春の終わりを待って  覚醒 11




 まじない、霊体、神様の末端。
 秦野は日常単語のようにそれらを述べる。
 葵にとってそれは漫画の中の世界であり、生きている現実に存在しているものではない。けれど秦野はそんな困惑を前に自らを示すように胸の前に手を置いた。
「私たちの一族は神様の声を聞き、神様に従い、そして時に神様のしもべを探し出しては大切に扱い、道を誤ったしもべを導き、時として使役する。それが出来る力を持っている」
 秦野は堂々とそう告げては、次に神社の社を示した。
「この神社には神様のしもべ、神使がいる。いや、いたと言うべきかな。神使はどうやらここを出ていけないことばかりしているようだから、私が捕まえに来た。良い神使は崇め、悪い神使は捕まえる。それが役割だから。勿論私が神使を欲しがっているからという理由もあるんだけどね」
 神社にいる何かを捕まえて自分のものにする。
 つまり神様のしもべを自分の道具にするということだろう。まるでゲームのキャラのような夢見がちなことを秦野は喋り続けている。
(正気か……?)
 この人はもしかして、すでに狂気に捕らわれているのではないか。
 山吹をこんな風に拘束していることからして、すでに頭がどうかしているとしか思えない。その上で神社にいる目に見えないものを捕まえる。自分にはその力があるだなんて、まさに狂っている。
 警察だけでなく、病院のお世話になるべき人だろう。本人に自覚がないのが一番、危険だ。
「この神社の神使には以前から目を付けていた。私の先輩たちが欲しがっていたくらいだから。だけど先輩たちは神使として使うのではなく、この神使、強いてはこちらの神様の力をお借りして自分の願いを叶えようとしていたんだ。それは何だと思う?」
 尋ねられても到底答える気にならない。
 睨み付けると秦野は肩をすくめた。
「ここには蛇がいるって言ったでしょう?蛇はね、再生と不死の象徴とされていた。そこから何が導き出される?人間はどんなお願いをする?」
 黙り込んでいる葵に秦野は苦笑した。
「亡くなった人に会いたい、死にかけている人を元気にして欲しい。そんな願いをかけたんだ。何度も何度も、繰り返し祈りを込めて、自分を投げ出すように、全てを捧げると誓いながら願った」
 葵の身近な人々は健康で、誰一人亡くなっていない。平穏で健やかな暮らしだ。
 なので死んだ誰かに会いたい、死なないでくれと懇願する人の思いの強さ、苦しさは想像することしか出来ない。それでも我が身が潰れてしまいそうなものだとは、察せられる。
 自分の力だけではどうしようもないと悟ったとき、人間がすがる先は神様しかない。
 そう父は以前呟いていた。それは自分の弟の命日だったか、それとも葵の誕生日だったか、もしくは他の誰かを思い出していたのか。
 常にほかほかと春の日差しのようなあたたかな雰囲気の父が滲ませるには、あまりにも冷え切った寂しげなものだった。
 喪失は納得していても、理解していても、父の横顔を陰らせ傷跡を残している。まして納得出来ない喪失ならば、人はどれほど苦悩するのか。
「けれど神様は答えなかった。だから先輩たちは結局神使を崇めるのではなく、使役しようと試みた。神使の力を奪い、神に近付いてでも願いを叶えたかったんだろうね。けれど神使は従わず、それどころか荒れ狂い、彼らを飲み込んでいった。先輩たちは気が触れて、次々と自ら命を絶った。最後の一人は神使に抗いながら恨みを込めて神社に火を放ち、炎の中に身を投げた」
「だから神社が焼けた?」
「そう。願いが無下にされた人々の恨みと無念、社を焼かれた神様の怒り、それらが混ざり合い、ここは混沌とした場になった」
 真新しい社や慎ましい鎮守の森の若木たち。建て替えられたばかりの場に、様々な思惑と憤怒が淀んだ。
 そう秦野は語りながら周囲を見渡す。
「居場所を失った神様は、怒り狂った神使はどこにいったのか。神隠しをしながら彷徨っているのか。私たち一族は静かに探っていた。けれど見付からなかった。なのに神隠しも怪しげな事故も続く。その内近所の人が畏れて神社はまた建てられることになった。焼けた御神体の代わりに、かりそめの御神体が安置され、社は新しく作り直された。神様はそこに戻るかと思われた。でもそう簡単にはいかなかった」
「……貴方は以前からこの神社に関わりを持って、ずっと調べていたんですか」
 まるで昨日今日来たばかりのような態度で、近所の人に色々聞き回っていたけれど。本当はずっと前からこの神社を調べて、神様に接触していたのか。
「私じゃなくて、一族、親戚たちだよ。情報だけならずっと貰っていたけどね。神主も巫女もいない、そもそも社務所どころか人が始終守ることもない小さな神社だ。近所の人たちにとっては些細な場、不幸があればすがるけれど、平穏ならば気にも留めない小さな神社だ。今だってせいぜい桜がなくなって花見が出来ないと嘆く程度だろう?そんな小さな、掻き消えてしまいそうな神社には、待てど暮らせど神様も神使も戻らない。ではどこに行ったのか」
