春の終わりを待って  覚醒 5




 ノアがキスをしなくなったからといって、特別何か他に変化があったわけではない。そもそも二人がキスなんてする必要なんてなかったのだから、普通に戻っただけだ。
 しかしノアにとってはそうではないのか。時折不満げに唇を尖らせる。
 普段は憎らしいほど大人ぶっているのに、その時だけ幼稚な素振りを見せるのがおかしかった。
 ノアも少しは困れば良いのだ。
「王子様に彼女が出来たって?」
 部活で野山にそう言われたけれど、葵は「へー」としか言わなかった。
 聞き飽きたような噂だ。
 ノアが誰かと付き合ったという話題は、それこそ定期的に流れてくる。我が家のペットが人間の言葉を喋ったと自慢する動画が流れてくる頻度程度には、発生しているのではないだろうか。
 それほど葵にとっては日常に近いものだった。
「クラスで話題になってる」
「ああ、そう」
「キスをしてたって」
「へー」
「俺も見た」
「は!?」
 野山の発言に、さすがに葵は耳を疑った。
 囲碁部だというのに、山吹と野山と三人で机に碁盤ではなくスナック菓子を広げていた。その一つを摘まもうとした手も止まる。
 それは山吹も同じで、目を真ん丸にしてはチョコパイを囓ろうとしていた口を半開きにしたまま固まっていた。
「部活のない日にさっさと帰ろうとしたら、あいつら道ばたでやってた。俺以外にも人はいたのに、大胆だなってびっくりした」
 野山は衝撃を乗り越えた後なのだろう、苦笑していた。
「彼女が出来たって聞いた?」
「聞いてない。知らなかった」
 今朝も顔を合わせたけれど、そんな話題は出ていない。いつも通りの、つんと澄ました綺麗な顔をしていた。
 彼女が出来たなんて言葉どころか雰囲気、気配も何もなかった。本当に、昨日と先週と一ヶ月前とも何ら違わない朝だった。
「今日も部活に来ないみたいだし、昼休みにおまえを確保する日も減ったよな」
「……減った」
 野山に指摘されて気が付く。
 逢っている時間は何の変化もないけれど。そもそも一緒にいる時間は少しだけ減っていたのだ。
 ノアが部活に来ないのは珍しくない、昼休みに顔を見せないのも、気にするような出来事ではなかったのだ。
 けれど彼女が出来たのだという前提を踏まえると、確かに葵との時間は削られていると理解出来てしまった。
「彼女が出来たなら友達にべったりってわけにもいかないだろうしな」
(友達じゃない)
 ノアは葵を友達とは思っていない。けれど野山や山吹にそんな話をしたところで気の毒がられるだけだ。
 だから誰にも言えないまま、一人で鈍い痛みを抱えていた。
「おまえだって、王子様から離れて少し周りを見た方がいい。おまえらって二人で世界が閉じてる感じがするから」
「そうだね。小学校の頃からそんな感じだった」
 世界が閉ざされている。
 そう言われてもぴんと来ない。首を傾げるのだが、野山の苦笑が深くなるだけだった。
(ノアと一緒にいることは多いけど。だからって他の人と距離を置いていたつもりはないし。クラスメイトとだって普通にしゃべって、遊んでた)
 ただノアが隣にいるのが当たり前だっただけだ。
「彼女作れば?」
「は?」
「王子様ばっかりモテて自分は全然モテないとか言うけど、全然そんなことないだろ。おまえを好きだって女子はちゃんといる」
「ちゃんといるって、どこに」
 当てずっぽうで葵を慰める必要なんてないのに。野山も変な気を遣うなと思った。
 けれど笑い飛ばしても野山は曖昧に唸るだけだった。そして奇妙な沈黙が流れる。
 静まりかえった部室の空気が、妙に落ち着かないものになる。何か言わなければいけないけれど、思い付かない。何を言っても乾いた薄っぺらいものとして流れてしまいそうで、下手に話題を出せない。
(一体何の緊張感なんだ)
 視線が絡み合うけれど、どこから緊張が滲み出ているのか分からない。
 困惑していると野山が腰を上げた。
「俺、トイレ行ってくる」
「うん」
 逃げた。そう察するけれど、責められない。
 もしかすると野山が言わなければ自分がそんな理由を付けて立っていたかも知れない。
 山吹は二人きりになると、ペットボトルのお茶に口を付けた。こくんこくんという微かな音がはっきり聞こえてくる。
「葵君、小学校の頃からモテてたよ」
 お茶で気持ちを切り替えたのか、山吹はそんなことを言う。
 涼しい表情を浮かべてばかりの山吹だが、今は少し眉を下げている。山吹もこの奇妙な空気に戸惑っているのかも知れない。
「でもノア君が全部台無しにしたんだ」
「あいつの方がモテたからね。隣にいると女子もノアの方がいいって気付くんだよ」
 どう見ても顔面のレベルが違う。まして猫を被っているノアは女の子に優しくて、紳士的だ。悪ガキみたいな小学生男子たちの中で、ノアは異色だった。
 それが同年代の女の子たちにとってどれほど魅力的かなんて、考えるまでもなく明らかだ。
「違うよ。ノア君が葵君を好きになった女の子に近付いて、自分に気持ちが向くように仕向けたんだよ。中学の時もそう。園芸部だって、ノア君じゃなくて葵君と接点を持とうとして入部した子だっていたよ」
「そんな子いたか?」
 入部してきた女子は大半がノアばかり見ていた。例外だったのは山吹くらいだ。
 ノアを気にしないほど園芸が好きなのだと、その情熱を尊敬していた。
「いたよ。だけど結局ノア君に引きずられた。顔も性格も良いように見えるんだろうね。そんな男の子が自分だけを好きになってくれるような素振りを見せたら、夢を見たくなるんだろうね」
「それは、ノアが普通に接しててもつい女子はノアを好きになるってことだろう?」
「違うよ。葵君に気がある子にはノア君は自分から近付くの。最初から自分を好きな女子には見向きもしないのに」
「そうかなぁ」
 ノアは基本的に外面が良い時は女子にとても親切なので、葵がどうこうは関係が無いような気がする。
 しかし山吹はペットボトルを両手で握っては表情を硬くする。
「葵君に近付く人はみんな目障りなんだよ。だから自分に注目させた。そうして、葵君から目をそらせた。だけど私は違う。私はずっと葵君を見ていた」
(え、俺を?見ていた?)
