春の終わりを待って  覚醒 14




 咲くことのない樹の近くで、葵は倒れたまま目覚めなかった。俯せの体勢のまま微動だにせず、その手の甲にはナイフが刺さっている。
 ナイフを引き抜くと傷口からは血が溢れた。しかしそれはすぐに止まり、真っ赤な傷口もみるみるうちに塞がっては新しい皮膚が張られ、元々の皮膚にすぐさま馴染んだ。
 完全な再生が行われる。
(意識がない時の方が、身体は自然と再生するか。人間としての意識が邪魔をしている)
 どうしても人間でいたいらしい。
 去年、あの男に殴られた傷を治すことも自力で出来たはずだった。けれど葵は思い付きもしなかった。だからノアが口の中に舌を入れて、促してやったのだ。
 葵は未だにあれが何だったのか理解していないようだが、身体はちゃんと再生してくれた。
 いずれ意識がある状態でも出来るようになるだろう。
(自分が何者であるのか受け入れられたのならば)
 これから葵は目を覚ます。
 その時、受け入れるだろうか。
 拒絶を想像しては砕けそうなほど奥歯を噛み締めた。
 そうしなければ震えてしまいそうだった。
「このまま綺麗に死んでくれないかな」
 もう目覚めることなく、この土の中に沈んでくれないだろうか。
 ここは二人が生まれた土地。故郷のようなものだ。
 懐かしさと共に、未だに二人の気配が残っている。葵が頻繁にここに足を運ぶのも当然だ。ここは二人がいるべき場所なのだから。
 こうしている今も、ノアの胸中は千々に乱れては己の境遇を呪いたくなる。
 哀しいほどに、狂おしいほどに恋しいこの地に還りたいのに、人間である以上どう足掻いても元に還れない。
「還りたいよ。こんな歪な肉の器ではなく、桜として。どこまでも自由で、幸せに充ち満ちた、あの誇らしい花に戻りたい」
 戻りたい。と呟きながら涙が溢れてきた。
 こんなものが流れていくのも、人間だからだ。流したところで塩の混ざった水では、養分にもならない。枯れるだけだ。 
 こんなものが自分から出てくる。
 なんて無様で醜い。
 たまらない気持ちになり、葵を抱き上げる。ぐったりとした肉体に、嗚咽を殺した。
 こんな形になりたくなかった。
 自ら動けなくとも、どこまでも地に根を這わせた、高く高く枝を伸ばして空を仰いだ。こんな肉の器では花も咲かせられない。人を喰わねば、養分を取らねば花としての本能も朽ちる。
 再び花を咲かせるにはどれほど喰わねばならぬのだろう。こんな醜悪なものを吸い取って、人の恐れを引き寄せて、それでも尚肉の器から抜け出せない。
「呪わしい、忌々しい身体。一つにすら戻れない」
 泣きながら葵を抱き締めて、生きている葵の気配を全身に感じる。
 二つに別れた身体を嘆きながら、こうして抱き締めて葵を感じるとそれでも歓喜が湧き上がる。
 奇異な体感に深く息を吐きながら、葵の気配の全てを辿っていると、否応なく生まれたばかりの樹が意識に入る。
 瑞々しい枝葉は真冬の夜に凜然と広がり美しいけれど、さすがにこのままにはしておけない。
 いずれ人目に付く前に、証拠を隠滅しなければならない。葵の気配を辿って枝葉まで感覚を繋げる。そして樹の内に取り込んだ枯れた肉体の形を把握する。
 力を込めて肉体を縛り上げては骨を折り、肉を千切っては砕いていく。人間の形を壊しては水分を完全に吸い取る。その上で骨まで粉々に砕いてはカラカラに乾ききったそれを包み込んで土の中へと潜っていった。
 羽ばたくように夜空に伸びた枝はするりするりと穴に戻る生き物のように土に還っては、まるで何事もなかったかのように樹の全てが埋もれた。
 しかし不自然に盛り上がった土が残されてしまう。それが気になり、ひょろりと柳のような枝を一本出しては、土の表面をならして引っ込めた。
 コミカルな動きは水族館で見たチンアナゴのようだが、あそこまで滑らかに動けるのは養分を吸い取ったばかりだからだと思うと、怪異に違いはない。