「消えたんじゃ、ないんですか?」
「消えたのならば神隠しが起こるのもおかしい。何かがいるから、ここは変なんだ、人がよく死ぬ」
 秦野は物騒な内容を軽快に葵へ投げてくる。
「私たちは探り、頭を捻りながら一つの可能性を見出した。この神社が焼け落ちた後、記憶のない女が一人ふらついていたらしい。どこから来たのか、何をしていたのかも分からない空っぽの女。入るには都合が良い。もしくは都合の良い状態にするために、記憶なんて邪魔をものを追い出したのではないか」
 それが誰を示しているのか。
 言われずとも即座に気が付いた。そして秦野が誰を示しているのか、葵に突き付けているのも。
 細められた双眸が表している。
 心臓の音が大きくなっていく。
 これ以上は聞きたくない。
「可能性に気が付いた時には女はすでに亡くなっていた。だが女は子どもを産んでいた。神社に寄りつく、奇妙な子どもだ。葵君は、この神社に来ると不思議と落ち着くんだってね?小さな頃はこの神社に時間があればやって来ていたっておばさんから聞いたよ」
「……それが、何だって言うんですか」
「誘拐されそうになったのもこの神社。去年あの男が君を殴ったのもこの神社。男はその直後に交通事故で命を落とした。それだけじゃない、君は幼稚園児の頃と、小学校低学年の頃に高熱を出して救急車で運ばれたことがあったそうだね。意識を失い、危険な状態だったとか。真夏の出来事だったそうだね」
「ありましたけど」
 四十二度の熱を出して、意識を失ったことが二度ある。子どもの頃はよく熱を出していたけれど、四十度を超えるものは滅多にない。まして意識を失った息子に母は、自分の方が気絶しそうだったと言っていた。
 そんな話まで誰が秦野に教えたのか。あのおばさんだろうか。
 プライバシーの概念が完全に崩壊している。こんな時にまで苛立ちを覚えていると秦野は耳を疑うような台詞を言った。
「君が高熱を出した直後に神隠しが起こってる。しかも二回とも、同じタイミングだ」
 秦野はうっそりと笑った。
「君が喰ったね」
「知りません……!そんなの、神隠しがあったとか!俺はその時、幼稚園児と小学生ですよ!?」
「君に覚えがなくても、君の中にいる何かが喰ったんじゃない?」
「俺の中には何もいない!俺は普通の人間です!」
「君の友達にも、君に特別な能力や、体質があるんじゃないかって聞いたんだけど、答えてくれなかったよ。でもあの子は君の能力を見てるんじゃないのかな。だって誘拐されそうになった時、この場にいたんだろう?君たちは仲良しで、つい最近まで始終行動を共にしてたってね。それは、共通の秘密があるからじゃない?誰にも言えない、信じて貰えないような秘密が」
「俺には特別なものなんて何もありません!」
「この子がどうなってもいい?」
 秦野は思い出したように山吹を横目で見た。木に縛り付けられている山吹は震えながら涙を流している。瞳に焼き付くような恐ろしさが葵にまで伝染してくる。
「山吹さんは関係ない!俺だって何も知らない!全部貴方の妄想じゃないですか!これは犯罪です!無駄な脅迫です!山吹さんを解放してください!」
 強張る指先を握り締めて、ありったけの勇気で叫んだ。
「妄想かどうか、調べてもいいかな?」
「え?」
 秦野は背中に小さなリュックを背負っていたらしい。後ろ手で何かを取り出すとつかつかと近寄ってきては、何の予感もさせずに葵の頬を殴った。
 固い何かに殴られた衝撃で膝が折れて、身体がバランスを崩す。秦野は追い打ちをかけるように葵を真横から蹴った。衝撃は重く、呆気なく土の上に倒れ込んでしまう。
「いっ、ぐ」
 頬と脇腹がズキズキと痛みを訴えては熱くなっていく。口の中に血の味が広がっては吐き気がする。
 秦野は黒い筆箱のような箱を握っている。そのせいで殴られた衝撃が強くなったのだろう。
「こんなこと……!」
「大人しくしてね」
 立ち上がろうとすると秦野に背中を踏まれる。全体重をかけられると、小柄な女性相手でも軽く起き上がれない。手足を無様に動かして、なんとか上半身を起こそうとするのだが、身体の軸を取られているようでバタバタと手足の先が跳ねる程度の抵抗しか出来なかった。
「何を」
 秦野は筆箱のような箱から何かを取り出しているようだった。そして不意にしゃがむ。
 背中から足が退いた。そう感じた時には足首にひやりとした感触があてがわれていた。
「ひ、ああ゛っ!」
 ひやりとしたそれは足首を、アキレス腱をぶっすりと刺しては横に切り裂いた。
 血管が切れてどぷりと血が溢れ出す感触、遅れて火傷をしたような熱さが走っては自分の身体にとんでもないことが起こったという恐怖に震えた。
 痛みは曖昧で、肉が切り裂かれたという感触の生々しさに頭の中がぐちゃりと歪む。
「右足だけでなく、左足も切っておこうね。逃げられると困るから。ああ、こらどこに行くの。片足だけじゃ逃げられないよ」
 子どもが悪戯をしているのをたしなめるような声で、秦野は喋っている。そのゆったりとした口調に目の前がクラクラとした。
(なんだこれ、なんなんだ!)