 何が言いたいのか分からず、唖然としていると。山吹は意を決したように顔を上げて、挑むように葵へ眼差しを向けた。
「好きだから」
「……え、すき?」
 好きとは、そういう意味の好きなのか。
 告白されている、と理解する前に山吹は「どうして」と憤りを滲ませた。
「なんで葵君はノア君と一緒にいるの?あの人は葵君に優しくない。なのに葵君を独占しようとする。どうしたいのか分からない」
「俺だって、分からないよ……」
 ノアがどうしたいのかなんて、隣にいても分からないままだ。ずっと何かに怒っていて、かと思えば葵が隣にいなければ更に機嫌は悪くなる。
 どうしてそんなに横暴なのか。葵とて聖人君子ではない。そんな態度に嫌気が差すこともある。
 けれどノアはたまに葵がそこにいるだけで安心したように笑うのだ。
 それを見ると、どうしてもほだされてしまう。
 そんな関係はきっと歪だ。ノアも葵は友達ではないと断言している。
(俺はノアにとって、何?)
「でもノア君が彼女を作って、二人がそれぞれの道に進むならそれは良いことだと思う。だって二人とも別々の人間なんだから」
「別々の人間……」
「そうでしょう?」
「うん」
 ノアと自分は違う。
 それは当たり前の認識だ。どう見たって異なる、見た目も中身も。
 ノアはハーフで日本人同士から生まれた葵とは環境も価値観も大きく異なっていた。
 それでも何故か、違う人間と言われたことに違和感があった。それどころか、何故そんなことを言うのだと山吹に対して軽く反発したくなる気持ちがあった。
「あの……ねえ。私、告白したんだけど」
「へ?あ、俺っ」
 好きだと言われた事実をすっかり綺麗に忘れていた葵は、恥ずかしそうな山吹に軽く睨まれて我に返る。
 山吹の頬が染まるのに連動するように、心臓が早鐘を打ち始めた。
「俺、そういうの、よく分からなくて!」
「だよね。そうだと、思う」
(思われてるんだ!)
 女子に告白されても、よく分からないなんて情けないことしか言えない、みっともない男だと予想されていたらしい。
 それこそ恥ずかしいけれど、現実になっているのだから言い訳のしようもない。
(返事、返事をしなきゃいけないところだよな!)
 好きと言われたのだから、何かしらの返答を求められるだろう。けれど山吹に対して、何と言って良いものか思い付かない。
(嫌いじゃない、だけど好き?付き合いとか、そんなの、誰とも考えたことなかった)
 小学校からの付き合いだ。部活とクラスが同じだったので、学校という限られた空間ならばノアと一緒にいた時間より長い。山吹の性格もある程度知っていると思う。
 決して嫌いではない。悪い人でもないと分かっている。
 だが彼女として山吹と接せられるかと訊かれると、首を傾げる。
 恋人が欲しいと思ったことがなかった葵にとって。彼女というものは上手く想像も出来ない謎の固まりなのだ。
 それが葵の返答を塞いでいた。
 全身から汗が噴き出している。何か言わなければいけない、答えを差し出さなければ失礼だ。
 だが正解の断片すら葵の中にはない。
「ただいまー」
 押し潰されそうなプレッシャーの中、救いの声が部室に入ってくる。野山は真っ赤になっている二人にばっと駆け寄ってきては前のめりで机に手を突いた。
「もしかして始まったのか!?今日からお付き合いが開始されるのか!?俺が行きたくもないトイレにゆーっくり時間かけて、遠廻りしながら帰ってきた間に!やっと進展したのか!?」
「野山、おまえ、まさかこうなるって知ってて!」
「予感がしたんだよー山吹が仕掛けるんじゃないかって雰囲気を感じてさー。ほら、俺は空気が読める男だから!」
「なんでそんな雰囲気が分かるんだよ!」
「山吹の気持ちなんて見てれば誰だって分かる。分からなかったのはおまえだけだ」
 揶揄うでもなく、ごく真面目にそう言われて驚愕した。
 山吹は普通に仲の良いクラスメイト、部活のメンバーだと思っていた。そこに恋愛感情があるかどうかの判断を、しようと思ったことすらない。
 それは誰に対しても同じだ。彼女なんて存在はノアに関わるものであり、自分には常に縁の無いものだった。
「この感じからすると成功したか?山吹はずっと片思いだって言ってたけど、彼女になれたんだよな?」
 期待する野山から顔を逸らす。落胆されるのを直視出来ない。
「……まだ」
「まだぁ!?え、告白はしたんだよな!?返事をしてないってことか!?」
「野山が帰ってくるのが早いんだよ」
「十五分以上もかかるトイレって、それは深刻な便秘が疑われるんだよ!さすがに嫌だろ!」



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