春の終わりを待って  覚醒 10




(どうしてノアは秦野さんと歩いていたんだろう)
 コンビニの前を通りかかった二人が何か喋っていた図が、いつまでも頭にこびりついて離れない。秦野はにこにこと楽しげだった、それにノアは付き合っていたのだろう、薄っぺらい笑顔を浮かべていた。
 和やかな会話があの二人の間で行われている。
 それが妙な違和感を抱かせた。
 自室のベッドに転がって、ぼんやりと窓を見る。外は真っ暗で月は見えない。部屋の照明が点いているので、まして淡い光である星など見えるわけもない。
(秦野さんはあの神社について調べている。俺が誘拐されそうだった子どもだったことも知ってるから、もう一人がノアだったってことも聞いているはずだ)
 お喋りなおばさんはきっとノアの名前や特徴どころか、下手をすると自宅すら教えているかも知れない。あれだけ特徴的な外見と自宅ならば、すぐに判明するに決まっている。
(ノアは訊かれていたはずだ)
 あの誘拐されそうになった時を、そしておそらく去年のあの男のことも。
 綺麗に白を切っただろうか。
 葵よりよほど、人を煙に巻くのは上手い。動揺も見せずに、それこそ猫を被っているついでに適当なことを言って誤魔化しているはずだ。
 秦野はノアの言い分を丸ごと飲み込んだだろうか。その上で、友好的に接していたのだろうか。
(バレなかったかな)
 ノアが特殊な、異様な能力で誘拐犯に何かしたことを。去年の不審者もきっとノアが電話越しに何か行った。
 目の前にいるだけでなく、電話越しの音声だけでも何かしらの影響を与えることが出来る。そんな事実を知れば、秦野は食い付いてくるに決まっている。
 場所は二回ともあの神社で行われたのだ。
(あそこで)
 葵にとってはたくさんの思い出がある場所だ。ノアは神社が特別好きという素振りはないけれど、葵と一緒ならば必ず付いてくる。そして何時間でも平気で過ごしてくれた。
 他の友達はすぐに飽きて、もしくは呆れて離れていったのに。ノアだけは何をせずとも、会話すらなくとも、そばにいてくれる。
(落ち着くって言ってくれるんだ)
 葵に共感してくれていた。
(……だけど終わったんだ)
 もうノアなんて知らない。関わらない。
 そう決めたのだ。
 死を願っている相手の元に戻るなんて冗談ではない。
 このベッドに勝手に入り込んで、先に眠たくなっては安心しきった顔で寝てしまうノアにはもう逢えない。別離の道を選んだのだから、それで良い。
 逢いたいとも思わない。
 けれどここにノアがいないという事実が、無性に腑に落ちなかった。理性以外の部分がずっと違和感を訴えてくる。
 ノアのいない間、ずっと何かが自分の中から零れ落ちていくのだ。空っぽになっていく部分を山吹や友達、クラスメイト、家族と埋めようとするのに。その度に「違う」と自身が叫んでいた。
 違って当然だ。ノアではないのだから。けれどノアでなければ埋められないものなんて、これからの自分にはあってはならない。
(だから慣れなきゃ)
 ノアがいない暮らしに。
 そう自分に言い聞かせる。冷静な頭の中はそれで良いと納得している。
 なのに何故、身体は、手足は、心臓は納得しないのか。
 真冬の雪原に一人取り残されているようだ。
 目の前が真っ白に埋め尽くされ、凍えていく。指先や足先から凍り付いて、動けなくなる。どうして息を吸い込むと肺が軋むのだろう。身体中を血液と共に酸素が巡って、この身体は維持されている。そうして生きているのに、どうして苦しくなるのか。
「どうして」
 問いかける先はどこにもない。
 目を閉じて、このまま眠ってしまえれば良いのにと思う。眠ろうとすればノアの冷たい視線が蘇っては上手く寝付けず、睡眠時間は減っていくばかりだった。
 しっかり眠りたいのに、と嘆く葵の枕元でスマートフォンが震えた。
 二十三時になろうという時間帯、両親はすでにベッドに入っている。なので眠っているかも知れない二人を起こさないため、この時間はマナーモードだ。
 無音で震えるそれを手に取ると、山吹からメッセージが入っていた。
『誰にも知られずにあの神社に来て。今すぐ』
「え?なんで?こんな時間に?」
 山吹からは最近ずっと毎日メッセージが来ていたけれど。こんなよく分からない一方的な要求をされたことはなかった。
 ましてこの時間ならば、おやすみと挨拶が送られてくる程度だったのに。どうしていきなり外に呼び出すのか。
 らしくない、と返信を躊躇っていると、葵の戸惑いを見透かしたかのようなメッセージが届いた。
