春の終わりを待って  覚醒 8




 ノアが乗り込んできたのは、その夜だった。
 お互いの家を訪問する際、葵は事前に連絡を入れるが、ノアは突然やってくるのも珍しくなかった。
 だからだろう、玄関のインターフォンが鳴った時に予感がした。もしかしてという考えは両親の笑い声に確信へと変わった。
 部屋から出てリビングに行くと案の定ノアが両親と和やかに喋っていた。こうしていると実に温和そうな美少年だ。中身はたちの悪い暴君だなんて、誰も思わないだろう。
 葵が来たと気が付くとノアは双眸を細めた。それは笑顔にはほど遠い、激情を滲ませた、威嚇のような瞳だった。
 けれど口元には笑みがある。
 笑顔が脅威に繋がるなんて、今の今まで知らなかった。
 正面からそれを向けられ、ぞっとするほどの圧力が背中からのしかかるのを感じる。両親には背を向けてこちらに一歩ずつ近寄ってくる度に、圧力は高まっていく。
(怒ってる)
 それは憤怒とも言えるだろう。
 ノアが外見よりずっと大きく膨らみ、明るい色彩の姿が黒く深く染まっていく錯覚に襲われる。
「彼女が出来たってね、おめでとう」
 両手を広げて大袈裟な態度を取る。声音は明るく、眼光を裏切る。
 背後で両親が笑顔を見せている。それは穏やかな祝福に満ちたものだ。
 ノアとの対比に、自分が見ている光景が底知れぬ恐ろしさに塗り潰される。
 目の前にいるのは得体知れない化け物ではないか。
 取って喰われるかのような妄想に、喉を締め付けられるような錯覚に襲われる。
 立ち竦んでいる葵の眼前に来ると、ノアは笑顔を張り付かせたまま部屋に戻るように手で促した。
 二人きりになりたいのだろう。
 だがこのまま二人きりになって良いのか、混乱する。
 必ず何かが起こる。恐ろしいものが待ち受けているに違いない。
 けれど抗うだけの気力は湧かず、両親に心配をかけたくないという気持ちが先に立った。
 両親たちにとって二人は「仲の良い友達」でしかないのだから。
「さっきおばさんに聞いたよ。可愛い子だって。山吹なんだろう?」
「なんで……」
「彼女はずっとおまえを好きだったから。あれだけアピールされていて、分かっていないのはおまえだけだった」
 ノアは両親から離れていくと、次第に声を冷たく戻していった。そしてその口元にあった笑みも消え失せる。
 蔑むような目で葵を眺め、部屋に辿り着くとパタンとドアをやや荒っぽく閉めた。
 二人きりの部屋になり、ノアは腕を組んでは葵を見下ろしてくる。
 実際の身長差よりも遙か高みから、氷付けになりそうな冷たさが降り注ぐ。暖房をきかせた暖かな部屋であるはずなのに、背中からぞわりと寒気が走る。
「部室でキスをして告白だなんて、思ったより熱烈だったな」
(誰かがノアに喋ったんだ)
 きっとあの時部室で山吹と葵を取り込んだ女子の誰かが面白がって広めたのだろう。
「ノアだって」
「俺が何?」
「キスされて付き合ったんだろう?」
 どうして責めるのか、ノアだって同罪だろう。
 そう精一杯睨み返すと鼻で笑われた。
「俺は彼女なんていない。だがおまえは山吹を彼女にしたんだな。母親にまで挨拶に来て、周りから固めるなんて立派じゃないか。反吐が出る」
 掠れるほど低く、唸るようにノアはそう吐き捨てる。
「そんな無駄なことをしてどうする。必ず後悔する。おまえは本当に救いがたいほど愚かだ」
「なんでそこまで言うんだよ。ノアは女の子に興味が無いのかも知れないけど、俺はそうじゃないから!俺はちゃんと!」
「ちゃんと?ちゃんとなんだ。言ってみろよ」
 勢いだけで喋っていた葵に、ノアは鬱陶しそうに顎をしゃくった。途端に言葉が喉に張り付いて、出てこなくなる。
 言えば、それを刃にして斬り返される。そう直感してしまう。
「どうした、言ってみればいいだろう。おおかた、人間として女の子を好きになって?付き合って?結婚して、子どもを持って?幸せになりますとでも言うつもりだろう」
 まさに葵がぼんやりと思い描いていた将来そのものだ。
 そしてそれがいかに薄っぺらいものなのか。ノアに嘲られる前に自分でも察してはいたのだ。
 それでも現実にそう鼻で笑われると、神経が逆撫でされる。
「だったら、なんだよ」
「おまえにそんなことが出来るとでも?そんな薄ら寒い幻想は止めろ。あとで自分の手でズタズタにするだけだ。全部無駄だったと思い知るだけだ」
「なんで、なんでそんな風に決め付けるんだよ!普通の夢だろう!」
「普通でいられると思ってるほうがどうかしてる」
 異質な生まれだと知っている。
 実の親は二人ともいない。母親にいたってはどこの誰かも明確には分からないまま、呆気なく亡くなっている。
 それでも両親はきっと普通に、一般的な暮らしをさせてくれた。普通じゃなかったのは、たっぷりと注がれた愛情だけだ。
