春の終わりを待って  覚醒 15




 秦野がどうなったのか、ノアは語らなかった。
 ただ跡形もなく片付けだ。誰ひとり何も見付けられないとだけ断言した。
 その通り神社の境内には倒れている山吹以外には人影もない。地面を見ても不自然に盛り上がったところはなく、深夜の静寂だけが漂っていた。
 群青の夜に溶けていく白い息を吐きながら、ノアの言葉に何があったのかおぼろげに察せられるようになっていた。なぜならば、足元の更に下、地面の中にぬくもりのようなものを感じる。
 靴裏越しに土の温度なんて感じるわけがない。ましてその下から自分の感覚に応じるような何かがあるわけがない。
 けれど自分の意識は頭の中だけでなく、土の下にも淡く存在していた。
 それが秦野の末路を内包している。
 目を閉じて大きく息を吸い込むと、秦野の顔も声も記憶から投げ捨てた。
 それは終わったものだ。
「……こんな時間に外に出てきて大丈夫なのか?」
 葵の両親は就寝していたけれど、ノアの両親まで寝室に籠もっていただろうか。
 尋ねるとノアは肩をすくめた。
「ギリギリ寝ていた、と思いたいな。起きていたところで、外出がバレてもコンビニに行ったとでも言う。おまえと仲直りする方法を考えていたと言えば納得するだろう」
「そっか」
 ノアの両親は日本に引っ越してきてすぐに出来たノアの友達である葵に、大変親切だ。ましてノアが葵の隣にいたがるので、余計に葵を大事に扱ってくれる。
「ノアを宜しくね」と何度頼まれただろうか。
 そんな葵と息子の関係がここのところギクシャクしているのは、ノアの両親も勘付いているはずだ。登校も下校も、休みの日すら姿を見せない。
 声もかけてこないどころかそっぽを向く葵を見ているはずだ。
 葵の両親がノアとの関係を心配したのと同じくらいには、気にしていただろう。仲直りをするのに頭を悩ませて、深夜のコンビニに出掛けたくなる息子の心境も、勝手に想像してきっと許してくれる。
 まして明日、二人は元通り一緒に登校する。ならば深夜の徘徊もうやむやになるはずだ。
「一番の問題はそこじゃないか。山吹さんは救急車を呼んだ方がいいかな。秦野さんに何をされていたのか分からないし。怪我らしい怪我はないみたいんだけど」
「そうだな、道ばたに倒れていたということにして、救急車を呼んだ方がいいだろう」
 しかし神社の境内で倒れていたとなると、また神社に良くない噂が立つ。なので神社から離れた公園のベンチに寝かせた。
 そして公園から少し歩いたところにある公衆電話から救急車を呼んだ。
 山吹の様子は気になるけれど近くで付き添っているのは不安だった。
 神社と同じくらい、葵とノアは怪奇現象や、危険に遭遇しすぎている。もし山吹が倒れているのをこんな深夜に発見したとなると、何かしら不気味な巡り合わせを持っている人間ではないかと疑われてしまいそうだった。
 しかし山吹を放置するのも可哀想な上に、危険なので。ベンチが見える位置で救急車が到着するのを待って、救急車が来るとすぐさま帰宅した。
「山吹さんの意識が戻ると、俺が秦野さんに呼び出されてナイフで切られていたところとか。この世ではあり得ない現象を生み出していたとか、暴露されるんじゃないか?」
「大丈夫だろう。どうせろくなことは喋らない。そもそも目の前で起こったことを喋って、誰が信じる」
「そりゃあ……夢みたいな話かも知れないけど」
「悪夢を見た、それだけだ」
 それが現実であることを知っているのはもう二人だけになった。そして二人は真実を告げるつもりはない。
(山吹さんには悪いことをした)
 彼女は巻き込まれただけだ。出来れば何事もなく、それこそただの夢だったと忘れてくれないだろうか。
(彼女になった?かも知れないけど、でもその話もしなきゃ)
 君の彼氏にはなれない。
 それを山吹に伝えなければいけない。
 曖昧な態度で、恋人になったとも、なっていないともはっきりとした返事も出来ていない。流されていた自分を反省して、山吹に怒られても、幻滅されても、けじめを付けるつもりだった。
 だが山吹は翌日もその翌日も、学校に来なかった。
 どうやら救急車で病院に運ばれた後、支離滅裂なことを叫んでは酷く取り乱しているらしい。精神的にとても不安定で、親ともまともに会話が出来ないそうだ。
 山吹の友達が電話をしても、泣き叫んで何を言っているのか聞き取れないまま。母親が電話を代わっては泣きながら通話を切られるらしい。
 葵が電話をかけても、一度たりとも繋がりはしなかった。メッセージの返信もなく、山吹からは完全に拒絶されていた。