 微かに空気が動いた気配がして腕の中を見ると、葵の瞼が震えた。
「……ノア?」
 目を開けた葵はぼんやりと焦点の合わない瞳にノアを映した。その瞳の色は見慣れた鳶色ではなく、紅に染まっていた。
 懐かしい色でノアを見詰めては、ナイフが刺さっていた手を持ち上げてはノアの頬に触れる。
「泣いてる……」
 葵の指先が涙に濡れる。瞬きをすると葵の目尻に涙が落ちた。
 それに葵まで切なげに顔を歪める。感情が繋がって、混ざっていくのが感じられた。
(目覚めたのか)
 ようやく繋がった。
 それは願い続けてきたはずなのに、引き返せない場所に来た、何かを捨ててしまったという理由も見えない喪失感がノアの瞳を更に潤ませる。
「ノア、ごめん」
「何が?」
「……ずっと、ノアがしてきたことだと思ってた。でも去年、あの男に何かしたのは俺だったんだ」
「おまえがそう思っているのは分かっていた。それに六年前は俺が全部したから、おまえがそう思うのは仕方がない」
 出逢ったその日にアパートの塀を壊したのも、六年前の誘拐犯を喰ったのもノアだ。だから葵がノアだけが異質であり、何かしらの超常現象はノアが行っていると思っても当然だった。
 人間でいたいならば、そう思うしかない。
「俺、人間じゃなかったんだね」
「そうだな」
 残酷な事実に葵は泣き出すかと思った。けれど予想に反して落ち着いていた。それどころか苦そうに、笑みを浮かべる。
 それは大人びた、諦めの混ざったものだった。
「全部思い出したか」
「ううん、ほとんど分かんない」
「おいっ」
 ノアの安堵と、殺しきれなかった罪悪感をあっさり打ち返し、葵はさっぱりした様子でそんな返事をする。
「俺が人じゃないことは分かる。何かしていたことも。でもそれくらい。すごくぼんやりしてるんだよね。夢より遠い、思い出そうとしても、全然出てこないんだ」
(それはおまえが思い出したくないからだ)
 忘れたかったものを、ずっと封じ込めておくために、無意識に思い出すのを止めているのだろう。
 全部思い出せと迫りたい。だが無理矢理本能を引きずり出して葵が壊れるのが怖かった。
 煩悶するノアの腕からゆっくり起き上がり、葵は周囲を見渡した。
「秦野さんは?山吹さんは?」
「山吹は気絶した。どこにも怪我はしていない。あの女はどこかにいった」
 葵の意識がどこまであるのか。樹を生み出したことは意識の内に残っているのか。
 確かめるように葵の反応を窺うのだが「そうなんだ」と呆気ないものだった。
(思い出したようで、思い出していない)
 自分が人間ではないことは理解しているけれど、意識を落とした後に何をしてしまうのか。自分の行いがどのような類いであるのか、葵はまだ把握していない。
 人間として生きることにしがみついているかのようだ。
「俺、足首を切られて、手にナイフが刺さってたんだけど」
「治っているだろう」
 葵が自分の足首、アキレス腱の辺りを触っている。逃げないように腱を切られたのだろう。
 秦野という女もぶっ飛んだ頭をしているものだ。他人の身体を切るなど、真っ当な暮らしをしている人間が考え付くような行為ではない。
(あの血族はやはり気が狂ってるやつばっかりだ)
「ノアが治してくれたの?」
「おまえが自力で治していた」
「どうやって?」
「さあな。痛いのが嫌だから、無意識に治したんだろう。それだけの力がさっきまであったんだ」
 説明をしても葵は首を傾げている。
 人を喰って養分が満ちていた。その分自分の身体を再生したのだと言ったところで、秦野の結末を覚えていない葵には納得出来ないだろう。
「……俺、蛇じゃないね」
 皮肉っぽく葵は呟く。
 蛇と連呼していた秦野に、葵は僅かでも自身と蛇を結び付けただろうか。
(いや、ないな)
 根本的に異なることくらい、目覚めてなくとも感じ取れるはずだ。