 なのに普通ではない。おまえはおかしいと断言されて、自分ではなく親の愛情を馬鹿にされたようだった。
「どうして何もかも見透かしたように言うんだよ!全部分かってるみたいに!おまえの考えが正しいみたいに押し付けてくるなよ!」
「おまえが俺だから、俺たちは同じだからだ」
 まるで自分のものにように、ノアは葵を扱う。そこに躊躇はない。
 だがそれが自分自身と葵を同一視しているからだとまでは思っていなかった。それほど身勝手で、葵の気持ちからかけ離れた認識だったとは、愕然とする。
「同じ、同じなんかじゃない!」
「馬鹿だな、救いようが無いほどに馬鹿だ」
「それはおまえだろう!俺たちは同じじゃない!どこからどう見たってそうだろう!見た目だって、産まれた国だって、中身だって全然違う!」
 全てが異なるとは言わない、好きなもの、感覚、体質などが少し似ている部分はある。けれどそんなものは友達とだって共通点があるのと同じだ。ノアだけが特別ではない。
 大体イギリス人の父親を持ち、幼い頃は英国で育ったノアとは生まれ育ちに大きな違いがある。日常の中でそれを感じることだってあるはずだ。
 なのにノアはどうしてそんなに、同じだと自信満々に断言するのか。
「俺はおまえじゃない!もうおまえとは距離を置く!俺はおまえがいなくても生きていける!」
 決別の宣言にさすがのノアもショックを受けるだろうと思った。
 これまでずっと、葵の隣に固執していたのだ。はっきり嫌いだと言われるより、離れると言った方が葵の決意と、憤りの大きさが伝えられるはずだった。
 けれどノアは動揺するどころか、脱力してはまるで哀れむように深く息を吐いた。
「そうだったらいいね」
 どうしてそんな叶わない願いを口にするのか。
 憐憫が混ざった声音に、葵は蔑まれるのだと嫌でも気付く。
「どうしてそんな風に、俺のことを馬鹿にするんだよ。そんなに俺のことが嫌いなのか」
「嫌いじゃない。だが憎くはある。恨んでいるよ」
「どうして?俺はどうして恨まれているの?俺が忘れてしまったから?それとも忘れているその内容のせい?俺を、どう思っているの?」
 どうしてこんなに執着するのに、何故ここまで辛辣なのか。
 ノアはいつもどこか苛立っている。葵を見ているのに、葵の中にある何かをずっと探している。
 何も持っていないと葵本人が言って、それをノアも実感しているはずなのに諦めない。諦めない気持ちが怒りに繋がると知っているのに、心を乱しても、動じても、諦念には決して至らない。
 ノアにとって葵という人間は一体何なのか。
 理解出来ない。そしてその謎を抱えたまま、流してきた。
 だが今その謎が目の前に立ち塞がって葵を阻んでいる。
「俺はおまえに、死んで欲しいと思っている」
「……死んで?」
「全てを手放して、心置きなく、速やかに死んで欲しい。それが俺の望みだよ」
 ノアは揶揄っていなかった。厳しい表情で誤魔化しのない言葉として告げていた。
 これまでノアに衝撃的なことを色々言われてきた。傷付けられてきた思い出もある。
 だがこれはそれらよりもずっと、深くに刺さってきた。ぶっすりと心臓どころか背中まで貫通する鋭さに息が止まる。
 打ちのめされる葵の前で、ノアは決して言葉を撤回しなかった。恐ろしいほど真剣な眼差しで葵を見詰めている。
(本音だ)
 これが嘘偽りない本心であることを、ノアはその姿勢で証明している。それだけノアにとって重要なものなのだろう。
「……死んで欲しいのに、なんで俺のそばにいたがったの」
「死ぬ、その時に、その瞬間にそばにいたかった」
「殺すつもりだった?」
「そのつもりがあるなら、とっくにしている。だがそれはしたくない。だからおまえがちゃんと死ぬのを待ってる。一人で、躊躇いなく、死ぬのを」
 殺すつもりならさっさとしている。
 それは大袈裟な響きに聞こえてこない。ノアのぶれない信念ならばやるだろう。
(殺したくない。だが死んで欲しい)
 それは殺したいと言われるより、残酷だった。自分の手を汚す価値もないと言われているに等しい。
「一人で死ねばいい?だから他の人に近付いて欲しくなくて、俺を独占しようとしたの?孤独になればいいと思ってた?だからうちの親に変な顔をしていたのも、邪魔だったから?なのに仲良くしてたよな。なんで?」
 一人で孤独に打ちのめされて、自殺でもすればいいと願っていたのかも知れない。
 だがそれならば親に良い顔をする必要などないだろう。むしろ親に取り入って葵の悪口でも吹き込めば良かっただろうに。
(でもうちの親は俺を信じてくれるかも知れない)
 ノアよりも、息子を信じてくれる。きっとそんな親だ。
 だからといってノアが良い子を演じる必要もないはずだ。
「近くにいるためには、ご両親に良い印象を持たれた方がいい。不良だと思われたら、排除されるかも知れない」
「なるほど。でも旅行に出掛ける時とか、楽しそうだったけどな」
