春の終わりを待って  覚醒 9




 それから徹底的にノアを避けた。
 クラスが別々で良かったと思った。一緒にいたくないと思えば、時間を多少ずらす、行き先を少し変えるだけで姿を見なくて済むのだ。
「すげえ暗いな」
 朝、教室に入ってすぐに野山にそう指摘された。ぱっと見ただけで胸の内が察せられるほど、酷い表情をしているのか。
「王子様と喧嘩でもしたのか?」
「した。あいつなんてもう知らない」
 その台詞は幼稚園児が泣きながら先生に訴えているような言い方だった。
 自覚が出来ただけに、野山が笑ったのも仕方がない。しかし自然と頬が膨れるのを止められなかった。
「何言われたんだよ」
「死ねって言われた」
「あいつ口が悪いんだろう?」
 酷い言葉だと野山も思っただろう。片眉を上げて少し苦そうにする。
 だがそんな台詞を軽く口にしてしまう人たちがいることも、分かっているのだ。葵だって分かっている。
 冗談で軽々しく、人の死を口にする軽薄な人々を目にした経験もあるのだが、そこにノアはいなかった。
「あいつは口は悪いけど、そういうことは言わなかった。馬鹿や間抜けなんてことは言うけど、心から思わない限り、死ねなんて言わない。そういう嘘はつかないんだよ」
 人の生死なんて重すぎるものには、気軽に触れたりしない。
 ノアにはその分別があった。近くにいる内に、ノアのそういう線引きに気が付いては、口が悪くても、性格が悪くても、どこか一本筋が通った誠実さがあるところが好きだった。
「王子様のこと、よく知ってるんだな」
「……なんでだろうな、知ってるよ」
 知ろうと思っていたわけではないのに。
 隣にいたせいで、一番近くでノアを見詰めていたせいで、知ってしまった、感じてしまったことは溢れるほどある。思い出の分だけ、温度を帯びて葵の中に降り積もっていた。
「今日も来ないのかな」



 放課後の部室で、山吹は廊下へと目を向けながらそう呟いた。
 今にも廊下に接している窓にノアが映るのではないか、と危惧しているようだが、葵は「来ないよ」と断言した。
 葵と山吹がいる場に、ノアはきっと来ない。まして二人が付き合い始めたなんて話題を部活の女子が口にすると予想出来るここは、ノアにとっては気分の悪いものになっているはずだ。
「部活も辞めるかもな」
 これだけ欠席を続けている上に、葵のことが気に食わないのならば部活に参加する気分ではないだろう。
 ノアならば入部して欲しいと勧誘してくる部はいくらでもあるはずだ。囲碁部なんて元々は潰れかけだった地味な部活にいる必要なんてない。
「ノア君と喧嘩したの?」
「した。あいつとはもう関わりたくない」
「……そんなこと出来るのかな。あんなにべったりだったのに」
「出来るよ。今あいつが俺に近付いて来ないってことは、向こうだって俺に関わらないって決めたからだ」
 それは決別した夜に、葵が望んだことでもある。
 なのに傍らに何もないことが、酷い違和感があり、つい自分の何かが欠けているようなあり得ない錯覚に襲われてしまう。
 五体満足だ。怪我もしていない。痛みも苦しみも、何も無い。至って健康体だ。
 指先も爪先も、視界にも頭の中にも、一つたりとも足りないものなどない。全部持っている。
 なのに欠落している。
 理性では制御仕切れない部分、本能なのだろうか、そこが何かを探している。
 そしてこの感覚は懐かしくもあった。
 小さな子どもの頃は、そうした渇望をずっと抱えていた。
(いつの間に、薄まったんだろう)
 何故満足出来ていたのだろう。
 ノアという、自分にとっては仲の良い友達が出来て誤魔化されていたのだろうか。
「ノア君は葵君のことを諦めないよ。絶対に諦めない」
 取り出したばかりでまだ何も置いていない碁盤を前に、緊張した面持ちで山吹は言い切った。
 碁石を入れる丸っこい壺のような容器、碁笥を持ったまま葵は固まる。
