春の終わりを待って  覚醒 6




 結局ノアは部活に来なかった。メッセージを送ったのだが、それも無視されて返信は来ない。
 ノアに彼女が出来たのかどうか、確認がしたかった。出来れば山吹に告白されたことも相談して、自分の身の振り方も一緒に考えて欲しかった。
 告白に慣れているノアならば動揺せずに対処出来るだろう。
「なんだ、いるんじゃん」
 ノアの家に行くと何の約束をしてなくても、ノアの母は歓迎してくれる。仲の良い友達が来てくれるのはノアも嬉しいに違いないと思い込んでくれているのだ。
 ノアに黙ったまま、部屋に行ってはノックもせずにドアを開けた。何の合図もなくドアを開けてもノアは驚きはしない。
 いつもそうだ。葵が訪れるのをとうに知っていたように、ちらりとこちらを見るくらいだ。
 しかし今日は一瞥もしない。
 葵のものより一回り以上大きなベッドに腰掛けて、スマートフォンを弄っていたらしい。スマートフォンがあるくせに、返信をしなかったのだなと思うと少し苛立ちが込み上げる。
「なんで部活に来ないんだよ。俺のメッセージも返してくれないし」
「部活に行くと鬱陶しいからだ。どいつもこいつも彼女がどうだのこうだの。おまえもか」
 じろりと睨み上げられて、言葉に詰まる。図星をつかれて怯んでしまったのを、ノアはしっかり見透かした。
 大きく溜息をついてはスマートフォンを力なく投げる。
「付き合ってないのか?だってキスをしたんだろう?見ていた人がいる」
「誰だよ」
「野山」
「あの眼鏡。ろくな場面を見てないな。そんなもん見るために眼鏡かけてんのかよ、外せ」
 舌打ちをしてノアは無茶苦茶なことを言っている。
「それでも彼女じゃないのか」
「無理矢理キスされたのに、彼女にしなきゃいけないなんて拷問だろ。鞭打ちの刑にされた方がましだぞ」
(あの女子なら、無理矢理ってありそうだ)
 部活でもずっとノアに張り付いて逃すまいとしているあの子ならば、強引に唇を奪うこともあるかも知れない。
 しかし鞭打ちのほうがましとは、どれほど嫌だったのか。大袈裟ではないとばかりにノアは舌を出して気持ちが悪いとばかりに嫌悪を露わにしている。
「殴り倒してやりたかったんだがな、それこそ人目がある。だが見てるのが眼鏡ならいっそ顔が変形するほどぶん殴れば良かった」
「紳士が言うべきじゃない台詞なんだけど」
「父は紳士になれというが、俺がそれを快諾した覚えはない」
 両親が望むように振る舞うノアは、本心ではそんなものにはなれないと割り切っているのかも知れない。
 性格を踏まえると、そうだろうなと葵は納得してしまう。むしろ表面だけでも紳士を取り繕っているだけ、両親に対して愛情があるのだろう。
「キスしたから恋人になったなんて言い触らしやがってあのアマ。どれだけ違うって言っても聞きやがらねえ。脳みそ詰まってんか。脳みその代わりにプリンでも入ってんじゃねえか」
「だから部活に来ないんだ」
「騒ぎになりそうでウザい。大体キスをしたら恋人になるなんて誰が言い出したんだ。キスにそこまで拘束力があったら、キスが挨拶の国はどうなるんだ。人類は大抵みんな恋人になるってのか。貞操観念が死滅してる蛮族だな」
 不愉快だ、と断言するノアは彼女なんてものはどこからどう見ても欲しがっていないだろう。
 けれど葵は数時間前、緊張した面持ちで真剣に、好きだと言った山吹を思い出していた。
「じゃあ本当に彼女じゃないんだ。ノアも、誰かと付き合ったら考えが変わるかも知れないよ」
「馬鹿なことを言うな。彼女を作るなんて、そんな時間と労力と精神力が無駄になる行為、無意味だろう」
「俺とだけじゃなくて、他の人とも深く関わるのは意味があることだと思うけど」
「必要ない」
 ノアは他人の干渉を嫌う。ずっとそうだったのだが、ここまで言い寄られても一切の妥協もない。
 それどころかいっそう頑なに態度を固くしていくらしいノアに、葵の方が揺れてしまう。
「それでいいの」