「楽しかったよ」
 ノアは今日初めて、苦そうな表情を見せた。
 それがノアの一番大切な真実のようで、先ほどまでの発言を覆して欲しいと切望したくなる。
「だけどみんな死ねばいいと思ってた」
 一瞬の希望を、ノアは踏みにじる。
「……そんなことを考えてる奴と一緒にはいられない。それくらい分かるよな?早くここから出ていけ」
 ノアは酷い、我が儘身勝手暴君だ。
 そんな責めるような台詞はもう言わない。そんなことを伝える相手でもなくなった。
 関わるべきではない。言葉を交わすべきではない相手に成り下がった。
「出ていけ。おまえなんてもう知らない。話しかけない。話しかけてもくるな。友達でもない。おまえにとっては元々友達じゃなかったから、当たり前か」
 友達だなんて思われていなかったのだ。
(死ねばいいと思っているんだから、当たり前か)
 そんな相手は友達だとは思わないだろう。こんな形で真相を知りたくなかった。
「出ていけ。早く出ていけよ!」
 同じ空間に二人きりでいることも我慢が出来なくて、手元にあった枕を投げつける。ノアはそれを黙って受け止めては、溜息と共にその場に落とす。
 そして葵を見ることなく、そのまま部屋を出て行った。
 言い訳も、更にこちらを責めることもない。言うべきことは言った。これで終わりだと決別を理解したかのような、あっさりとした姿だった。
 自分で出ていけと言ったのに、ぱたんと音を立てて閉まったドアにへたり込みそうだった。
(もっと、怒るかと思った……いつもみたいにわけわかんないこと言って、俺を困らせて。だからおまえは馬鹿なんだって言って……)
 一方的に憤りをぶつけてくるかと思った。
 だが去り際の双眸は凍り付いているように静かだった。
 これで良いとノアは思っているのだろうか。さよならだと、理解しているのだろうか。
(死ねばいいって言われたんだ。思われていたんだ。だからこれでいい。そんな奴と一緒になんていられない)
 これが当然の答えだ。誰だってこれでいいと言うだろう。普通の選択だ。
 なのに無性に独りになったような気がして、目の奥がずきりと痛んだ。
 友達も家族も、そしてたぶん彼女のような人もいる。周りには多くの人がいてくれる。
 だがノアがいないという事実が、葵の喉を絞めてくる。嗚咽が込み上げてきて涙が溢れた。
「ぅ……っ」
 怒ってばかりのノアだったけれど、数え切れないほどの笑顔も見てきた。
 出逢ったばかりの頃の、天使のような愛らしい姿から、王子様と呼ばれ始めた最近の綺麗な微笑みまで。葵は目に焼き付けてきた。
 口では毒ばかり、冷たいことばかり言っていたけれど、ノアの隣が心地良かったのは確かだった。他の誰といるより気を抜いて、素直に過ごせる。何も言わずともノアには通じるような気がしていた。ノアの考えは分からないけれど、自分の気持ちは伝わっている。
 そんな気がしていた。
 だが死ねば良いと思われていたなんて。
(裏切ったのは、ノアじゃないか)
 おまえは裏切るから、なんて言っていたノアが葵の気持ちを裏切ったではないか。
(ううん、たぶん最初から。ノアはそのつもりだったんだ。だって俺の名前を呼ばなかった)
 ノアは『葵』という名前を嫌っている。初めて聞いた時に嫌悪を剥き出しにしたほどだ。理由は分からないけれど、ノアにとっては最も受け入れられないもののようだった。
 だから葵の名前を呼ばない。
 呼ぶ必要に駆られた際は、名字で呼んでいた。
 徹底的なその態度に寂しさはあった。けれどノアがこだわるのはそこだけではないから、不満はあっても抗議はしなかった。ノアなりの何か道理があるのだろうと感じてもいたからだ。
(まさか死んで欲しい存在だからだったなんて)
 名前も呼びたくないような相手だったのだろう。
(どうして憎まれて、恨まれたんだ)
 そう思い、すぐに首を振った。
 理由なんてもう悩まない。これ以上ノアについて考えて傷付きたくない。
 どうせどれほど考えても理解なんて出来ない。ノアの信念なんて知らない。ノアだけしか知らない『何か』なんてもうどうでもいい。
(ノアがいなくても平気。何とでもなる。大切な人はいくらでもいる。これからもきっと出来る)
 ノアだけが特別じゃない。
 そう自分に言い聞かせた。
『俺たちは同じだからだ』
 そう告げたノアが蘇ってきてはその場に座り込んで、ラグに爪を立てた。
(なんでそんなこと言うんだよ)
 今更そんなことを思い知らせないで欲しい。
 独りで残され、自分の身体が半分に切り裂かれたような痛みと共に、そんなものを教え込まないで欲しい。
 玄関のドアが閉まる音が微かに聞こえては、目の前が真っ暗になって頭が大きく揺れた。
 世界が半分閉じられた。



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