『助けて』
 背中を叩かれたように衝撃に、何も考えずにベッドから飛び降りていた。
 他の場所が指定されていたのならば、きっと電話をかけるなり何なり連絡を取ろうとしただろう。けれどあの場所に山吹がいるのだと思うと、居ても立ってもいられなかった。
 両親はやはり眠っているようだったので、物音を立てないように廊下を通り、玄関を開ける。ガシャン、と鍵を掛ける音で目覚めたらどうしようという不安はあったけれど、両親が起きたかどうか確認する余裕はない。
 深夜の空気は冷えており、襟元から入り込んでくる空気に鳥肌が立つ。コートだけでなくマフラーも巻いていれば良かった。
 しかしそんなことを気にしている場合ではない。
 駆け足で神社へと急ぐ。街中は誰もいないかのようにしんと静まりかえっていた。
 ぽつりぽつりと灯る民家の明かりだけが、人間がまだ起きている、生きていると教えてくれる。白けてしまいそうな街灯の明かりに、自分の影がやたら長く伸びていた
「はあ、はあ」
 走り続けて上がった息が真っ白に染まる。神社の周辺には民家はなく、人にも全く会わなかったせいで、異世界にでも繋がっているのではないかという奇異な危機感が迫ってくる。
『助けて』という山吹から届いたメッセージが、葵に警告をしているせいだろう。
 神社の鳥居をくぐるとすぐに山吹を発見した。木の幹にくくり付けられて、口には何やらタオルのようなものを噛まされている。葵を見ては零れ落ちそうなほど大きく目を見開く。
 両手を後ろで縛られているようで、身じろぎもろくに出来ないようだった。
 制服の姿のままで、おそらく自宅に帰る前に捕まったのだろう。
 その隣には秦野が悠然と構えていた。その手にあるのは山吹のスマートフォンだ。
 メッセージを送ってきたのは秦野だったのか。
「いらっしゃい」
「何を、してるんですか?」
 秦野は葵に片手を振る。それは夕方コンビニの前で見かけた時と同じ仕草だ。表情も和やかなままだが、縛られている山吹の横にいるというだけで怖気が震った。
「君を呼び出していたよ」
「俺を、どうして……それより山吹さんを解放してください。警察を呼びますよ」
 人をこんな風に拘束して深夜の神社に縛り付けているなんて狂気の沙汰だ。どこからどう見ても真っ当な行動ではない。
 警察を呼ぶには十分だろう状況だ。かろうじてコートのポケットにはスマートフォンを突っ込んでいる。通報は出来る。
 けれど秦野は首を傾げる。
「警察を呼ぶの?困るなぁ。それは止めて欲しいな。ね?」
 秦野は山吹に同意を求める。山吹は震えているようだった。
 見開いた瞳には涙が滲む。薄暗い参道の明かりに照らされた山吹の顔が恐怖に歪んでは少しでも秦野と距離を取ろうと身をよじる。
 一見怪我はしていないようだが、葵が来るまで秦野に何をされ、どんなことを言われたのか。相当に恐ろしい思いをしたのだろう。
「どうしてこんなことをするんですか!山吹さんを離してください!」
「あんまり大きな声を出さないで。静かにしようね」
 ね?と秦野は葵ではなく山吹に語りかけている。それが脅しになると、十分に理解しているのだ。
(卑怯だ)
「それ以上近付いて来ないでね。私も怖いから、何をするのか分からない」
 じりっと土を踏みしめただけで、秦野は警告をする。力の差ならば秦野に勝てるのではないかと思った、その思考を読み取っているかのようだ。
「貴方に、教えて欲しいことがたくさんあるの」
「……何を。この神社のことなんて、俺は詳しくないですよ」
「六年前に貴方が誘拐されそうになった時のこと。行方不明になった誘拐犯の男に何をしたの?」
「知りません」
 事実だ、葵は何も知らない。
 目に映るものは、巻き付いてきた脈打つ何かだ。それ以外はノアが行った。
 けれど秦野は葵が白を切るつもりだと判断したらしいい。溜息をついて、仕方がない子だとばかりに微かに笑んだ。
 この場には不釣り合いなほど、それは穏やかだ。だからこそ一層歪んでいる。
「この土地は行方不明になる人が後を絶たない。この神社が建ってからおかしなことがなくなった、不幸が減ったなんて嘘。特に交通事故は異常に多い。どうして?他とくらべて特段危険な場所があるわけでもない。見通しの良い交差点も、交通量もさして多くない道路でも、何故か頻繁に事故が起こる。そして人が時折死ぬ。まるでふらりと車の前に身を投げ出すように、引きずり込まれているかのように、人は死んでいく」
 どうして?と問われたところで葵が答えを持っているわけがない。けれど秦野は葵にだけ喋り続ける。
