を超えた状況になる。人間の興味を引くだろうな」
 ノアの説明は少女は青ざめた。
 さっちゃんが好奇の目に晒される。好奇心で好き勝手言葉をぶつける者、余計な妄想を塗りたくってさっちゃんの存在を歪める者も出てくるかも知れない。
「死んでまで、傷付けられたくないだろう」
 少女は唇を噛んだ。
 さっちゃんがどんな有様だったのか、そしてそれがどれほど残酷で、不条理なものであるのか。少女は分かっている。
 心痛めたからこそ、こうして少しでもさっちゃんの慰めになるようにと卒業証書を持ってきたのだろう。
「それにさっちゃんには桜の根が絡み付いている状態なんだ。だから根を動かしてしまうとさっちゃんの身体が傷付いてしまう。かといって人力で卒業証書を埋めようとしても、浅くしか埋められない。誰かに見付かってしまう可能性が高いよ」
 葵は宥めるように丁寧に少女に語りかけている。
 五日間も待ち続けた少女にとっては、簡単に諦められない願いなのかも知れない。押し黙って、苦悩を滲ませる。
「さっちゃんを静かに眠らせていたいなら、それは君が持っていて」
 諭す葵に、少女は握った筒を両手で握り直しては双眸を潤ませた。
 どれほど心を固く閉ざしても、傷口にかさぶたが出来ても。胸の奥では痛みが流れ続けているのだろう。
 大人に近付いてもまだなりきれてはいない少女が背負うには、重すぎるのだろう。
「……さっちゃんがこうなったのを、もう誰も知ることは出来ないんですか?」
 人目に晒されることなく、静かに眠らせてあげよう。
 それが最も安らかだろうと葵は判断したのだろうが。少女は別の見方をしたらしい。
(なるほど)
 それは寂しい、と思わせるものなのだろう。少なくとも少女にとっては憐憫を掻き立てるものらしい。
「未来になっても、三人しか知らないままなんですか……?」
 涙をたたえた瞳が上目遣いで哀れみを乞い、すがりついてくる。ないがしろにされ続けたさっちゃんが、このまま放置されるのかという怒りだけではない。
 少女自身が二人との繋がりを求めている気配だった。
(共犯者、と思いたいのか)
 さっちゃんを隠したのは三人しか知らない。他の誰も分からない、知りようがないということは三人だけがずっと抱えていく、薄暗い秘密だと少女は思ったのだろう。
「俺たちは忘れるよ。だから君しか知らない」
「え?」
「俺たちは忘れる」
 すがりつく少女の意図を、葵はあまりにも軽く切った。
 不安も嫌がりもしない。ただの事実だとして、さらりと述べられたそれに少女は瞠目した。
 一人の人間が亡くなり、その死体を隠蔽したというのに、葵は何も背負わず、明日には記憶から抹消していてもおかしくないほど平然としていた。
「君だけがさっちゃんを覚えている。君が死んだとき、さっちゃんの存在も真実も消える」
(……背負わせたな)
 さっちゃんの死どころか、生すらも少女の背中に負わせた。
 これから少女はさっちゃんと共に、生きていく。その死を乗り越え、割り切れた時には軽くはなるだろうが。それでも完全に消えることはないだろう。
 一人であり、二人。
 それはノアと葵にも通じているけれど、片方が死んでいる場合、その苦痛と喪失感は想像を絶する。
 なのに葵はそれを少女に強いた。
 ノアには出来ない所業だ。
 少女は打ちのめされたように言葉を失ったようだった。呆然と立ち尽くし、昏さを増した双眸に葵を映す。
 しかし言葉は撤回されず、葵は少女に同情はしても一切手を差し伸べようとはしない。助けたところで一瞬で終わる憐憫だ、ならば助けない方がまだ少女のためだろう。
 だがそんな葵の微かな優しさなど分かるわけもない。
 突き放された、という衝撃しかないだろう。
 絶望するか、激高するか。
 密かに身構えるが、少女はそのどちらでもなかった。
 ぎこちなく頭を動かし、隣にいる桜へ顔を向ける。
「……この桜、花びらの色が濃くなったりすると思いますか?」
「さあ?来年来てみればいいよ。再来年も、その次も。この桜が変わっていくのかどうか。君が納得するまで確かめてみればいい」
『桜の下には死体が埋まってるんだって』
 誰かの、さっちゃんの声が蘇る。
「そうですね」
 頷いた少女は、さなぎのような幼さを脱ぎ捨てようとしていた。





 



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