 絶対という響きが、異様に強調されていたからだ。
「でも、俺はノアに死ねって言われたんだけど」
「……他の人に取られるくらいならって、ことじゃない?」
「はあ?自分だけのものじゃないなら死ねってこと?それとも自分の手で殺したいとか?いくら王子様でもそこまでサイコじゃないだろ」
「サイコだよ」
「……もしかして山吹さん、ノアに何か言われた?」
 山吹は以前からノアを苦手としていた。けれど今日は苦手というより、厭っているようだった。
 教室にノアは来ていない。部室までは野山も含めて三人でやってきた。
 なので山吹がノアと接触するタイミングなんてなかったと思うのだが。何か変化があったと勘ぐりたくなる。
「葵君に近付かないでくれって」
「なんでそんな勝手なことが言えるんだよ!」
 まるで葵は自分のものだ、葵の持ち主は自分だとでも思い上がっているような暴言だ。
 突然声を荒げた葵に、二人だけでなくたまたま部室に来ていた他の女子数人も驚いたようにこちらを振り返る。
 注目されて、頭に上った血が冷静さと共に下がる。なんでもないと首を振るが、どことなく部活の空気にぎこちなさが漂う。
「放置していい。そんなのに従う必要なんてないから」
「うん。気にしないよ。誰に何を言われても」
 山吹は凜としてそう言ってくれる。
 この前までは、キスをするまではあまり視線は合わなかった。合っても、そっと逸らされることが多々あった。
 葵だけでなく他の人に対しても目を合わせて喋っている光景はあまり見かけなかったので、きっと人と正面から目を合わせて話すのは苦手なのだろうと思っていた。
 だがキスをしてから、山吹は葵の瞳を積極的に見詰めてくる。もっと近付きたいという気持ちを隠すことなく、むしろ葵に訴えようとしているかのような行動だった。
「健気〜……良い彼女の鑑」
「茶化さないでよ、私は本気だから」
 野山に揶揄われて、少し気恥ずかしそうにする。そんな山吹は確かに健気に映った。
「もし何かあったらちゃんと言って欲しい」
「うん」
 頷いて、照れたように山吹は笑った。その笑顔は少し照れくさそうで、可愛いと素直に思えた。
(俺は変わらなきゃいけない)
 ノアにばっかり気を取られて、他の誰も意識していなかったこれまでの自分ではなく。好きだと言ってくれる人を大切に出来る、守れる自分にならなければいけない。



 部活が終わると山吹と一緒に帰る。
 それは三日もすれば習慣のようになっていた。
 ノアと一切逢わずにいる時間は山吹によって埋められているようなものだった。
 彼女が出来た途端に、友達ではなく彼女ばかり優先するようになる。なんてクラスメイトの誰かぼやいていたけれど、まさか自分がそうなるとは思わなかった。
 男子なのだから!と山吹を自宅まで送り届けようとするのだが。山吹は山吹で葵の家の近所にあるコンビニに行きたいと言って、葵を送ろうとする。
 なのでどちらの家の前まで行くのかは、交代制になった。
 今日は葵の家に側に行く番だった。山吹はこちらに来るといつもコンビニで何か買い物をして帰るらしい。
 なのでせっかくだからと葵も山吹に付き添ってコンビニでホットスナックを買って、店の前で食べているところだった。
 駐車場には車はなく、店に面した道路が見渡せる位置だった。ちらほらと近所の人や、自分と同じく学校帰りの学生が通り過ぎる。
 二人でほかほかの肉まん、山吹はピザまんを頬張る。綿毛のような湯気が上がっていく。
 寒さに震えそうな中、ほかほかのあったかい肉まんに手元や胃袋が温められる。真冬の肉まんは特別美味しい。
 山吹の吐息も真っ白で、目が合うと葵の気持ちに同調するように細められた。
 思っていることが伝わっているのかも知れない。そんな期待に、鼓動が大きく鳴る。
