春の終わりを待って  覚醒 4




「あの神社に大学院生が勉強に来てた」
 ノアの家の外観はまさに洋館、西洋のアンティーク調のような雰囲気を漂わせているけれど、ノアの部屋は外観とは少し異なり、素朴で落ち着いた印象の家具が揃えられている。木目の麗しいそれは小学生の頃からあるもので、年齢を考えると素っ気ない形をしている。
 けれどノアは昔から子どもらしい飾りを一切好まない、大人びたというより妙に達観したセンスの持ち主だった。高校生に上がってようやく部屋の雰囲気が本人に似合ってきたようだった。
 ノアの母が置いてくという観葉植物たちは艶々とした姿で部屋の所々に飾られている。その中でも葵の腰の高さまであるものたちからは、微かな呼吸音が聞こえて来そうだ。それほどに存在感がある。こまめに世話をされているのだろう。 
 独り言に近い葵の言葉に、ノアはタブレットに向けていた視線を一瞬だけこちらに移す。
「あの神社に興味があるみたいだ」
 ベッドに転がり紙媒体の漫画を読んでいた葵は、丁度一冊読み終わったところだったのでぱたりとそれを閉じては四肢を伸ばした。
「物好きだな」
 ノアの声は淡々としており、指はタブレットを操作している。
 葵があの神社を好むのはよく知っており、ノアも付き合いでよく足を運んでいるけれど。特別あの神社を気に入っているというわけではないようだった。
「あそこって蛇を奉ってるだって。知ってた?」
「……蛇ねえ」
「蛇を奉るって珍しくないらしいね。日本にはよくあるんだって」
 ふぅんとノアは気のない返事だ。
 神社の由来や御神体なんてものには関心がないのだろう。
 十歳までイギリスで暮らしていただけに、地元の神様だの何だのを敬う気持ちはないようだった。
 育ってきた環境の違いなのだろうと早々に諦めているのでがっかりはしない。
「その蛇の伝説とか神社の御神体について研究するんだって」
「無駄なことをするんだな」
 ばっさり切り捨てたノアに、ついベッドから身体を起こした。ノアの目はタブレットに向けられたままだ。
「無駄?」
「蛇だの御神体だの、真実か虚偽かも判別出来ないようなものだろ。神主もいないような小さな神社だぞ」
「そうだけど。調べたいんだって」
 雨乞いに応えて雨を降らせた蛇の神様。
 高校生の葵からしてもお伽噺でしかないような話を、秦野はどうやって真面目に研究をするのだろう。
(それが真実だったかどうかを調べるんだろうか)
 大学院生がどんな勉強をしているのかは知らないが、荒唐無稽な話の裏付けを求めるならば大変そうだ。
「御神体でも見れば何か分かるのかな。だけど御神体って見てはいけないものなんだろう?研究のためだったら見せて貰えるのかな」
「さあな」
「去年の夏にあった、あの変な男も御神体を見ようとしてお社を勝手に開けようとしていたし。中に何か特別な力があると思われてるのかな」
 社の扉の鍵を壊そうとしていた背中を思い出す。ぞっとするような光景だった。
「その学生は御神体を見たいとでも言っていたのか?」
「ううん。おばさんと神社の話をしていたくらいだと思う。美人で礼儀正しい人だから、おばさんもよく喋ってた」
「クソお喋りおばさんか。人のことばっかりペラペラ喋りやがって。舌が何枚生えてるんだ。ポールギャグをダースで家に投げ込まれればいいんだ」
「ポールギャグって何?」
「ポールさんの軽快なジョークが載った本だ」
「絶対嘘だろ」
 軽く睨むが「で?」とノアは話の続きを促してくる。
「俺がその人、秦野さんって言うらしいんだけど、に話しかけただけでナンパじゃないかって勘違いをするし」
「ナンパに間違われるような絡み方をしたのか」
「してない!どこかで以前会ったような気がしただけ!だからそう言ったんだけど、それがナンパみたいだって思われたみたいで!」
「会ったことがある?」
「気のせいだったみたいだけど」
「……そんなに見た目が好みだったのか?」
 嫌そうな顔をしてノアがタブレットから顔を上げた。
 そこには、そんな馬鹿馬鹿しいナンパの仕方をするなんてあり得ないという侮蔑が滲んでいる。
「だからナンパじゃないって!好みかどうかって聞かれたら、タイプに近いかも知れないけど!」
 優しげな顔立ちと、穏やかな口調は魅力的なものではあった。彼女がこんな人だったらきっと嬉しいだろうなという、漠然とした想像は抱ける。
 だからといって彼女になって欲しいとは思わなかった。そもそも彼女が欲しいとも思っていないのだから、最初から的はずれだ。
 だがノアは目つきを鋭いものに変えては急に距離を詰めてくる。
「は?誰だその女。明日もあそこに来るのか」
「知らないよ。そんなの訊かない。それこそナンパになるだろ」
 明日もここに来ますか、なんて質問は明日も会いたいのだと解釈されてしまうだろう。
 大体秦野に興味を示すこと自体、おばさんに揶揄われて余計な噂話を流されてしまう。
 葵君が大学院生の女の子を好きになったらしい、なんて冗談でも近所の人に吹聴して欲しくない。
「ふぅん……おまえに好みの女がいるなんて」
「そりゃあ、いるものだろ。ノアにだっているだろ」
 健康な男子高校生なのだから、好みのタイプの一つや二つあって当然だ。
 けれどノアは顔を顰めた。
