春の終わりを待って  覚醒 12




 心臓よりも深い部分、脳よりもずっと奥、精神の遙かな広がりの中に脈動を感じた。自分のものではない、生まれた時から感じていた別のものだ。
 それはいつも淡く、掻き消えてしまいそうなものだった。
 揺らぎ、瞬き、時には息を潜めるように微かになる。
 けれど今は皮膚を食い破ろうとするかのように激しく鼓動を叫び、この肉の器を突き動かした。
(起きた)
 目覚めたのだ。
 そう気が付くと身体は自然と導かれていた。
 肉体を形成している細胞がどんどん生まれ変わっていく。人間の身体は皮膚は四週間、血液は四ヶ月、骨の細胞は四年で生まれ変わるという。
 だがこの脈動に合わせて、肉体は瞬く間に新しいものへと切り替わっていく。見た目は同じであっても、中身は丸ごと別のものへ変化する。
(そう、ようやくこの時が来た)
 生まれたその瞬間から待ち侘びていた。
「ここまではっきり舞い踊るなんて」
 導かれた先では、夜の帳が下りているというのに視界には数多の光の粒が煌めいた。それらは蛍のようにも見えるけれど、蛍よりもずっと小さい。肉眼で確認出来るほんの数ミリ。見ようによっては光る粉雪が宙を漂っているようなものだった。
 これまで小さな光がふわふわと幾つか、まるで幻のようにちらつくことはあったけれど。数え切れないほどの光が満ち溢れる様など一度たりとも目にしたことはなかった。
 この幻想的な光の前では、鳥居に張り巡らされていた目くらましのまじないなど、あまりに無力なものだった。
(この息吹が見える以上、あんなものは役に立たない)
 常人ならば視界を隠されるかも知れないが、光を感じられるものにとってはあんな子ども騙しは通用しない。
 光は参道を進むとその気配を濃くした。
「やはり、咲くには足りないか」
 最も多く光が密集している場所には一本の木が生えていた。
 まだ背は低く、枝振りも覚束ない。けれどその幹だけは異様に太い。
 その中心には人間の顔があった。
 一人の女が恐怖を貼り付けて幹に埋もれていた。大きく開いた口の中には木の枝が入り込んでいる。口だけではない、耳にも細い枝が差し込まれて、肉体の奥まで侵食していることだろう。
 そこから養分を吸い上げられている真っ最中だ。どくりどくりとまだ動いている女の心臓の脈が、枝から感じられる気配でほんの僅かに伝わってくる。
 女は眼球だけでこちらを見た。まだ意識があるらしい。
「さすがはあの忌々しい血族の一人だ。簡単には死なないらしい」
 常人ならばとうに枯れ果てている、そうでなくとも正気ではいられないだろうに。女はまだ完全には発狂出来ていないらしい。
 しかし養分として吸い上げられている事実を、意識がある状態でずっと感じていなければいけないというのは。逆に残酷なのかも知れない。
 葵は近くに俯せで倒れていた。呼吸をしていることは背中の動きから分かる。
 そうでなくとも生きていること、さしたる重大な怪我や狂気に襲われていないことはすでに感じ取っている。
 気を失っているだけだ。
「っ……」
 風に紛れてしまいそうな呻き声に、ふっと視線が引き寄せられた。
 境内に元々ある木の一本に、山吹が縛り付けられていた。驚愕のまま凍り付いている顔は、葵と木に取り込まれた女を凝視している。
 瞳にはおぞましいものを目撃した恐怖と、信じたくないという抗いが真っ暗になりそうなほど塗りつけられている。
 だがそれでもまだ正気が残っていた。
「気絶すれば良かっただろうに出来なかったか」
 何が起きたか、山吹は目の前で見てしまったのだろう。
 それでも現実を否定しきれずに、目を開けていた。
 葵がそこにいたからか。もしそうだとすれば恋心はあまりにもむごい。
「だけどもうギリギリだな」
 正気を保っていられる境界線が、擦り切れそうになっている。
 ぶるりと震えた眼球に顔を近付ける。仄暗い瞳孔を覗き込んだ。
「目を閉じた方がいい。何も分からなくなった方が楽になれる。これは幻だ、君は混乱して夢幻を見ているだけだ。そうだろう。だってこんなものはあり得ない」
 あるはずがない。
 繰り返すが、眼球はまたぶるりと震えただけで、瞼を下ろさない。
「言葉だけじゃ恐怖に勝てないか。仕方がない。俺は喰ってないんだ」
 嘆息を漏らしては恐怖の目を掌で塞ぐ。瞼を下ろさせると、山吹は素直に従った。
 おそらく気を失いたいとは願っていたのだろう。けれど彼女の矜持、もしくは恋心がそれをかろうじて阻んでしまった。
「可哀想にな」
 初めて、山吹に対して哀れみを抱いた。凡庸な、けれど気丈な女の子が巻き込まれるにはあまりにも度が過ぎる怪異だろう。
(だから関わらない方が良かったんだ)
 何度も警告したのに。
 気を失った山吹の拘束を解いて、その場に横たわらせてから改めて、芽吹いたばかりのものにそれと向き合った。
 秦野はまだ目を開けたまま、涙を流しながら空中を凝視していた。泣けるということは、まだ意識も生きている。
「さて、どうだ。これはおまえが目覚めさせたんだろう。お望み通りだった?それとも願いとは別のものを引きずり出してしまった?」
 話しかけると瞳孔が収縮した。話を聞く能力も残っているらしい。これは愉快だった。思わず舌も滑らかになる。