「しかもこれは夏場に多い。夏になると何かが動き出しているのかも知れないね」
「俺に何の関係があるんですか……」
「貴方が誘拐犯をどこかに引きずり込んだ、もしくは喰ったんじゃないかと思って」
「俺は十歳だったんですよ!?大人の男を引きずり込む力なんてありません!まして、喰うなんて、人間を!?」
「お静かに。人肉を喰うなんて行為ではありません。そういうものではなく、そうね、現実ではない領域に引きずり込む、飲み込んでしまうと言った方が分かり易いかも知れない。人身御供って聞いたことがある?生け贄みたいなものね」
「俺はただの人間です」
 まるで葵が人外、まるで化け物か何かだという前提で喋り続けている。
 秦野にはどう見えているのか。こんな平凡な、ただの高校生に何が出来るものか。誇大妄想も甚だしい。
「ただの人間であるはずなのに、貴方の周りでは人が消える」
「俺の周りじゃなく、近所で起こっているだけです。俺が理由じゃない」
 この神社に関係を見出すならばともかく、一人の人間にその理由を押し付けるのは無茶がある。
 だが秦野は人差し指を立てては、愉快そうにそれを左右に振った。
「貴方が生まれる少し前から、神隠しは始まった。そしてそれは今も続いている」
「続いてるなんて、俺は最近聞いてませんが」
 六年前のあの事件が最後だ。六年の歳月は最近に含まれるのか。
「去年の夏に交通事故に遭ったあの男は?神隠しの途中だったんじゃない?私は、交通事故は神隠しの途中なんじゃないかと思ってる。意識を失ってどこかに行こうとする人間が、前後不覚で車と接触してしまうのでは?」
「分かりません。でもたとえそうでも」
「あの男は貴方と関わりがあったでしょう?男が残したスマートフォンの中には貴方とのやりとりが残されていた」
「え?」
「この神社にぽつんと、男は自分のスマートフォンを残していた。画面は割れていたけれど、中身は無事だったからデータを確認は出来たよ」
 あの夏の夜、男がふらりと神社から出て行ったのを無視して、ノアと共にそのまま神社を後にした。スマートフォンが割れたせいで男ともみ合いになったけれど、そんなこともすっかり忘れていた。
 というより早くその場から離れて、男とも無関係になりたかったのだ。これ以上、奇妙な噂の種になりたくなかった。
「あの男も貴方に詰め寄っていたね。残念ながらカメラのレンズはずっと明後日の方向を映していたけど、音声はきっちり入っていたよ。あの男に殴られていたみたいだけど、あの後どうしたの?何かあったんでしょう?」
「覚えてません」
 どこまで音声は入っているのか。
 男とのやりとりは強烈に脳裏に焼き付いている。なので記憶を掘り起こすことは容易い。
 秦野に知られるとまずいものばかりが思い当たる。
「貴方はあの男に殴られて、スマートフォンを奪われて、友達に電話をされていた。そんなショックな出来事、忘れられるかな?あの男に何が起こったの?どうしていきなりスマートフォンを落とした?呻き声が聞こえたのはどうして?苦しんでいたはずなのに、何故車道に身を投げ出したの?」
 詰問しながら秦野はじっと葵を注視する。蛇が獲物を睨み付けて、毒がたっぷり滴らせた牙でいつ噛み付こうか、タイミングを計っているようだ。
 ぎらついた嗜虐的な視線に縫い止められる。
 寒さに指先が凍り付きそうだったはずなのに、今は全身が燃えるように熱い。それどころかコートの下でじわりと肌が汗ばんでいた。
「どうしてスマートフォンの中身を確認出来るんですか?」
 あの男と何の関わりがあったのか。
 もし仮にあったとすれば、何故葵と出会ってすぐに、男のことを聞かなかったのか。
 知り合いならば誘拐未遂の事件より、あの男の方がよほど気になるのが心情だろうに。
「あれはね、哀しいことに、本当に心から嘆かわしいことに、親戚の一人だったの。何の才能もなく、ただオカルトに傾倒しているだけ。才能も知恵もないことをコンプレックスにしているくせに、人を羨み妬むだけの凡人」
 秦野は初めてがっかりしたように肩を落とした。
「親戚……」
「似ていないでしょう?似ていないの。あれは私たちのように、まじないも知らない、霊体も見えない、神様の末端を捕まえるどころか触れることも出来ない。何も出来ない男だった」
 無様な人間。
 うっすらと口角を上げた秦野は、自分にはそれが出来ると宣言したも同じだった。



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