「彼女なんて作ってどうする。他人と深く関わるなんて無駄だろう。最初から価値がないと思っていることをわざわざやるか?俺はそんなに狂ってない」
「やる前から無駄だと分かるなんて、それこそ馬鹿じゃないか」
 意味がない、価値がないとノアは切り捨てるけれど。人を好きだという気持ちを無駄だと言う態度は、見ていて気分が良くなかった。
 下心剥き出しの人たちはともかく、純粋にノアを好きだと言ってくれる人もいるだろうに。そんな人たちの気持ちを最初から切り捨てるのはあまりに酷いのではないだろうか。
(俺の気持ちだって、そうして無意味だって捨てるのか)
 あっさりゴミ箱に放り込めるようなものだから、躊躇いなく傷付けてくるのか。
「俺だっていつか彼女が出来て」
「は?彼女が出来て?真っ当に人間として生きていくとでも?」
「そりゃ、そうだよ」
 葵にとってみれば、それは口に出すまでもなく当然の未来だった。
 人はそういうものだろうと、漠然とした感覚で信じ込んでいた。
 両親が、近所の人たちや、画面の向こうの人々がそうして生きているように。自分もまたそんな、ごく自然な流れの一部になって生きていくのだ。
 躊躇いも疑いもない発言を、ノアは鼻で笑った。
「おまえは本当に、どうしようもないほど愚かだな」
「愚か愚かって!やる前から分かってる風なことを言ってるノアの方が愚かじゃないか!なんなんだよ!俺は普通に生きていくし、ノアに従う義理だってないんだから!」
「……そうだな。おまえは何も知らないままだ」
 淡々とした声音が葵を突き放した。
(またそれだ!)
 葵が知らない、不可解な八つ当たりだ。
 あるかどうかも分からない、ノアに対する何かしらの罪か責任を出されると葵はどうして良いのか分からなくなる。
 それを目の当たりにしているくせに、こうして出してくるのは卑怯だ。
「帰る」
 そう宣言して葵は荒々しくノアの部屋のドアを閉めた。
(もう知るもんか!)
 ノアが怒ろうが、拗ねようが知ったことではない。
 ドタドタと荒れる心境のまま足音を立てて玄関に向かうと、異変を感じ取ったらしいノアの母親が顔を出す。
「もう帰るの?晩ご飯は食べていかないの?もしかして喧嘩をした?」
「喧嘩はしてません。ごめんなさい」
 この時間に来たのならば晩ご飯はこちらで食べるのだろうと判断したらしいノアの母親は支度をしてくれていたらしい。がっかりさせたのは申し訳ないが、こんな状況でノアと晩ご飯を食べる気には到底ならなかった。
 ノアの母親の視線から逃げるように、慌ただしく玄関のドアを開けた。
 暖房が効いた室内から、一気に凍えるような寒さの夜へと飛び出して、ぶるりと震える。
 冬になるとノアの家の庭は少し寂しい。褪せた緑が広がる中、薄明かりにぱっと火花を散らせるように鮮やかなポインセチアが咲いていた。
 毎年十二月を感じさせるその花に、クリスマスの訪れを感じてそわそわしていたのに。今年はまだそんな話題も出せていなかった。



(クラスが別で良かった)
 昨夜からノアとは顔を合わせていない。登校時間をずらしてしまえば、クラスメイトではないノアと逢わずにいるのは容易かった。
 部活の活動日だが、部室に行くかどうか数秒悩んだ。けれど最近のノアの行動からして部室には来ないだろうと踏んだ。
 案の定、ノアは一向に姿を現さず、平和な時間だけが過ぎていく。一部の女子にとってはノアが来ない部活は退屈だろう。ノアがいないと分かると大抵はすぐに帰って行くのだが、今日だけはその場に留まっていた。
 何故かというと、ノアと最近彼女になったという噂の女子について盛り上がっていたからだ。
 恋愛の話になるとついついお喋りが止まらなくなるのだろう。真面目に碁盤を挟んでいる葵と山吹は、彼女たちの話し声に眉を寄せた。
 だが注意をしたところで、人数と気迫で負ける。
 それは野山も理解しているので、三人で静かに碁石を動かすしかなかった。
「あの二人って今日も部室来ないけど、デートかな」
「ところ構わずキスしてるって噂だよね」