 おそらく山吹は変質者に遭遇したのではないか。その際に何かされて心を壊したのだろう。なんて下世話な憶測が校内で飛び交っていた。
 気分の悪い醜悪な噂だが、本当あったことなど言えるわけもない。
「あんなものを見たんだ。そうなってもおかしくない」
 ノアは淡々としていた。
 葵が気を失っている間、何が起こっていたのか知っているのはノアだけだ。そのノアが同情するほどのものが、繰り広げられていたのか。
 綺麗に元通り静かだった境内しか知らない葵には、返事のしようもなかった。
「可哀想にな、山吹」
 部活に行くと野山はそう口にした。
 碁盤の向かいは強敵だった山吹ではなく、歯牙にも掛けない程度の能力しかない葵なのだ。まさに歯ごたえのなさを感じているだろう。
 片手間に碁石を動かしても勝てるような勝負だ。自然といつもならばここにいるはずの存在を思い出してしまうらしい。
「そうだな……俺に何か出来ればいいんだけど」
 山吹には気の毒なことをした。彼女は本来無関係だったはずの被害者だ。
 最低でも謝罪するべきだろう。だがメッセージも電話も繋がらない以上、他に出来る手段なんて直接会いに行くくらいだ。けれど異様な光景を目前にしたかも知れない彼女に接触するのは、不安定な精神を更に崩すかも知れない。
(忘れてくれていたらいいんだけど)
 漏れ聞こえてくる噂が本当だとすれば、それは難しいのかも知れない。
「まさか王子様が何かしたわけじゃないよな?」
 野山は声を潜ませて、葵にだけ聞こえるように言った。ちらりと上目遣いで窺ってくるその視線には、恐れのようなものが混ざっている。
「なんで、ノアが関わってくるんだよ」
 ノアは部室にはいない。女子に呼び出されてどこかに行ってしまったからだ。
 葵と共に自然と部室に戻ってきたノアに、女子の一部が取り巻いてはまた新しい人間関係を作り出そうとしていた。
 ノアはうんざりしていたけれど、優等生の顔をしている間はきっとそうして入れ替わり立ち替わり、誰かに絡まれていくことだろう。
 それに関しては自業自得だと思っているので、同情もしない。
「王子様が、山吹におまえとは付き合うな。ろくなことにならないって警告していたらしいぞ。山吹が怒ってた」
「ああ、うん」
 山吹からそれは聞いていた。ノアから嫌なことを言われたけれど、気にしないと毅然としていたものだ。
 思えばその時点で山吹から距離を取るべきだった。
 けれど当時の自分は何も分かっていなかった。自分のことも、ノアのことも、この世のことも。
(結局、ノアの言っていたことは正しかった)
 山吹にとって自分は疫病神のようなものだ。
 ノアも山吹がこうなってしまう日が来るかも知れないと思って、警告してくれたのかも知れない。山吹と共にノアに苛立っていたけれど、振り返れば親切だったくらいだ。
「ノアは何もしないよ」
「いくらなんでも、そこまでじゃないか。無理があるよな」
 野山はそう言いながらも釈然としないようだった。
 ノアについて野山は元々少し厳しい見方をしていた。猫を被っている姿しか見ていないはずの、出会ったばかりの頃から何か疑っているような節があった。
「野山はどうしてノアが苦手なの?」
「えー、あいつが怖いから。おまえの近くにいると睨んでくる時があるし」
(そんなことしてるのかよ)
 葵に関わり、葵が大切に思うかも知れない相手を、ノアは好まない。あっさりさっくり気軽に死んで欲しいからだと今ならば分かる。
 未練に繋がるものは全部目障りなのだろう。友達など、まさに未練の元になりかねない。だからずっとノアは葵を独り占めするように動いていた。
 しかしクラスメイトと仲良くなるのも阻止されると、さすがに孤立して寂しい。加減して貰いたいものだ。
「それになんか人間離れした空気がある。顔が良いとか、そういうのは全く別で、なんか……変な感じがする」
 野山は自分でも何と言って良いのか迷っているようだった。
 だがその迷いを超えても口から出てきた直感は、野山にとって気のせいだと無視出来なかったものなのだろう。
「野山って……」
「なんだよ。偏見だって言うのか」
「違うよ」
(聡いなと思ったんだよ。だけど鈍いなとも思う)
 ノアはおかしいと感じるのに、目の前のものには何も感じていないようだ。
 もしかするとノアより異質で、人にとっては脅威であるかも知れない。野山が葵を見る目はただのクラスメイト、友達の一人というような親しみが滲んでいた。
「人には好き嫌いがあるもんな」
「そうだよ」
 無難な台詞で野山から同意を引き出しては、真っ黒な碁石を摘まみ上げた。



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