「はあ?いるわけないだろう」
「じゃあ男がいいのか」
「男なんてましているわけがないだろう!底なしの馬鹿かおまえ!」
「だって女じゃなかったら男だろ?」
 ノアが女が好きだろうが、男が好きだろうが構わない。好きな人がいるならそれで良いだろうと思うのだが。呆れたような目をされるばかりだ。
 どうやらこの話題自体、ノアにとってはくだらないものであるらしい。
 けれど葵にとっては違う、どんな人が恋愛対象なのか、なんてクラスメイトたちとは軽く、それこそ日常的に交わしたことがある内容なのに。ノアとはしたことがなかった。
「ノアはどんな子と付き合いたい?嫌いなタイプなら山ほど聞いたから大体予想はつくけど。きっとタイプなのは大人しく物静かで美人な子だろう?実際はお喋りな子ばっかり寄ってくるけど」
 うるさいのも騒がしいのも、ガキっぽいのも鬱陶しい。どうせ目に映すなら美しい方がいいに決まっている。
 ノアは女の子に対してそんなことを語る。傍若無人だと女性たちからは罵られてしまいそうな中身だが、猫を被っている時のノアはそれを口から出すことはないので、他人の耳には入らないままだ。
 そしてノアの胸の中で留まったまま、彼女になりたい女の子たちはノアに切り捨てられていく。基準にすら入れられることはない。
 それはそれで可哀想ではある。
「外面だけしか見えないクソビッチが次々に湧いてくるな」
「辛辣過ぎる」
「事実だろ。あの年であれだけ尻が軽いなんて、相当なクソ女だぞ。尻から生まれてきたんじゃないか?」
「そんなにお尻のことばっかり言うなよ。ノアはお尻フェチなのか?」
「今すぐその口を下劣な閉じろ。いくらおまえでもそんな台詞を吐き続けて無事でいられると思うなよ。それこそ尻を八つに叩き割るぞ」
「叩いて割れるものじゃないと思う……」
 しかしギロリと睨み付けてくる目も恐ろしさに、それ以上食い下がらなかった。野山はノアを王子様と表現しているが、二人きりの時のノアは王子と言うより魔王だ。
「それと、こんなものタブレットに入れておくなよ。親に見付かるぞ。それともそれが目的か?両親に生温い目で成長を喜ばれたいのか?えっちなことに興味津々の年だものね、なんて生まれたての子犬を見るような目を向けられたいのか」
「精神的にきついこと言うな!それは友達からたまたま送られてきたやつで!消し忘れたんだよ!」
「大切に保存していたみたいだけど?」
「年頃なんだから仕方ないだろ!」
「年上の美人なお姉さん。ショートカットの巨乳。甘やかし系とは、分かり易い傾向だな。正気か?」
「なんで正気を疑われるの!?ノアにはそういう欲求はないのかも知れないけど俺にはあるから!そういうのにお世話になっても健康な高校生男子はおかしくないから!」
 ノアが操作しているタブレットを奪還しては、羞恥心に苛まれながら叫んだ。
 アダルト漫画なんてノアには必要性も関心もないかも知れないが、葵は普通に女の子に興味を示して、性的な成長もしている。
 女性に対して興奮するのは何もおかしくないだろう。
 だがノアはそんな葵の真っ当な主張を鼻で笑った。そして冷ややかな双眸で、葵を睥睨してくる。
 視線が絡まると内臓まで凍えそうだ。ドライアイスよりも冷たいだろうその眼差しに絶句していると、ノアは口角を上げた。
「滑稽だ」
 ぶっすりと、葵の中にその侮蔑が突き刺さる。
 いつもそうだ。ノアは他の人にとっては当たり前である考え方や欲求を蔑む。葵がそれを抱いていると分かると、こうして傷付けてくる。
(酷い)
 だが酷いとノアを責めたところで、ノアには届かない。
「ノアにはそんな気持ちは一切ないのかも知れないけど。俺にはあるんだ。だから泊まりに来た時も、キスとか、そういうことは今度一切禁止するから!」
 ノアには性欲がないのかも知れないが、自分にはある。それをはっきり告げたところで、キスを禁止した。以前から止めさせなければと思っていたのだ。
 丁度良いきっかけであり、キスを気に入っているらしいノアへの仕返しでもあった。 案の定ノアは不意を突かれたように「え」と声を漏らす。
「何故」
「そういうのは好きな人とすることだろ!おまえは俺のこと好きじゃないからしない!」
 心のどこかで否定して欲しかった。
 好きじゃないわけじゃない、なんてノアらしい遠回しで、生意気な否定でもいいから。聞きたかった。
 けれどノアは頷いた。
「そうだな」
 好きじゃない。
 そう肯定されたことに、自分でも驚くほど全身から力が抜けた。
 がっかりしたというより、気持ちがごっそり抜け落ちるような感覚だった。
「だったらあんなこと二度とするな!」
 怒鳴りつける力がどこにあったのか、自分でも分からない。けど思ったより大きな声が出た。
 ノアは返事をせずにこちらをじっと見ていた。
 そこに何が浮かんでいるのかは感じ取れない。複雑に入り交じり、ほんのりと陰っている色は目を合わせていると苦しくなってくる。
「もう、いいだろ」
 話はもう終わりだ、しばらく喋らない。
 そう暗に込めて、葵は新しい漫画を手に取ってはベッドの上を転がった。ノアに背中を向けて、視界から外したけれど。ノアの視線が自分に向けられているのはひしひしと感じていた。



next 



TOP