 どうしてこんなことになった。こいつは何だ。
 問いかけに答えはない。それどころか左足にも冷たい感触が触れた。
「止めろ、止めて!嫌だ!」
 切らないで!という切望は呆気なく打ち砕かれる。
「いや、ああぁ!」
 悲鳴を上げる葵の左のアキレス腱を、秦野は黙ったまま切った。足首から先の感覚すらもおぼろげになったようで、喉が張り裂けそうなほど叫ぶ。
 けれどその声がかんに障ったのだろう、秦野が後頭部を硬い物で殴ってくる。おそらく刃物の柄だろう。
 地面に顔を突っ込んで、土と血の味が広がる。
「静かにしてって言ったでしょう?駄目だよ、もう夜遅いんだから」
 まあ、どれだけ叫んでも外に漏れないようにしているんだけどね。と秦野は意味深なことを続けては葵の顔の横にしゃがみ込んだ。
 白いスニーカーの先が視界に入る。
「ここまでやってもまだ本体は出てこない?拷問が必要なのかな?去年はここまでやってなかったと思うんだけど。誘拐犯はどこまでやった?」
「なに、なにを」
「いつ出てきても大丈夫。準備は出来ているから。ちゃーんと飼い慣らしてあげる」
 箱を地面に置いて、秦野は中から何かを取りだしていた。じゃらじゃらと鈍い金属音を立てながら鎖、絵なのか文字なのか分からないものが書かれた紙、そしてナイフを出すと無造作に紙を刺した。
「まあ、人間としての貴方がどうなるかは分からないけど。どうせならあの女の子にも手伝って貰う?彼女だもんね?それとも友達の方がいいかな?そうだ、去年はあの友達に連絡を取ろうとしていたところで何かあったんだよね。あの子がキーマンなのかな?」
 ねえ?と囁きながら、秦野は葵の手の甲にナイフを突き刺した。
「ぎぃ、あぁ、あ!」
 足は切られた感覚だけで視界には映っていない。けれど手は、眼前でまさに貫かれた様を見てしまった。
 刺された、手を貫通して、地面にナイフが刺さった。
 手が地面に串刺しになり、滲む血より先に脳裏が真っ赤になっては何かが弾けた。
「あんまり被害者は増やしたくないんだけど、しっかり顕現して貰わなきゃ困るんだよね。呼び出してみようか。それにもしかするとあの子も神使に関わりがあるかも知れないし」
 よし、と秦野は気軽に決意して、立ち上がった。
「あれ、もしかしてあのハーフの子の連絡先がないの?駄目じゃない、彼女でしょう?彼氏の友達の連絡先くらい把握しておかなきゃ、もう」
 どぷり、どぷり。
 脈打つ度に血が流れ出していく。痛みよりも血が流れていく感覚が恐ろしい。痛みを上書きして、葵に襲いかかってくる。
(嫌だ、嫌だ、死にたくない、死にたくない!)
 どれほどの出血量で人間が死ぬかは分からない。けれどこのままでは秦野にどんどん傷付けられていく。足、手、次はどこになるのか。
 頭の奥までドクドクと脈打って恐怖が膨らんでいく。
 右手に刺さったナイフを引き抜こうとして左手を持ち上げる。だが秦野が先にそのナイフを引き抜いた。血が溢れ出し、そしてナイフは左手の手首を刺した。
「いっ」
 骨に当たり、上手く突き刺さらなかった。ガツンと骨に金属が当たる鈍さ、秦野の舌打ち。そしてナイフから滴る血。
 それらにふっと意識が遠のいた。
「あ」
 視界が真っ暗になった。
 その代わりに、自分の血が地面に吸い取られていく。
 土に染みて、落ちていく、深く広がっていく。
 雨が滴り川になって流れ落ちていくように。血が土の下を這いずり回って、浸透していくのが手に取るように分かる。
 まるで見えているのように、脳に直接映し出されていく。
 染み込んでいたそれは、秦野が歩く足音を聞きつけた。秦野の足はもう目には見えないのに、どこにいるのかは分かる。その大きさも、重さも、秦野の身体を地面から感じ取ることが出来る。
「――――」
 唇が動いた。
 音が何であったのは分からない。
「葵君、何か言った?どうしたの?もしかして蛇神様のお声が聞こえた?」
 嬉々とした女の声は理解出来ない。
 それよりはっきりしたものが鼓膜ではないものを通して聞こえてくる。
(ああ、そうだ)
 脈動に似た何かが地面から伝わってきた。



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