 それでもノアを見上げてくるのは、ノアを自分と同じものとして認識しているからだろうか。
「もっと別のものなんだ」
「もう識ってるだろう?」
「だからノアは俺を一度も葵って呼ばないのか」
「馬鹿馬鹿しい、信じられない名前だ」
 初めて葵の名前を聞いた時は目の前が真っ暗になって、現世の全てを呪いながら殺し尽くしたくなった。
 自分たちの本性を歪めて、人間の器に無理矢理詰め込んだだけでなく、葵だなんて似て異なる名前を付けたのだ。
 それは本性をすり替えながら封じるのと同じだった。
 ノアにとっての最大の屈辱がその名前であると断言する。
「だけど俺は嫌いじゃないよ。母さんがつけてくれた名前だから」
「そうだろうな……」
 葵と呼ばれている子どもから感じるのは、いつだって親愛だった。
 信頼している両親から、愛されている実感。幸福に包まれている子どもに名前に関する抵抗はなかった。
 だからこそ正せなかった。悔しくて、恨めしくて、その分葵に腹が立った。ずっとずっと、怒りが抑えられなかった。
「ノアは俺を殺して自分も死んで、一つに還りたいんだろう?だから俺が死ねばいいと思ってたんだ。やっと分かった。さっきまで分からなくて、ショックだったよ」
「勝手にショック受けてろ」
 冷たく言い放ちながら、死ねばいいと告げた時の葵を思い出す。
 信じたくないと傷付いた表情に、ノアもまた動揺していた。衝撃と苦しみが伝わってきていたから尚のこと、痛みが残された。
 だが撤回も誤魔化しもしなかった。
 どうしようもないほどに強く願う、思いだ。分かれ、思い出せ。
 狂おしい願望は膨らみ続けて、弾ける寸前だった。
(いや、あの時弾けたのかも知れない)
「でも俺、死にたくない」
「家族が恋しいか」
「うん。ノアだってそうだろう。だから俺と一緒に生きている。おまえが先に死んで、俺を引きずり込みに来ることだって不可能じゃないはずなのに」
「そんなことをしてみろ。おまえは嘆くだけでなく、怒り狂うだろう。まして俺に対してだ。なんで俺が自分に対しての怒り、憎しみを感じながら、おまえの嘆き、苦痛、喪失感まで味わわなきゃいけないんだ。俺はおまえの感覚に引っ張られるんだぞ」
 葵を引きずり落として殺しても、自分の精神が壊れる上に、過不足なく一つに戻れそうもない。そんな悲劇にしかならない選択など端っから頭になかった。
「ノアは、俺が嫌なことは嫌なの」
「嫌だよ」
「でも嫌なことをするだろう?」
「俺にも嫌なことはある。おまえが嫌だと思う気持ちより、俺が嫌だと思う気持ちが勝った時は言う。当然だろう」
 むしろ葵に対して常に苛立ちと憤りを抱えているのだ。少しでも表に出さなければ気が狂う。
 それに葵は多少毒づかれたところで「あー、またか」と軽く流している。大体いつもそうだ。
 ノアが何か言っても口先であしらうのだから、見方を変えれば随分と神経が図太い。
「おまえが心底許せない、嫌だと思うことは極力したくない。だからおまえは幸せに、何一つ未練無く、安らかに速やかに死ね」
 それがノアが最も幸せになれる選択だ。
 葵は目を丸くした後に、噴き出した。
「ははは何それ!無理だよ!未練無く安らかに死ねって!それって死因が老衰とかじゃない限りあり得ないんじゃない?あと百年くらいかかるよ!」
「早く死ねって言ってるだろ」
 無茶は承知だ。
 ここまで人間でいることにこだわり、執着した葵が。悲哀も憎悪もなく、安心してすっぱり死ねるタイミングなどある訳がない。
 それでも祈ってしまうのだ。
 一つの命として存在していたあの頃が、あまりに満たされていたから。
「無理無理。あと百年くらい付き合ってよ。そばにいるんだから」
 離れられるわけがない。
 それは確かめるまでもない、当然の未来だった。



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