 ノアが相手ならば、何も言わずともきっと伝わっている。言葉以外の部分でノアは葵を理解し、感じ取るのが上手かったからだ。
 だから葵もそれを自然なものとしていた。理解されるのは当然とすら心のどこかで思い込んでいたのかも知れない。
 だがそれは何も当たり前ではない、特別なことだったのだと。山吹への気持ちの裏で、苦みと共に理解してしまう。
(やだな)
 山吹といてもノアを思い出す。ノアだったら、なんて比べても無駄なことが過ってしまう。
 ノアが近くの居すぎたからだ。
「あ、あの人」
 山吹が何かに気が付いて、葵の服の裾を引っ張る。
 目線の先には秦野がいた。こちらに気が付いたらしく、手を振ってくれる。
 会釈をすると、その後ろから予想外の人物が付いてきていた。
「ノア……」
 掠れた声で喉から溢れた。到底ノアの耳に届くような声量ではなかったはずだ。けれどノアはこちらを見た。
 そこに表情はない。まるでそこには何もないかのようにこちらを一瞥すると、大人しく秦野に付いていく。
 秦野はノアが付いてきていることを確認するように振り返っては、楽しげに何か話しかけた。それにノアは綺麗な、作り込まれた笑顔を返した。
 友好的なものに見えるだろう。秦野はテンションが上がったように、身振り手振りで何かを示している。愛想の良いノアは秦野の隣に並んで、それに耳を傾けている素振りをしている。
「彼女がいるんじゃないのか」
 そんなに他の女性と二人きりで仲良さそうに歩いていて良いのか。
 彼女がいるからといって、その人だけにべったりとくっついていなければいけないわけではない。それくらいは葵にも分かってはいるけれど、あまりにも仲良さそうに態度を取るので、少しかんに障った。
「……あの子、一昨日から学校を休んでいるらしいよ」
 彼女と噂された女子はノアがいなければ部活に来ないようなタイプだった。
 ノアの彼女になったならば、わざわざ部室に顔を出すまでもない。ノアに直接話しかけられる、二人きりになるきっかけだってたくさん作れるだろう。
 だから部活に来なくなるのは、ある意味当然の結果だろうと思っていた。
 しかし学校に来ない、というのはノアの彼女であるかどうかとは別の問題だ。
「別のクラスだから知らなかった」
「私も今日知ったんだけど、あの子行方不明になったとか、病気が見付かって入院したんじゃないかとか、色々言われてるみたい」
「行方不明って……この辺りだとすごく嫌な噂なんだけど」
「連絡が取れないんだって。親は、娘は入院したって言ってたらしいんだけど。何処の病院なのか、病名は何なのか言わなくて。入院してるかどうかも怪しいんだって。親同士が仲が良い友達が泣きながら、話してたって噂」
 親が入院しているというなら、それが事実ではないのか。そう安直に思いたいけれど、その辺りは行方不明者が何人か出ている土地だ。
 まして入院している場所も、病名も言わないとなると、少し疑った見方をしてしまいそうになる。
 考えすぎだ、妄想だと一蹴されるのを願いたいけれど。葵はこの目で、異様な現象を知っており、それは行方不明として世間で噂になった。
「……あいつ、自分の彼女がそんな状態なのに何やってるんだ」
 秦野と親交を深めている場合ではないだろう。そもそもどうして秦野なのか、葵が秦野の話をした際、彼女を小馬鹿にしたように聞いていたのに。
「きっと彼女だなんて思ってないから、平気なんだよ」
 山吹は憂鬱そうに目をそらしては、ピザまんに齧り付いた。小さな唇がそれを咀嚼している姿は小動物みたいだ。
 可愛らしいと思う。自分とは全然違う、小柄で細くて儚そうで守りたくなる。
 けれどノアは、彼女だと主張していたあの子に対してそんな気持ちにはならなかったのだろう。
(たぶん、誰にも)



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