「だが見てみろ。こんなにも美しいものを生み出した。枝振りはか細く、頼りない若木ではあるけれど顕現したのは素晴らしいことだ。これまでのあいつならこうして幹を得て枝振りをしっかり見せ付けることなんてなかったんだから」
 地中から根を這わせ、その先端でもって人を捕らえて引きずり込むのがせいぜいだった。その方が人目に晒されず確実に養分を取れるので、効率的ではある。
 だから選択としてそれは正しかったのだろうが。本来の姿からはかけ離れた有様だったのだ。
 本来ならば、これが有るべき形だ。
「子どもの頃はもっと喰っていた。言うまでもないか、おまえは調べたんだろう。神隠しが起こった頻度を」
 物腰柔らかに、和やかな態度でノアに会いに来ては葵についてあれこれ聞きたがった女はその瞳に嗜虐的なものを宿していた。
 葵が異質なものであると確信している。隠しているだろう葵の尻尾を掴んでやると、貪欲に探りを入れてきた。
「昔の方が多かった。それはそうだろう、まずは魂のようなものを作って、その上更に肉の器を作ってそれに詰め込むんだ。養分はいくらあっても足りなかった。ましてこの世に生み出されても、自分と周りとのひずみを隠すためにも、養分は必要だった」
 常に無意識に根を這わせて養分を摂取していたのだろう。
「だけど人間として育てば育つほどに、人としての意識が強まってしまうんだろうな。養分を取ることを忘れて、人としての意識に塗り潰されていった。産まれる前を忘れて、人間に成り代わろうとしていた。去年なんて、人間一人食い切ることも出来ずに囓った程度で止めてしまった。養分にしようと思ったものの意識も奪えず、結局手放した」
 神隠しが騒がれ続けると、世間がおかしな方向に歪んでしまう。
 それは幼少期、ろくに物心もついていない頃から察していたのだろう。本能か、それともそういう知恵だけは最初から回っていたのか。
 なので神隠しだけでなく、養分にした人間の意識を狂わせて他人に始末をさせた。交通事故に遭わせれば、少なくとも死亡原因は明確であり、不可思議な現象で次々人が死ぬ禁忌の地のような扱いはされなくなるだろうと、甘い認識をしていた。
(そしてそんな甘い認識もすでに持ち合わせていなかった。惰性で動かしていただけだ)
「あいつは無様になった。人間らしくなってしまった」
 ノアと再会してからも、人間らしさは削り取れなかった。
 本人がそれを望んでしまったからだろう。醜悪な肉の器にしがみついていた。
「だがそれも、もう終わりだ。あいつは自分が何者であるのか思い出しただろう。こうも顕現すれば、すぐに消えることもない」
 樹としての形を生み出してしまえば、これまでのように瞬時に土に戻り全てを隠しきることも出来ない。本人がその目に映し出すことだろう。
 己が生み出したものを。
「そんなに泣くなよ。おまえが自分の身体を使って、こうしてあいつを目覚めさせてくれんだ」
 ノアがどれほど切望しても、ここまでは出来なかった。結局求めるばかりで、ノアは自ら動かなかった。
 もし葵に真実を突き付ければきっと泣き叫び、傷付き、恐怖に怯えて、自我を壊してしまう。その様を直視する自信がなかった。
 引きずられて自分もまた、壊れてしまいそうだった。
 その弱さを、この女が身代わりに引き受けてくれた。
「おまえが会いたかった蛇はいたか?一度であっても見えたか?」
 涙を流し続ける秦野に、微笑みながらそう問いかける。
「おまえたちはいつまで経っても愚かなままだ。白蛇?蛇神様?そんなものはいない。蛇はとうに終わったものだ。社の中はがらんどうだった。けれど誰も終わったとは思わなかった。いて欲しいという幽かな願望だけが社を支えていた」
 社の扉の向こう側には御神体がある。
 そう語りながらもそれが何であるのか、誰も知らない。
 誰もあらためないからだ。
 伽藍堂の器をそれらしく奉り、それなりに崇めている。
 それで近所の信仰は薄く保たれていた。
 誰も心から信じ切っていない。頼り切っていない。せいぜい正月にちらりと思い出す程度。春の桜が満開になれば、その下で花見が出来る。それで十分な、お飾りの神社だった。
「だがそれでいい。小さな心の拠り所。気が向いた時に手を合わせて、少しでも心が落ち着けばそれで十分だ。鳥たちが羽を一時だけ休める枝のようなものであれば良かった」
 ああそこにそんなものがあったな。
 その程度の認識で、構わなかった。
「だがおまえたちはいないものを願い、有りもしないものを見続け、呪い、呼び続けた。儚い願いではない、奉るなんて生やさしいものではない。おまえたちは自分の欲望を、喪ったもの、存在しないものを求めて、呪詛のごとき願望を注ぎ込み続けた。伽藍堂には、おまえたちの凝り固まった欲が積もり積もった」
 切なる願いは次第に淀み、叶えられる時を待ちすぎて歯車は軋んでいった。無下にされる思いに憤怒を抱き、何も答えてくれない神を憎悪し始めていた。
「社の中にあるのは、おまえたちの呪われた夢幻だけだ。社を開ければ、箱を取り出せば、蓋を外せば、即座に崩壊する脆い夢。いつまでも保てるはずがない。必然、誰かがそれを手に取った。そして真実を掴んでしまった。何も無いと」
 どうなったと思う?
 秦野の瞳に艶然とした笑みが映っていた。



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