「そんな人前でキスする?でもそれが出来るってことは、彼氏彼女って証拠なのかな」
 ノアと彼女になったらしい女子の話ばかりだ。しかもキスキスと連呼している。
「そんなにキスが重要なのかな」
 ぽつりと呟くと野山が眼鏡をくいっと押し上げた。
「そりゃ、キスなんて友達やクラスメイトとはしないだろ。彼女だからこそ許される行為だろうし。まして証人が複数いれば、証明にもなる」
「私たち付き合ってますって証拠がキス?まあ、公言してるみたいなものになるのかな」
 ノアにとっては良い迷惑のようだが、彼女になりたかった女子にとっては朗報だろう。キスが恋人の証だなんて思い込みは、かなり都合が良いはずだ。
「証人がいるキスは恋人の証明になるんだ」
「真面目に考えてるな」
 呟いた山吹に、野山は笑っている。そんな真剣な面持ちでするような会話ではないからだろう。
 けれど碁盤から視線を上げた山吹は目つきを鋭いものにした。それは挑戦的で、初めて勝負を申し込まれたような錯覚に陥る。
 今動かしている碁盤の上の戦ではない、もっと別の何かだ。
「つまり、こうだよね」
 山吹は机の端に手を突いて、上半身を乗り出してきた。
 急に近付いた顔に唖然としていると、山吹は一瞬の躊躇いもなく葵の唇を塞いだ。
 時間としてはほんの三秒程度だっただろう。
 だが目の前に見知った女の子の瞳が、焦点を合わせられないほど近くにあるという事実。シャンプーの香り、柔らかな唇。それらが葵の脳内に入り込んで来ては強烈な鮮やかさで広がっていく。
 ぱちりぱちりと、眠っていた花が瞬きと共に目覚めようとしているような刺激だった。
「答えを貰っていないから、私が勝手に決めるね」
「え、あ」
 彼氏彼女になる。
 山吹がそう決意して、それを周囲に見せ付けたのだ。
 そう理解すると、少し離れたところで円陣を組むように集まっていた女子たちが静まりかえっているのに気が付く。そしてその内の一人が「うわ」と零した。
「キスした、したよね!?」
 ねえ!と興奮したように一人が詰め寄ってくる。
 まるでいけないことをしたかのような勢いに「えぇ!?」と驚きなのか悲鳴なのか自分でも分からないような声を上げていた。
「俺は何も言わない」
 野山はそう言って席を立った。
「トイレに行く。一時間は帰ってこない」
「どんだけ頑固な便秘なんだよ!」
「腸が俺に大変なんだと語りかけている。天下分け目の関ヶ原の合戦だ」
「何が東軍で何が西軍なんだ!」
 葵の疑問に答えることなく、野山はそそくさと部室を後にする。
 完全に逃げた体勢の野山について行きたかったけれど、山吹の手前そんなことは出来ない。いくらなんでも逃走するのは不誠実だ。
「二人って付き合ってるの!?」
「いつから!?」
「中学から一緒だったんでしょう?もしかしてその時から?」
「一緒なのは小学生の頃から。付き合ったのは、今日からだよ」
 山吹は女子に囲まれて次々質問されても慌てなかった。ただ少し頬を染めて、はっきり答えている。
 ここで事実を固めようとしているのは明らかだ。
「幼馴染みじゃん!おめでとう!」
「えっ、あ、うん?」
 おめでとうなのだろうか。それはもう決定されていることなのか。
 曖昧な反応をしてしまうのだが、女子たちはそんなものは見えていないのか。本人を抜きに勝手にテンションを上げていく。
 羨ましい!と声を上げる女子に山吹が笑っている。
「どうしてそんな冷静なんだ」
 興奮している場に、当人であるにも関わらず取り残されている葵にとって、山吹の堂々とした態度が不思議だった。
「だってわざとだったから」
 この状況を狙ったのだと暴露されて、負けたと感じた。
 頭を抱えるのだが、周囲は「きゃー!」と何故か声を上げては喜んでいる。
(キスをされたら恋人なのか?それでいいのか?)
 ではノアにされていたことは何だったのか。 



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